天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(8)

 案内されたそこは、神殿一角── 毎朝ティレーマもラーマナに祈りを捧げていた祈祷(きとう)の間だった。
 パリルから命からがら逃げてきた人々を一度に収容するには、玄関から入ってすぐにあるこの部屋が一番適当だったのだろう。
 平常時ならば許される事ではないだろうが、この非常時である。唯一の神と崇められるラーマナも怒りはすまい。
 焼き出されてきたせいか、その場の空気は血の臭いに何処となく焦げたような臭いが混じる。
 そんな中で人々は皆、疲労の為か、降って湧いた災難にまだ心が付いていっていないのか、表情を失くした顔で思い思いの場所に座り込み、あるいは横たわっていた。
 空を赤く染めた程の炎を思い出し、今更ながら彼等がどれ程の恐怖を味わったのかと想像し、ティレーマはその顔を曇らせる。
 彼等の受けた痛みを完全に理解する事は出来なくても、疲労感を漂わせた彼等の姿は言葉がなくともその一端を雄弁に語っていた。
(…なんてひどい……)
 同情するだけならば簡単だとは思いながらも、そう思わずにはいられない痛ましい光景が続く。
 多くが神官達の迅速な対応によって応急処置を受けているようだが、まだまだ怪我人はいるようだ。
「こちらです……!」
 人の波を掻き分けるようにして先に歩く老婦人の足取りは、確実に早まっている。
 その後に続いたティレーマは、やがて壁によりかかるようにしている小さな人影を見つけた。
 丁度手当てをしている最中なのか、中年の神官が二人がかりで動いている。やがてその片割れが老婦人とティレーマに気付いてその手を止めた。
「…聖女ティレーマ?」
 何でここに、と疑問を隠さない声を遮るように、老婦人は声をあげる。
「…ディレク! ディレク、しっかりおし!! 聖女様が来て下さったからね……!!」
 その言葉に神官達はぎょっと目を剥き、ティレーマに視線を投げる。
 だがティレーマは彼等の視線を気にする所ではなかった。老婦人の孫── ディレクというらしい── の傷が、あまりにもひどかった為だ。
 瓦礫の下敷きになったのか、左腕は見るからに赤黒い内出血で斑になっている。ただ骨が折れただけとは思えない有様だ。
 しかも反対側の左半身は広範囲に渡って火傷を負っていた。かろうじて肉の薄い胸が上下しているが、ぼんやりと虚ろに開かれたその目は何処も見ていない。
 五歳かその辺りだろうか。どうやら老婦人が一人で背負って来たらしい所を見ると、もしかするともっと幼いのかもしれない。
 どちらにしても、ここまでもっている事が不思議な程ひどい状況だった。
 冷やすにしても今は夏で氷などなく、しかもそれを必要としている人間は山のようにいる。
 神官達はそれでも何とか手を尽くそうと、鎮痛効果のある薬草と冷却効果のある薬草をすりつぶしたものを塗って、子供の苦痛を少しでも軽くしようとしているようだった。
 …はっきり言えば、その程度しかもう尽くす手がないのだ。
 時間の問題── それがティレーマの見立てだった。
 この場には怪我人が山程いる。今でさえ、何事かとこちらを見る人々が後を絶たない。そんな状況で『癒しの奇跡』を使えばどうなるか── 簡単に想像出来る。
 …けれど。

『…── 死ぬ気ですか』

 耳に甦った言葉を振り払い、ティレーマは軽く呼吸を整えると、その場に跪(ひざまず)いた。
 そしてそっと、何とか無事な子供の左手を取る。その手は冷たく、力を感じられない。その事に、ひやりと不吉な感覚を感じ取る。
 もはや死は、この幼い命を肉体から今にも切り離そうとしている──!
「聖女様……!」
 同様に跪き、不安を隠さない顔で見つめてくる老婦人に、一度安心させるように微笑みかける。
 ティレーマとて、自信と呼べるものなど何一つ持っていなかった。力は持っていても、使用を禁じられて来た身だ。使い方を練習する事さえ、した事もない。
 それでも、ここに救う力があるのなら── やれるだけの事はするつもりだった。
「…唯一の神にして、天秤を司る神ラーマナよ。我は御身に永遠の献身を誓う者なり」
 目を閉じ、精神を高めるべく聖句を口にする。
「神よ、我が願いを聞き届けたまえ。この幼き命へ死の翼を授ける事を、今しばらく留める事を我は願い奉るなり……」
 神の御名を唱えずとも、力を行使する事は出来るはずだった。遠い昔、そうして萎れて形を失った花を元通りにした時のように。
 しかしそこで聖句を唱えたのは、ティレーマ自身の気持ちを落ち着ける為だったが、見守る形になった二人の神官を牽制する役割も少し入っていた。
 まだ力を行使するとまで思っていないからか、神官二人はティレーマが聖句を唱えた事で、幼い子供が少しでも苦痛から解放されるように祈りを捧げに来たのだと思ったようだ。
 止めもせずに、逆に彼等も神への祈りを捧げる姿勢を取り、聖句こそ唱えないまでも祈りを捧げている── これから何が起こるかも知らずに。
 ── これから使う力は、摂理に反する力。
 今まで禁じられてきたのは、相応な理由が存在したからに他ならない。
 少し怪我の治りを早くしたり、病の進行速度を緩めたり── その程度ならば、『聖女』だけに限らず、神官の中では多くはないが珍しいほどの力ではない。
 実際、大神殿に入る者の大多数がそうした軽い『癒し』の力を持っている。
 聖女と呼ばれる者が異端とされるのは、その度合いがあまりにも大きすぎるからだ。
 それは言うならば『無』から『有』を生み出す行為。決して遡(さかのぼ)る事なく流れ去るだけの不変の理を覆すが故に、異端だとされるのだ。
 均衡、秩序── それらを司るラーマナの教義に真っ向から逆らうが故に。
 …だが、ティレーマの場合はそれだけではなかった。

 …ドクン……!

 集中が高まると同時に、心臓が一度激しく脈打った。
 びくっ、と小さくティレーマの肩が震える。それはこれから禁忌を自分の意志で犯す事に対しての、一種の戦(おのの)きだったのかもしれない。
 胸の奥底に熱が生まれる。それはすぐさま力へと姿を変え、ティレーマの中で出口を求めて暴れ始めた。
 駆け巡る、熱。今まで封じてきた為か、その暴走は時間と共に激しさを増してゆく。
「……っ」
 内から── 外へ。
 今にも皮膚を突き破って外へと飛び出そうとする力を必死に抑制し、それを手を介して子供の方へ流れるよう仕向ける。それは思った以上に精神力を必要とした。
 少しずつ、少しずつ。
 一度に全てを送っても、相手の身体が受け入れきれないだろう事をティレーマは教えられずとも知っていた。
 健常体であるティレーマでも、気を抜けばどうなるかわからない程に強い力だ。河岸に足を踏み出しかけている幼い子供の心臓が耐えられるとは思えなかった。
 …だからこそ、焦らずに少しずつ。
 流石にその頃になると見守っていた神官もティレーマの様子がおかしい事に気付く。だが、彼等が声をかけようとするのを引き止める手があった。
 先程ティレーマを諌めようとした神官と── 彼の報告を受けて駆けつけた主位神官である。
 厳しい表情を浮かべながらも、口を挟むなと視線で訴える彼等に、神官二人は口を噤んだ。この神殿の最高権威である主位神官に逆らうなど出来るはずもない。
 ティレーマは自ら禁忌を破った。それは当然、何らかの罰則が与えられても仕方のない事だ。
 しかし、だからと言ってここで無理矢理中断させて、不用意に集中を途切らせる危険を、主位神官は選ばなかった。そうしてはならない、そう判断したのだ。
 …そして、それは実際正しい判断だったのだが、今のこの場にそれを理解している者は本人を含めて誰もいなかった。
 そんな事にも気づかない程に神経を集中させているティレーマの努力は実り、やがて子供の呼吸は次第に安らかなものになり、色が変わっていた肌が元の色を取り戻してゆく。
 呪術のように、すぐに目に見えてはっきりとわかる変化ではなかったが、見守る者の目にはそれは正しく『奇跡』に映った。
 ── 人智を超えた、神の定めた摂理を覆す『癒しの奇跡』──……。
 やがて、適切な治療があれば問題がない程になった所で、ティレーマはようやくその手を放した。
 全てを癒してしまうよりは、少しでも本人持つ治癒力を使って治した方が良いと考えたからだ。
「── わたくしに出来るのはここまでです。後は、治療を受けて安静にしてください」
 ティレーマの疲れの滲んだ掠れた言葉に、固唾を呑んで見守っていた老婦人の身体から力が抜けた。
「あ…ああ……」
 その目からは涙が零れ、その手が恐る恐る今は静かに眠る幼子の頬に触れる。もうそこにはいつもと変わらない温もり── 生きている者の熱があった。
 そこでようやく実感が得られたのか、老婦人は喜びを隠さない顔をティレーマに向けると、再び額を床に擦り付けんばかりに下げる。
「ありがとうございます……っ! な、なんとお礼を言ったら良いのか…ああ……!!」
「いえ…礼など必要はありませんよ」
 嬉し泣きする老婦人を抱き起こし、ティレーマは微笑む。その笑顔は何処かぎこちなく、差し伸べた手は微かに震えていたが、老婦人は気づかなかった。
 今、ティレーマの身体の中ではまだ目覚めた力が荒れ狂っていた。先程よりはまだ落ち着いたものの、それでもまだ眠りにつく様子はない。
 目覚めさせたものの、どうやればそれが治まるのか── ティレーマにはわからなかった。
 それが『癒しの奇跡』を中途半端に行使した為なのか、それとも自分の力が強い為なのか…それすらも判断出来ない。
 だが、取り合えず一つの小さな命が救われたのは確かだ。その事は純粋に嬉しく思えた。
 しかし── 問題はここからなのだ。
 今の出来事を目の当たりにし、『聖女』の名を知ってはいてもそれがどういうものかまでは知らなかった人々も、自分の持つ力がどのようなものか理解したはずだ。
 それに対して、どのような反応が返ってくるか── 想像すら必要とはしない。だからこそ、ここの来る前に神官は止めたのだし、それがわかっていてティレーマも力を使ったのだから。
「…すごい……!」
「あんなにひどかった怪我が……!?」
 やがて予想通りに、人々が騒ぎ始める。
 家族や恋人、そして子供── 大切な者を喪いたくないという思いの強さは、どれも同じ。たちまちティレーマの回りに人だかりが出来た。
「あたしのお父さんを助けて下さい…っ」
「妻を、妻をお願いします!!」
「聖女様、うちの子にも…うちの子にもお力を──!」
 救いを求めて伸ばされる、数々の手。その全てに応えなければならないと思うのに、そのどれを取ればいいのか、ティレーマはわからなかった。
 この中の一人を選べば、選ばれなかった人々は焦り、嘆き── もしかしたら暴動まで起きてしまうかもしれない。
 その可能性にティレーマの身体は竦む。

 ── 選べない。

 その時、思わぬ所から助け舟が出された。
「静まりなさい…! 聖女殿が困っておられるだろう」
 口々に訴える人々の声に、静かだが鋭い声が割って入る。
 予想外の所から飛んだ制止の声に、パリルの民も思わず口を噤み、声の主に目を向ける。そこにいたのは、この神殿を預かる主位神官だった。
「…主位…神官様……」
 その声でようやくその存在に気づいたティレーマは、呆然とその名を呼び、慌てて居住まいを正した。
「…申し訳ありません、許しもなく勝手な事をいたしました……」
 そうして頭を下げるティレーマを一瞥して、主位神官は特に何も言わなかった。代わりにパリルの民に対して口を開く。
「皆の要求はわからないでもない。誰しも、喪いたくない者がいる。だが、聖女殿は一人しかおらぬ。そしてその手は二つしかない。皆が一斉に手を伸ばしても、一度に全てを取る事は出来ないのだよ」
「で、でも…!」
「うちの家内も、その子と変わらないくらいひどい怪我なんですよ…!?」
「そうだ、うちのオヤジだって!」
「── まずは体力のない老人や子供、もしくは時間の猶予のない者を優先しなさいと言っているのです。…それで宜しいか、聖女ティレーマ?」
「…主位神官様……?」
 てっきり自らの愚行を非難されるかと思っていたティレーマは、目を丸くする。
 その言い様では、まるでティレーマの行いを肯定するかのようではないか。実際、上位に当たる彼の言葉に、周囲の神官達も当惑を隠せない顔をしていた。
 普段は穏やかな人好きのする笑顔を浮かべている主位神官は、その間、一度も笑顔を見せなかった。常にない厳しい表情でそこに立っている。
 だが、その目はティレーマの途方に暮れたような目と合うと、一瞬だけ和らいだ。
 ── 困った方だ、そう呟くように。
 実際には口にせずとも、決して彼がティレーマの行いを否定してはいない事がそれだけで伝わって来る。
 そしてそれを証明するように、主位神官はティレーマを支援するように更に言葉を重ねたのだった。
「まずは神官に状態を看させます。命の危険に関わると判断した場合にだけ、聖女殿に動いて頂く。── それで納得していただけますかな」
 一方的な言葉に当然ながら、そんな! と、反論が上がる。
 彼等も必死なのだとわかるから、当事者であるティレーマは口が挟めなかった。
 第三者でありながらも、長くこの神殿を預かり、民の馴染みも深い主位神官だからこそ、彼等に意見が出来たのだ。
「…命がけなのは、聖女殿も同じ。生命の危険を知りながらも、自身には何の非もないのに、傷付いた者を救おうとして下さっているのですぞ? あなた方はその献身を、自らの一方的な要求で踏みにじるつもりか……!!」
 一歩も譲らないその一喝は、目の前の事しか見えていなかった彼等の目を僅かながらも覚まさせる力を有していた。
 人々は気圧されたように沈黙し、そしてばつが悪そうな顔で一人ひとり、元いた場所へと帰って行く。
「…ありがとうございます、主位神官様」
 人々が去ってゆくのを横目に見ながら、ティレーマは慌てて立ち上がり、主位神官へ声をかけた。
 彼がいなかったなら、こうもうまく場を収める事など出来なかったに違いない。そう思うと自然に頭が下がる。
 だが、その言葉にようやく表情を和らげると、主位神官はゆるりと横に首を振った。
「いえ、聖女ティレーマ。礼を言うのは、むしろこちらですよ」
「え…?」
 予想外の言葉に、ティレーマは目を見開く。
「で、ですが…わたくしは、禁忌を……」
「確かにそれは神官としては問題があると思いますが…、もしあの子供を前にして禁じられているからと何もしなかったのなら、私はあなたを人として軽蔑していたと思いますからね。それに…この無茶のツケを、あなたは十分払っている」
 そう言ったと同時に、主位神官の手がトン、と軽くティレーマの肩を押した。
「…ッ!」
 軽く上半身を押される程度のそれに、ティレーマの身体は信じられない程に大きく揺れた。
 かろうじて倒れずに済んだものの、足腰に力が入っていない事がそれで露呈してしまう。さっと頬を赤らめるティレーマに、主位神官は静かに告げた。
「『癒しの力』は摂理を覆す力。故にそれを使う者には、それ相応の代償を求められる。…その対価は、生命力、あるいは生命の時間そのものだと聞き及んでおります。それすなわち、替えのきかないもの。失われれば…二度と元に戻らない。つまり下手すれば己の命さえ落とすのに、あなたは幼子の命を優先させた。…あなたの勇気に敬意を表します、聖女ティレーマ」
 それは、ぎりぎりまで自分を追い詰めていたティレーマの心を潤し癒す。
 まだ大変なのはこれからだとわかっていたし、うまく行くかもわからなかったけれども── 必ず成功させたい、そう思った。
 …たとえ本当に、この命を失ってここで果てても。

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