天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(6)

 世界の中心に座する帝宮は、皇帝の居城に相応しく広大な敷地を有する。
 中央に政の中心になる皇帝宮、唯一神ラーマナを信仰する神官達の総本山とも言える大神殿が置かれ、その周辺に東西南北の皇妃に与えられる離宮が、それ以外にも近習の者や警備兵の詰め所など、大小さまざまな建物が散在している。
 宵の口── 本来ならば一日の仕事を終え、家庭では暖かな団欒が、盛り場ではにぎやかな声で盛り上がる、そんな時分。
 しかし、帝宮とその周辺を取り囲む城下町にそうした暖かな火の気はない。そして── 人が動き回る気配も。
 人はいるはずだが、まるで何かを恐れるように姿を潜めている。
 明かり一つ灯らないそこは、夜の闇の中、ぽっかりと大きく大地が口を開けているようにも見えた。
 その闇の中心部…皇帝宮にある一室に、男の声が響いた。張りのあるその声はまだ若い。
「…どうやらこちらの思惑通りに事は進んでいるようですよ、陛下?」
 部屋の奥まった場所に置かれた豪奢な椅子── 玉座に腰を下ろした人物は、その声にゆるりと視線を持ち上げた。
 向けられた先はすぐ傍ら── 本来ならば皇帝と特別に許可を与えられた近習以外は皇妃でも立つ事が許されないそこに、人影がある。
 天井近くに切り取られた僅かな空気穴から差し込む月光が、かろうじてその輪郭を浮かび上がらせる。それは、さながら『影』。
 全身を周囲の闇と同化させるような黒い布で覆ったその姿を見つめ、皇帝と呼ばれた人物は僅かに怪訝そうな顔を見せた。
「── 思惑……?」
 低く呟かれた声は、微かに掠れ、長い事言葉を発する事がなかったかのようにぎこちない。
 その言葉に我が意を得たりとばかりに、傍らの男は頷いた。
「そうです。皇女ミルファと皇女ティレーマ── 生き残っている二人の皇女が一箇所に集まろうとしているのですよ」
 言いながら咽喉の奥でククッと楽しげな笑いを漏らす。
 それだけを聞くと悪意など一切なく、単なる事実を述べたに過ぎないように聞こえる。しかし、次の瞬間口調は一変した。
「…小細工をする手間が、省けたというものだ」
 それは無情にして酷薄な呟き。そして男はもはや隠す必要などなしとばかりに、ばさりと姿を覆っていた布を床へ放り投げた。
 表情を隠していた布が取り払われ、あらわになった瞳が闇の中で禍々しく赤く光り、唇が残酷な笑みを浮かべる。
「さて── 陛下。一つ余興をご覧に入れましょうか」
 言いながら、男は感情の抜け落ちたような顔で自分を見上げる皇帝へ笑いかける。口調は再び丁寧なものに戻っていたが、何処か道化師めいていた。
「長く生き別れだった皇女姉妹の涙の再会── それだけでも一つの見物でしょうが、それだけでは詰まらない。より劇的になるよう演出いたしましょう」
 くすくすと笑いながら、男はパチリ、と指を鳴らす。
 その瞬間、二人の前にあった無人の空間に所狭しと巨大な影が生じた。その全てが人のニ回り以上は大きく、しかも人には在り得ない姿形を有している。
 その数、少なく見積もっても五十は下らない。
「これなる脇役達が、主役の二人の舞台をより一層魅惑的なものへと彩ります。…もっとも、大根役者ばかりですから脚本通りに動かず、勢い余って主役を本当に言葉どおり『食って』しまうかもしれませんが?」
 おどけた口調でさらりと物騒な事を口にして、男はその手を持ち上げた。掌を異形の影に向け、不可思議な言葉を紡ぐ。
「── ハーレイ・スフィラ・メイ・オルファー・ラーナ・オルディル・イ・エピレ・テア・ディアス」
 すると影が立ち尽くす床一面に、周囲の暗がりよりも濃い闇が広がった。キィン、と微かな耳鳴りのような音が生じる。

 キィン…
 キィ……キィン……

 不規則に響く少々耳障りな音。それは次第に高まり、大きさを増してゆく。

 キィン…キィィン…キィン……キィィィィィン──!

 終いには悲鳴のように切羽詰った音が響いた瞬間、男は支配者の笑みを浮かべて高らかに告げた。
「…メイ・オティア・ロト……!」

 ドンッ!!

 激しい衝撃が空間を走る。それと同時に、床から闇が一気に吹き上がった!
 その場にいた影達は、たちまちその闇に包み込まれた。一体、また一体と闇は飲み込み、内へと取り込んでゆく。
 そして── 全ての影が飲み込まれたかと思うと、唐突に空間は元の姿に戻った。
 貴重な石を敷き詰められた床には傷一つなく、先程までの光景がまるで幻だったように天井から降る月光に冷たい光を放っている。
 …そこにはもう、異形の影は一つもなかった。
 堪えきれないように男の口から笑い声が漏れる。それは次第に大きくなり、やがて哄笑へと変わった。
「── さあ、舞台は始まった。二人の皇女の運命やいかに…? …フフ、…ハハハハハ……!!」
 狂気じみた哄笑は、まるで呪詛のように静まりかえった玉座の間に陰々と響き渡り、そして…消えた。

+ + +

 境界の街・パリル。
 そこは帝都と西領を分かつ境界線上の真上に立つ、小さな宿場街である。
 周囲は見晴らしのよい、なだらかな丘陵地帯。四季を通じて天候も気温も安定している事もあり、かつては余暇を楽しむ為や療養を目的として訪れる人間も多い場所だった。
 そこに住んでいる人間は決して多くはないものの、そこから西へ少し下った場所に地方神殿が建てられたのも、そうした人の流れの多さを考慮した為だと言われている。
 帝都でもあり西領でもあるパリルは、形式上は帝都の管理下に置かれてはいたものの、その特殊性により、実際には帝都でも西領でもなく、街の人間による自治が主体となって日々が営まれていた。
 帝都から西領への通り道に当たり、過去に幾度も帝軍による拠点の一つとされながらも、今まで荒廃せずに現状を保てているのはその為である。
「…最近、平和だよなあ……」
 パリルの青年を中心に組織された自警団の青年は、西へと沈む夕陽を眺めながら同様に街の入り口を守る友人に話しかけた。
「この間まで、しつこい位に兵士がここまで来ていたのに、ここ二月ばかりはさっぱりだ」
「いい事じゃないか。皇帝陛下も、流石に聖女様にまで手を出すのは良くないと思い直されたんじゃないか?」
「…そうだといいけどさ」
 しばし、沈黙。
 何処かそわそわする青年に、友人は何なんだと視線を送る。それを受け止め、青年は意を決したように口を開いた。
「俺、この間神殿に行ったんだよ」
「…はあ? 神殿? …何でまた」
 彼の口から飛び出した予想外の言葉に、友人は目を丸くする。言外に『変な奴』と言っているようなその表情にムッとなりつつも、青年は我慢した。
 実際、普通に生活をしている限り、余程ラーマナへの信心がある人間でもなければ、歩いて数刻往復で半日かかる神殿になど行く者はいない。
 その反応が返って来る事は予測していたものの、一瞬でも『もしや』と勘繰ってくれもしない友人に少し物悲しい気持ちになりながらも、青年は今日こそは告げなければと思っていた事を口にした。
「その── そろそろ、結婚しようかと思って、さ」
「…!!」
 沈み行く夕陽の投げかける光のせいだけではなく、耳まで赤く染めての告白に友人はさらに目を見開き── 次の瞬間破顔すると、口元をにやつかせながらバシッと力任せに青年の背を叩いた。
「…げはっ!?」
「やりやがったな、コイツ!! ははっ、そりゃめでてえじゃないかよ!」
 言いながらもバシバシと容赦なく背中を叩く。彼にとっては祝福と親愛の証だったが、受ける方は堪ったものではない。
「ちょ、落ち着けって、オイ!?」
「これが落ち着いていられるか!? …それで、相手は誰だ? ナタリーかミランダかエイシャか!?」
「テメェ、そりゃお前んちの豚の名前じゃねえかっ!? クリエだ、クリエ!!!」
 容赦ない祝福に加え、冗談にしても未来の伴侶の名に家畜の名を挙げられた青年は、照れ隠しもあって友人へと殴りかかる。
「チクショウ、豚に女の名前なんぞつける変態が……!」
 と、青年が悪態をつけば。
「何ィ!? いいか、豚はなあ、愛情を込めて育てると、そりゃあ美味くなるんだよ!!」
 と、友人が応酬する。
 徐々にそのやり取りは、本来の道から外れていったが、そこに憎しみはない。正しく『平和』の一言で表現できる、遠慮のない友人同士のじゃれ合いである。
 …そんな彼等を見守る夕陽はやがて大地の果てに姿を消して。そしてその日も、平穏の内に一日を終える。


 ── 誰もがそう、信じて疑いもしていなかった。

+ + +

 異変が起こったのは、夜中。
 まだ日付が変わるには少し早いが、パリルの人間の大半が眠りに就いていた時分の事だった。
 今夜の不寝番となった男は、ふと違和感を感じて眉を顰(ひそ)めた。
(…何だ? 今、何か…変な感じが……?)
 きょろきょろと辺りを見回し、しばらく考え込んだ男は、やがて違和感の原因に気付いた。
 ── 風が、ない。
 つい先程まであった快い風が、今は完全に凪ぎ、代わりに心持ち生暖かく感じる空気が淀んでいる。
 いくら夏でもその過ごしやすさで知られる場所である。パリルで生まれ育った男が、異常に感じたのも無理はなかった。
 やがて違和感が不審に、不審が不安に変わる頃── 男の目は、帝都の方からゆっくりと近付いてくる影に気付いた。
 月明かりの下、遮るもののない開かれた場所にその影は目立った。
 動く影は複数。何かと物騒な今の時分、旅団を組んで動く事自体は珍しくも何ともない。だが、その影には普通の旅団ならば有り得ないものが見受けられた。
(── ッ!? な、何だ、あれは……!?)
 まさかと思い、目を凝らしてもう一度確認する。そして見間違いではないと確認した瞬間、男は思わず後ずさり、足を取られてその場に尻餅をついていた。
 尻から腰へと走った鈍い痛みに顔を顰めながらも、目は影から離せない。
「う、嘘だろ……ッ!?」
 やがて口をついて飛び出したのは、幾分上ずった悲鳴じみた声だった。
 幾度も目を擦り、頬を抓(つね)っても、それは消えない。夢ではなく現実なのだと主張する。
 大小様々な影── 最初は遠近感がわからなくなっているだけかと思ったが、実際人よりも何倍も大きいのだと理解する。
 その影に見えた、有り得ないもの。それは── 翼。
 背に羽を生やした巨人など、人間であるはずがない。少なくとも、そんな人間がいるなど男は聞いた事もなかった。
 すなわち── その異形が示す事は、たった一つ。
「ま、魔物だ── ッ!!」
 やがて夜の静寂に、男の絶叫が上がる。その男の声が聞こえたのか、まるでそれが切っ掛けのように、魔物の一団にあった翼を持つ魔物が動いた。
 バサリ、と数度調子を見るように羽ばたかせたかと思うと、次々に空へと舞い上がってゆく。
 高く、高く── やがて遥かな天の高みから地上を見下ろして、その長い腕が天へと掲げられた。
 その手の先に小さな光が生まれたのを男の目は目撃したが、魔物と男のいる場所の間の距離が相当のものだった為に、魔物達が何をしようとしているのかわからない。
 何だろう、あの光は── そう思った刹那。


 …街は、無数の光の雨を受けて燃えた。

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