天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(13)

 その後、彼等はティレーマの私室へと移動した。
 無人の廊下はただでさえ音が響く。口を憚(はばか)る事柄を話すには場所が悪いし、何しろ一番聞かせたくないミルファの部屋の前である。
 その結果、どちらともなく場所を移す事にしたのだが──。
 いくら遅い時刻でなくとも、私室へ家族でもない男性を入れるなど、未婚の女性に本来ならあってしかるべき事ではない。
 だが、世俗から離れた神殿で育った為か、そこまで考えが回っていないだけか、ティレーマは特に深く考えた様子もなく自室で続きを話す事を提案した。
 流石にルウェンも一瞬考えたが、かと言って他に良い場所も思いつけず、結局ティレーマの言葉を受け入れた。
 その代わり、変に誤解を招かないよう、入る際に周囲に人の目がないよう確認は怠らなかったが。何しろ妙な噂が立って困るのは、どちらかと言うとルウェンではなくティレーマである。
「…ルウェンさん、あなたが何をミルファに言おうとしたのか、尋ねてもいいですか?」
 手ずから用意した茶器を彼の前に置きながら、ティレーマはおずおずとそんな事を尋ねてきた。
「あなたもやはり、あの方に対して、何か思う所があるのでしょう?」
「…ええ、まあ」
 言葉を濁しつつ、どう答えるべきか考える。
 実際、ザルームはルウェンにとっても非常に不可解な存在なのだ。だが、今の反乱軍、ひいてはミルファにとって彼の存在が重要である事は明らかで──。
 下手な事をして、ミルファとザルームの関係が完全に壊れてしまうような事だけは避けねばならなかった。
「…ザルーム殿は、ミルファ様に絶対なる忠誠を誓っているように思われます。ですが…何処か得体が知れないのも事実です」
「得体が知れない……?」
「ええ。ご存知かもしれませんが…ザルーム殿の事を知るのは、この反乱軍でもごく限られた人間だけで、その素性に関してはミルファ様以外は誰も知らないようです」
 ルウェンの言葉に、ティレーマは素直に驚きを表した。
「フィルが言うには、とても力のある呪術師だそうですけど…本当に誰も知らないのですか? わたくしも呪術の事はよく知りませんけど、あの手腕を見るにとても無名の方とは思えませんでしたが……」
 呪術師は神官と比べてずっと数が少ない。
 生まれつき聖晶という目印を持って生まれてくる神官に比べ、呪術師は潜在的に能力を持っていても、そうであるかはある程度学び、術を覚えてからでしか判断出来ないのだ。
 だからこそ、一般にはあまり彼等の事は知られていない訳だが、逆に高い能力を持つ者は事ある毎に力を請われ、名を広く知られる者も少なくない。
 ティレーマの言いたい事を理解し、思わず苦笑いを浮かべる。ザルームが何者であるか、知りたいのは自分もだ。
「私もそう思うんですが。どうやら本当に無名のようです。だから…得体が知れないんですがね」
 言いながら、ルウェンはティレーマの言葉にふと疑問を感じた。今の言い様では、まるで目の前でザルームの呪術を目にしたかのようだが──。
「ティレーマ様、もしかしてザルームが呪術を使うのを見たんですか?」
 そんな機会があるとは思えず、けれども何となくそのまま流せずに確認すると、ティレーマはあっさりと頷いた。
「ええ。実は…昨日、フィルと一緒に神殿から戻る途中でガーディに襲われたんです」
「ガーディ?」
 思わぬ単語に、ルウェンはその言葉を反芻した。
 森の番人という異称を持つ獣の事は、ルウェンもよく知っている。思わずまじまじとティレーマを見つめ、怪我一つなさそうな様子に首を傾げた。
 何しろ今は仔が狩りを学ぶ季節で、ただでさえ獰猛さで知られるガーディの、もっとも厄介な時期だ。普通なら無傷で済むはずがない。
 思いつく可能性は一つしかなかった。
「…無傷と言う事は、ザルーム殿が?」
「はい、助けて頂きました。どのような呪術を使われたのかはわかりませんけど、あの助けがなかったら……」
 その時の状況を思いだし、ティレーマは今更ながら背筋が冷えるような感覚を覚えた。
 迫ってきたガーディの鋭い牙と爪が鮮やかに脳裏に思い浮かぶ。本来なら命などなかったのだ。
 もしあの時、ザルームが助けてくれなければ──。
「…きっと今頃、わたくしはここにはいなかったでしょうね」
 顔色を失くして呟くティレーマに、同意も出来ずかと言って良い返事も思い浮かばない。
 ルウェンはどうしたものかと頭を悩ませたのだが、先程顔を合わせた時に感じた違和感と今の話を重ね合わせる内に、一つの疑問に辿り着いた。
 話の流れ的に、今は追及する事ではない。だが、一度気になるとはっきりさせずにはいられず、ルウェンは素直に自らが感じた疑問をぶつける事にした。
「ティレーマ様…ザルーム殿の事を話す前に、一つ確認しておきたいんですが」
「はい?」
「── 聖晶があれば、ガーディに襲われても無事だったんでは?」
 実際の所、聖晶がどのように持ち主の危機に力を発揮するのかは知らないが、ガーディに襲われたとなれば、確実に命の危険に曝された訳だ。
 襲われた結果、一緒にいたフィルセルが負傷する事は在り得ても、ティレーマが負傷、あるいは命を落とす事は有り得ない── そのはずだ。
 その矛盾を突いたルウェンの質問に、ティレーマは一瞬きょとん、と何を言われたのかわからないような顔をした後、あからさまに慌てた様子で口を開いた。
「えっ、あ、その…そうなんですけど」
 そのしどろもどろの様子に、嫌な予感を感じつつ、ルウェンはさらに追及する。
「…見るに、聖晶を今は身に着けていらっしゃらないようですが……何か関係が?」
「あの、その……」
 ティレーマはティレーマで、思わぬ所から出た追求に心底困惑していた。
 ティレーマとしては特に隠す必要はないと思うし、むしろ今後の事を考えると、自分が神官を形式的とは言え、辞めた事を周囲に伝えるべきだと思うのだが──。

『神官を辞めた事は、ミルファ様以外には言っちゃ駄目ですよ?』

 昨日の昼間、神殿からの帰り道でフィルセルに念を押された事が頭に残っている。
 あの時は結局、フィルセルがどういう心算があってそんな事を言い出したのか、確かめる事が出来なかったのだけれども。
 …けれども、あの時のフィルセルは真剣そのものだったし、純粋に自分を心配している様子があった。
(…どうしましょう。話しては駄目かしら……)
 ミルファに対しては良くて、それ以外ではどうして駄目なのか、ティレーマにはやはり理解出来ていなかった。
 フィルセルの心配はひとえに、この期を幸いとばかりにティレーマに『余計な虫』が付き纏う事に対して向けられていたのだが、そんな事がわかるはずもない。
 困惑を顕わに視線を落ち着きなく彷徨(さまよ)わせるティレーマに、何となく答えを予想出来たルウェンは心の内でため息をついた。
 時としてこちらが気圧される程に強い意志を見せるティレーマだが、こういう時は年齢に似合わぬ幼さを感じる。それだけ、世間ずれしていないという事なのだろうが。
 だがそういう態度を見せられると、何だかこちらが苛めているような気分になるのは頂けない。
「…話せないのなら、結構です。済みません、出過ぎた質問をいたしました」
 そう言って話を打ち切ろうとすると、ティレーマは慌てて首を横に振った。
「そんな事はありません! 疑問に思うのは…その、当然だと思います」
 そこで一度言葉を切り、ティレーマは少し考え込むような表情を見せる。やがてそれは明確な決意に変わると、実は、と言葉を続けた。
「わたくし、神官を辞めたんです」
「──」
 予想通りの答えに、思わず普通に『そうですか』と受け止めそうになるのを寸での所で踏みとどまる。
 今の言葉が単純のようでいて、その実、結構深刻な言葉である事に、今更ながら気付いたからだ。
「…その事はミルファ様には……?」
「昨日の内に話しました。…怒られてしまいましたが」
 苦笑を浮かべるティレーマに、ルウェンは心の中でそれはそうだろう、とミルファに激しく同意した。
 神官である限り、その命は半ば保証されていると言っても過言ではないのだ。それを命を狙われている当事者自ら放棄したと言われて、素直に納得出来るはずもない。
「何でまた…そんな事を、と尋ねてもいいですか」
「ええ。当然の疑問だと思いますし。あ…あの、でも……この事は誰にも話さないで下さいますか?」
「それは構いませんが……」
 元より言い触らせる類の話ではないが、こういう事はずっと隠せるものとは思えない。
 その疑問が顔に出ていたのか、ティレーマは小さくため息をついた。
「わたくしも隠したい訳ではないんです。むしろ、隠しても良い事はない気がしますし。でも…フィルが『ミルファ以外には話すな』って言うものですから」
「…フィルが、ですか?」
 思わぬ所から出てきた固有名詞に、ルウェンの顔が強張った。その名前に対し、無意識に警戒してしまう癖がついてしまったらしい。
「そうなんです。理由を聞く前に先程言いましたように、ガーディに襲われてしまって…でも、ルウェンさんなら…フィルもよく知っている方な訳ですし」
 などとティレーマが言い訳めいた事を口にしている間、ルウェンの頭の中では何故フィルセルがそのような事を言ったのか、という疑問で占められていた。
 周囲の動揺を慮(おもんぱか)った、と素直に考えればそういう事だろうが、それなりにフィルセルの事を知っているルウェンには、彼女がそんな事まで考えたとはとても思えなかった。
 では何故そんな事を、と考え── やがてルウェンは改めてティレーマを見て、ははあ、と納得した。
 思い返すのは、昨日のカードゲームの最中での出来事。
 ゲームの最中に出る話題の中で、ティレーマに関する話もあった。
 曰く──『高嶺の花』。
 憧れる者も多いが、皇女という身分と神官である事実で、手も足も出ないばかりか、声すらまともにかけられない、という話だった。
 逆を言えば、そうでなければ声をかけるのに、という事だろう。
 ミルファやティレーマのような、明らかに美人と呼べるタイプにはあまり興味のないルウェンにしてみると、そんなものなのかという程度の事だったが、その状況で神官でなくなった事が明らかになったとしたら──。
(…この様子じゃ、言い寄られている事すらわからないまま流されそうだよな、この人)
 明らかにその手の事に対する危機感がなさそうなティレーマに、そんな失礼甚だしい事を思いつつ、ルウェンはティレーマの言葉に耳を傾けた。
「辞めるつもりはわたくしにはなかったんです。けれど…ラーマナの教義に従う限り、いつかは身動きが出来なくなると、主位神官様が仰(おっしゃ)られて」
「身動き出来なくなる……?」
「── 一人を救うなら他の全ての手を取らねばならない。全てに対し平等であれ…ラーマナの教義はそういう教えです。これはミルファにも詳しく話していませんが、わたくしはこの間の騒動で、その教義に従い命を落としかけました。その事は……?」
 ティレーマの言葉にルウェンは半月前の事を思い返した。
 ミルファの命に従い、ティレーマに対面を果たすべく向かった神殿で、主位神官と交わした会話では命がけだった事までは聞き及んでいなかったが──。
「いえ…ただ、体調が優れないとだけ聞きましたが」
「…でしょうね。わたくし個人の我侭だったとは言え、公に出来る類の事ではありませんもの」
 無意識に口元に浮かぶのは苦い微笑。今にして思えば、何と言う無茶だろうと思う。
 あの時の選択に関しては後悔はしていない。
 それが禁忌と呼ばれるものであろうと、自己満足と呼ばれるものであろうと── 自分はあの時、初めて誰かの役に立ったのだ。
「結局の所、神官のままであったら…たとえば、目の前で子供とミルファが死に掛けていたとします。全力を尽くせばどちらかの命が助かる。そうわかっていても、それを実行する事は許されない。…そういう事です」
 どちらに対しても平等に── けれどもそれでは、どちらも助ける事が出来ない。
 主位神官はその事を伝えたかったのだと思う。
 たとえこの手に、癒しの力が宿っていても。この手は、二本しかない。たった、二本だけしか。
 パリルの民の時は、この二本に力及ばずとも、それを補う事が出来る腕がいくつもあった。
 けれど── それが常にある訳ではない。いつか、一人しか選べない事も出て来るだろう。今、自ら喩(たと)えたような事態になる事も。
「── 今のわたくしは、子供を見捨てる事も厭(いと)わないでしょう」
 恐らく、その選択は自分の中にいつまでも罪の意識として残るだろう。それでも、譲れない思いが自分には出来てしまったから。
「兄上亡き今…皇帝を継ぐ事が出来るのは…世界を支える事が出来るのはミルファしかいません。いえ、それは結局は建前ですね。…わたくしにとって、肉親と呼べる者は父の他にはミルファしかもういない。だからわたくしは…家族を、妹を守りたい」
「…その為に神官を辞めると?」
 愚かだと呆れられるかと思ったが、問い返すルウェンの顔にあるのは、思いがけず真面目な表情で。
 ティレーマははっきりと頷く事が出来た。
「だからこそ、ミルファが今苦しんでいるのをどうにかしたいと望んでいるのです。…今のミルファは、わたくしがどんな励ましを口にしても、無理に笑ってみせるだけでしょう。…心の傷は原因を取り除かなければ癒えません」
「── なるほど。つまり、お二人は似た者姉妹だと言う事ですね」
「…え?」
 何の脈絡もなく出てきた言葉に戸惑うティレーマに、ルウェンは言葉を変えて繰り返した。
「ミルファ様も、同じような事を思っていると思いますよ」
「── そうでしょうか?」
「ええ。そう思っていなければ、わざわざ西回りで進軍なんてしませんよ。普通に考えれば、あのまま真っ直ぐに帝都を目指した方が効率がいいのは明らかでしたしね」
 南領という後ろ盾に加え、補給経路及び情報伝達経路の確保── その他諸々に対し、必要以上に思案を凝らす必要がなかった。
 それを全て犠牲にしてまで、西にミルファを向かわせたのは──。
「いろいろ理由はつけていましたが、本音の所はただ、姉であるあなたを喪いたくなかったんじゃないかと…まあ、これは推測に過ぎませんが」
 けれどもその推測は十中八九、外れてはいないだろうという確信がルウェンにはあった。
 今はまだぎこちなくとも、時間さえかければミルファとティレーマは年齢や立場の違いを乗り越えて、姉妹として誰よりも分かり合う事が出来るに違いない。
 お互いがお互いを、かけがえのない存在だと思っている限り。
「話は戻りますが、ザルーム殿とミルファ様の仲違いについてですが……」
「はい」
「事実関係は明らかではありませんし、正直言って憶測で物を言って良い事でも、第三者が間に入る事でもないと思いますが…実は、昨日お二人に話し合えと言ったのは私なんですよ」
「ルウェンさんが?」
「ええ。まさかこんな展開になるなんて思わなかったんで、先程、話を聞いて驚いたんですが」
 あの二人の関係は表に出る事はなくても、反乱軍のこれからを十分左右する。
 何が切っ掛けなのかはわからないが、あの二人の間に生じているぎこちなさが解消されれば── そう単純に考えて進言したのだが。
 ルウェン自身は未だザルームに対しては、敵か味方か見極め切れていない。
 『敵』であればこれ以上とない脅威になると見なしているが、今までのザルームの動向を考えると、ミルファに対し誰よりも忠実であるのもまた、彼である気がするのだ。
 ただ、その方法はルウェンから見ると、あまりにも誤解を招きやすいものである気がしてならないのだが。
「…不敬である事は承知で言わせてもらえば、このまま放置していた所で状況が良くなる気がしませんね」
「では……?」
 どうするつもりだ、と言葉と視線で問いかえるティレーマに、ルウェンは何処か企むような顔で言い切った。
「ここは思い切って荒療治してはどうかと思うんですが。…ティレーマ様、協力を頼めますか?」

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