天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(9)

「…パリルが?」
「はい…、どうやら壊滅したようです。原因は不明ですが…残留している要素の様子から考えて、呪術かあるいはそれに類したものによって焼かれてしまったようです」
 それは西へと順調に歩を進める中での、突然の知らせだった。
 出発前の今後の進路を打ち合わせる軍議に向かおうとする所で、ザルームによって齎(もたら)されたその知らせに、ミルファはその眉を顰(ひそ)める。
「── パリルの住民はどうなった?」
「大半はその際に命を落としたようです。おそらく事が起こったのは夜半── 多くは眠っていたに違いありませんゆえ。生き延びた者はどうやらそのまま西へと下り、神殿へ助けを求めたようです」
「神殿というと…姉上のおられる地方神殿、か」
「…はい」
「……」
 ザルームとの受け答えの間にも、ミルファの頭は目まぐるしく働き、その事実をどう受け止めるべきか分析をしている。
 ザルームの言葉を信じるとして、果たしてそれが一体どう今後に影響するのか、考えてもうまく思い描けなかったからだ。
 まだ神殿自体が襲われたのならば理解出来る。パリルに近い地方神殿に、姉── 聖女ティレーマがいるのは周知の事実なのだから。
(近い内に動くとは思っていたけれど…)
 だが、今回の一手は何を意図したものか判別つかない。
 皇帝の狙いは、自分や姉の命だったはずだ。その為に街を占拠するような事は確かに過去にもあったが、その住民に害なす事はまずなかった。
 相手の考えが読めない。それはミルファやティレーマに対する見せしめなのか、それとも他に何か意図があるのか。
 理由がわからないままに、何者かによって帝都に属する小さな街が滅んだ。それも、呪術かそれに類したものによって。
 …これが、敵── 皇帝の背後にいる者の自己主張でなくてなんだと言うのか。
 手の届かない場所で起こった惨事に苦い思いを噛み締めながら、ミルファは今自分に何が出来るかを考える。
「…ミルファ様、いかがなさいますか」
 ザルームの何処か案じるような声に、ミルファは頭の中を切り替えた。事は、もう起こってしまった。ならば── これからそれをどう消化するかだ。
「…取り合えず進むしかないだろう。今更ここから帝都に向かうにしても、相手の出方がわからなければどうしようもない」
 ここから問題のパリルまで、まだ相当の距離がある。かなり北上したとは言え、これから休息を必要最小限にして先を急いでも、ニ日はかかるに違いない。
 ── 姉のいる神殿には、更にそこから数刻。手を伸ばして届きそうで届かない、その距離が歯痒(はがゆ)い。
 そして一体何を意図してパリルを壊滅させたのか、その理由がわからない事に不安と苛立ちが募る。
 だが今のミルファに出来る事はただ進む事、それだけしかなかった。

+ + +

 重傷者の治療が全て終わったのはその日の昼近くになった頃だった。
 いちいち数など数えてはいないが、おそらく十人やそこらではなかったはずだ。
 それでも最後まで微笑を絶やさずに、ティレーマは『癒しの奇跡』を行使し続けた。
 一番最初の頃は荒れ狂う力に流されてしまいそうだったそれが、数を重ねる内に少しずつ加減が出来るようになったのが、不幸中の幸いと言えば幸いだろう。
「…後は、安静になさって下さい」
 最後の一人、壮年の男の傷を治した瞬間、ティレーマの中では一つの達成感のような、晴れ晴れしい気持ちが生まれた。
 …禁忌を犯した自覚はある。それでも今までずっと、『ただ持っているだけ』だった力で人の役に立てた事は、ティレーマにとっては救いになった。
 ありがとうございます、と笑い泣きの顔で繰り返す男の妻を後に、ティレーマはゆらりと立ち上がった。
 明け方から今までずっと働き通しだった身体は、とうに限界が来ていた。今にも意識を手放しそうになりながらも、気力だけで祈祷の間を後にする。
 入り口の外には、やはり今まで自ら治療にあたっていた主位神官が立っていた。
「お疲れ様でした、聖女ティレーマ」
「…いえ。主位神官様こそ……」
 主位神官の労いの言葉に、ティレーマは唇に薄く笑みを浮かべる。
 今回の事は、主位神官がティレーマの行いを見過ごしてくれたばかりか、支援する立場になってくれたからこそ出来た事だ。いくら礼を言っても言い足りない。
「…ありがとうございます。わたくしは初めて…生まれ持ったこの力を、誇らしく思えました」
 ずっと── 重荷に感じていた力。『聖女』の名。それが、今日は誇らしい。
「禁忌を犯した罰は甘んじて受けます。どうぞ、ご処分を」
 疲労の色を濃く漂わせながらも、毅然と面を上げるティレーマに、主位神官は困ったように微苦笑を浮かべた。
「…処分などいたしませんよ」
「何故……」
「そうなると、私も同罪になりますからね。禁忌だとわかっていつつも、あなたが『癒しの奇跡』を行使するのを止めなかった」
 主位神官のその言葉に、ティレーマはさあっと青褪めた。
「それは…! 違います、わたくしが勝手にした事です! 主位神官様は暴動すら起きかねなかったあの場を収めて下さっただけで……!」
 必死に言い募ろうとするのを、主位神官は視線でやんわりと制す。そしてゆるりと首を横に振った。
「どう言い繕っても、私は自分の言葉をなかった事には出来ません。…取り合えず、聖女ティレーマ。あなたは休息を取るべきです。立っているのもやっとの状態で、そんな風に興奮するものではありませんよ」
「ですが…!」
 なおも言い募ろうとした瞬間、すうっと目の前が暗くなった。
(…あ……)
 貧血に似たその感覚と共に、平衡感覚が失われる。
「聖女ティレーマ…!」
 遠ざかる意識の中、慌てたようにこちらに手を伸ばす主位神官の姿が見えた。
(駄目、こんな所で倒れては…また、迷惑を──)
 必死に思考を繋ぎとめようと努力する。しかしその努力は報われる事なく、ティレーマは押し寄せる波に攫(さら)われるように、そのまま意識を手放していた。

+ + +

 パリル壊滅の知らせを受けて、反乱軍の足は幾分速められていた。間の休憩を短くし、可能な限り先へと急ぐ。
 その間も帝軍からの妨害もなく、それが一層ミルファには不気味に思えて仕方がなかった。
 まるで── これから起こるかもしれない出来事の、ほんの幕間に過ぎない、そんな風に感じてしまう。
(…大丈夫。姉上は神官── 聖晶を持って生まれた方だもの。滅多な事は起きないはずだわ)
 そんな風に何度も自分に言い聞かせるものの、心の平安は戻りそうにない。ひたすら嫌な予感と胸騒ぎが心を支配するばかりだ。
 そして事実、ティレーマは力を使い過ぎた事で意識不明の状況にあったのだが、神官については一般よりも知識を持つミルファでも、『聖女』に関してはその詳細を知らなかった為、そんな事になっているとは予想もしていなかった。
 気が急いても距離が縮まるはずもなく、心は苛立つ。この不安が杞憂で済む事を、祈らずにはいられなかった。
 太陽は今日の役目を終えて、ゆっくりと西の果てへと傾いてゆく。また、一日が終わるのだ。
 今日一日でもかなりの距離を稼いだはずだが、一向に近付いた実感を得られないのは、やはりこの身の内に巣食う不安のせいなのだろう。
 今、この場にザルームはいない。念の為に神殿周辺の様子を直接見てきて貰っているのだ。
 ── 進軍を始めてからというもの、無意識にザルームへ頼っているような気がする。心の中では相変わらず、信じ切れていないのに。
 そんな自分が浅ましく感じられて、ミルファは唇を噛む。
 自分は結局、自分の足だけで立ってはいないのだ。立って歩いているつもりでいるだけで── 本当に一人になった時、立って歩けるのかわかったものではない。
 支えられ、手助けされ── そして自分はここにいる。
 ミルファは自分の無力さを自覚していた。無力でも無力なりに、自分の存在する意味を考え続けた結果が、皇帝…父に対する反乱。
 その選択が間違いだろうと進む事を誓った以上、最後までやり遂げるつもりだ。
 もともと、挙兵を決意したのは直接父に会って話をしたいと思った事が最初だが、今はもう、その目的は理由の一つに過ぎなくなっている。
 あの兄の死を境に、ミルファの意識は大きく変わった。
 ── 皇帝になること。
 それが現実的なものになり、逃げ場がなくなった。何しろ、生き残った姉は神官だ。余程の事がない限り、還俗も許されない存在。
 つまり…自分が死なない限り、姉にその重責が回る事はない。
 ずっと、皇帝である父を手助けする者になりたいと思っていた。多忙を極める父を、皇妃として支えた母の姿を間近に見て育ったせいかもしれない。
 けれど── 自身が皇帝になるとなれば話は変わる。

『ミルファが私の補佐となるなら、それは心強い』

 遠い日、まだ優しかった頃の父が冗談混じりに言っていた言葉が、今は心に重く響く。
 あの頃は何も知らなかったから、無邪気にその言葉を嬉しく思ったものだ。しかし、あの言葉の裏には、最終的には誰にも頼る事の出来ない孤独が混ざってはいなかっただろうか。
 全ての者に公平であれ── それは一見良い事のように聞こえるけれど、裏を返せば何一つ『執着』を示してはならないということ。
 何に対しても、必要以上に心を寄せるのも、寄せられる事も禁じられる立場とは…孤独ではないだろうか。
 ── その『孤独』に、自分は本当に耐えられるのか……?
 この西への行軍の間に立ち寄った街や村の民は、何処も反乱軍を歓迎してくれた。
 どうかまた平和な頃に、と無礼を承知で直接訴えに来た者もいた。
 その姿に思う。…もはや、父は民からも『皇帝』だと認められていないのだと。かつては名君とまで称された人でも、今はもう必要とはされていないのだ。
 …五年という月日はあまりにも長かったという事だろうか。
 万が一の可能性だが、皇帝が正気を取り戻しても、おそらく民はもう彼を支持はしないに違いない。
 このまま進み続ければ、近い未来、自分は父を討ち、かつて父の座った皇帝の御座に就くのだろう。
 もちろん、その道のりは決して容易ではないのは確かだし、相手もそう簡単にそれを許すとは思えない。
 だが…人々は新しい皇帝を求めている。今の不安を解消してくれる、新しい拠り所を必要としている。その事実は変わらない。
 そして…彼等がその新しい拠り所として見つめるのは、自分なのだ。
 その期待に、無力な自分は何処まで応えられるのだろう──。
 そんな物思いに沈んでいると、急に前の方が騒がしくなった。何事かとそちらに目を向けると、すぐさま伝令が駆け寄ってくる。
「どうしました?」
「大変です! 魔物が出現しました!!」
「…!?」
 無意識に周囲を見回すと、そこは両横を丘に挟まれた谷状の道だった。退避するにも、後ろにしか下がれない状態だ。
「── 数は」
「確認出来た数は三体です」
「……」
 いつかはこちらにも仕掛けて来るとは思っていたが、三体という数に内心首を傾げる。
(…足止め? それにしては……)
 あのセイリェンの戦いの時でも六体も現れたのだ、今度はもっと多くを仕向けてくると思っていたのだが──。
 だが、そんな些細な事を考えている暇はない。ミルファはすぐさま思考を切り替え、指示を出した。
「ここで引いても意味がない。三体ならば今の戦力でも対応出来るはず…出来るだけ短時間で決着を」
「はっ!」
 ミルファの指示を受けて、伝令が駆け戻ってゆく。その背を眺めながら、ミルファは無意識に剣に手をかけていた。
 やがて日没間近の赤い世界に、剣戟の音が響き始める。
 ── それが、第二幕の序章である事を知る者は、その場には誰一人いなかった。

BACK / NEXT / TOP