天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(14)

「それでは明日、手はず通りにお願いします」
「…ええ、わかりました。やってみます」
 椅子から立ち上がりながらのルウェンの言葉に、一度は頷いたものの、ティレーマの表情は冴えない。
 明らかに不安の拭いきれない様子に、それも仕方がないとルウェンは思う。
 何しろ今日話し合い、明日実行に移す事は、ある意味詐欺のようなものだし、同時に大博打でもあるのだ。
 神殿で育ち、人を欺(あざむ)く事を罪だと考える生き方をしてきたであろうティレーマにしてみれば、十分気が重いに違いない。
 だが、今回ばかりは自分一人では少々押しが弱い。
 他の身の回りに居る他の人間と比べれば、確かに自分はミルファに近い位置にいる気はする。
 だが、何処まで影響力を持つかと考えると、ザルームがミルファに及ぼす影響力に比べれば足元にも及ばない事は確かだ。
 だからこそティレーマの助力は不可欠であり、多少の無理は承知の上だった。
「心配はしないで下さい。ともかく私の話に合わせて下さればそれで十分ですから」
 安心させるように努めて軽い口調で言うと、ようやくティレーマは表情を幾分和らげた。
「ごめんなさい、ルウェンさん。今から緊張するなんて…情けないですよね。大丈夫です、頑張りますから」
「お願いします。…それではそろそろ失礼します。少々長居をし過ぎてしまいましたね。済みません」
「とんでもないです! 謝らないで下さい。引き止めたのはわたくしですもの。では、明日…お待ちしております」
「はい」
 頷いて扉に向かったルウェンは、扉を開く前に外の気配を探った。
 先程自分を置き去りにして逃げた兵士達が戻ってきているとは思わないが、それ以外でも出来れば人には遭遇したくない状況である。
 この宿を使っている女性達── 特に、フィルセルには。
 ちらりと視線を見送りに立つティレーマに向け、その警戒心の欠片もない友好的な表情にどうしたものかと考える。
 確かにこれでは、フィルセルが心配するのも頷ける。だが、フィルセルがどう言えば良いのか思い悩んだように、ルウェンもかける言葉が思いつかなかった。
(…まあ、その内なるようになってくれるだろう……)
 結局他力本願に任せる事にしたルウェンは、廊下に人の気配がない事を確かめて扉を開いた。
「…っ!?」
 …が、運悪くと言うべきか、偶然のなせる業か。彼が扉を開くのと同じくして、すぐ近くの扉が開き、中から一人の女性が姿を現したのだった。
 部屋の中に戻る訳にも行かず、かと言って何事もなかったように立ち去る事も出来ない。
 そんな誤魔化しの効かない状況で、女性は立ち尽くすルウェンを認識したのか、軽く目を見開いた。
「…おや」
 その女性は驚いた声も上げなければ、大騒ぎもしなかった。
 単に珍しいものでも見たような視線を向ける顔は、見た目の年齢にそぐわない程に実に落ち着き払ったもので、かえってルウェンはどんな反応をすべきか悩む事になった。
 ぎこちない沈黙が生じ、互いに動かないまま見つめ合う形になる。そんな状況を打破したのは、ただ一人、状況がわかっていないティレーマだった。
 扉の所で硬直したように立ち尽くすルウェンに、何事かと思ったのだろう。ルウェンの横から顔を出すと、ティレーマはこちらを見る女性へ屈託ない声をかけた。
「あら、リヴァーナさん。こちらに戻って来ていたんですね」
「…ええ、先程こちらに」
 リヴァーナと呼ばれた女性は、頷きつつも後ろ暗い所など欠片もないティレーマの笑顔をじっと見つめ、次いで再びルウェンの方へ顔を戻すと軽く首を傾げた。
「ティレーマ様、こちらはどなたですか?」
 淡々とした口調には特に追求するようなものはなく、単純に誰かを尋ねているだけのような響きがあった。
 見た所、二十代中頃。ルウェンと同じ位か、この落ち着いた様子だと少し上かもしれない。
 灰色の髪は女性にしては短く切られ、深い青紫色の瞳は冷ややかにも見える。先程から無表情なのもそう見える理由の一つだろう。
 身に着けているのは白い服だが、ティレーマのものとは異なり、こちらはどちらかと言うと動きやすさを重視した服装である。
 フィルセルが身に着けているものによく似ている所を見ると、どうやら従軍している医師の一人のようだ。
「こちらはルウェンさんです」
「ルウェン……?」
 ティレーマが名を口にしても、リヴァーナはそれが誰であるのかわからないらしい。聞き覚えはあるが思い出せない、そんな表情を浮かべる。
 自惚れている訳ではないが、セイリェンの戦い以来、今までこちらは相手を知らなくても相手は自分を知っている事ばかりだったので、その反応は何だか妙に新鮮だった。
「ルウェン=アイル=バルザークだ。ミルファ様に剣を預けている」
 自分から重ねて名を名乗ると、ようやくどういう人物か理解したらしい。ぽむ、と軽く手を打つと、そのままぬうっと手を差し出してきた。
 いきなり何だろうと、思わずその手をまじまじと見つめる。すると、リヴァーナは相変わらず淡々とした口調で口を開いた。
「わたしはリヴァーナ=シアル=トリーク。医師をしています。よろしく」
「…あ、ああ、こちらこそ……」
 なるほど、挨拶の握手を求めていたのか、とようやく納得して手を軽く握り返す。
 深く考えると、とても和やかに挨拶を交し合って良い状況ではない気がするのだが、相手が友好的な態度を示しているのに、自ら台無しにする必要が何処にあるだろう。
 そんな風に考えていたルウェンだったが、それはリヴァーナの次の一言が飛び出すまでだった。
「失礼しました。名はフィルセルやその他の人間から何度も聞いてはいたのですが。『返り血のルウェン』でしたか? そんないかにも殺伐とした二つ名があるし、魔物を一人で倒すような人間だから、どんないかつい恐ろしげな大男だろうと思っていまして。まさかこんな、何処にでもいそうな普通の男とは思わなかったのです」
「……ええと」
 悪気は一切ないのだろうが、ある意味無遠慮甚だしい言葉に、どう反応すべきかルウェンはわからなかった。
 確かに『返り血のルウェン』やら、魔物を一人で倒したという事実だけを聞きかじれば、大抵の人はリヴァーナのような想像をするような気さえする。
 …気はするのだが。
 何だかこう、物悲しいような、傷付いたような気持ちになるのは何故だろう。
「リヴァーナさんはルウェンさんと面識がなかったんですか?」
 今の発言に気を留めた様子もなく、少し意外そうに尋ねるティレーマの言葉に、その気持ちは更に募った。
 対するリヴァーナはティレーマの質問にあっさりと頷く。
「ええ。治療に当たる事もありませんでしたし、戦場で遭遇する事もありませんでしたから。わざわざ会いに行く必要もありませんし」
 適当な理由を口実に、わざわざ顔を見に来た人間に聞かせてやりたい言葉である。
「それに、直接会わなくても、話だけは嫌と言うほど耳に入ってきますから。それで十分でしょう?」
 そして意味ありげな視線を向けられる。
「……?」
 続いた言葉の意味はさておき、視線の意味がよくわからず、ルウェンははて、と首を傾げた。
 何を言いたいのかさっぱりわからないが、リヴァーナは特に注釈を入れる気はないらしい。
 そのまま二人に軽く会釈をすると、何事もなかったかのように立ち去ってしまう。
 階下へ消えてゆく背を呆然と見送ったルウェンは、その結果、自分が致命的な失敗をしてしまった事に気付かなかった。
 やがて自室に戻った彼の元に、リヴァーナから『事と次第のみ』を聞いたフィルセルが血相を変えて襲撃して来るのは、それからほんの数刻後の事である──。

+ + +

「ルウェンさん!? …一体、どうしたんですか?」
 翌日、再び自分の前に姿を現したルウェンの只ならない様子に、ティレーマは思わず問い質していた。 
 たった一晩で何が起こったのか、彼の顔色は冴えず、げっそりとやつれている。
「何でもないです、行きましょうか」
「何でもないって…そんな顔色で、何もない訳がないではありませんか!」
 疲れた笑みを浮かべるルウェンに、食って掛かる。
 帝都へ進軍する日はもう目の前に迫っている。その状況で、旗頭であるミルファは憔悴し、今日もろくに食事も摂らなかった。
 この上、ルウェンにまで倒れられてしまっては── と、ティレーマは純粋に心配していたのだが、ルウェンがこれ程に消耗する原因となったのが自分にある事までは思い至ってはいない。
「具合は? 食欲はありますか? 寒気とかは──」
 などと、矢継ぎ早に尋ねてくる。ルウェンは心の中でため息をついた。
 心配してくれるのは非常にありがたいのだが、ルウェンとしては出来るだけ早く『仕事』を終わらせてしまいたい一心だった。
「大丈夫です。昨日…ちょっと飲み過ぎただけですから」
 などと、身に覚えのない理由をつけてみる。
 二日酔いなんてろくになった覚えがないが、この倦怠感はそれによく似ている気もした。
 何しろ、延々とあのフィルセルに問い詰められたのである。精神的に疲れない訳がない。

『ルウェンさん!? ティレーマ様の部屋に何しに行ったんですかッ!!!』

 などと、フィルセルがこめかみに青筋を立てて怒鳴り込んできた時は、一体何処から話が漏れたのかと思ったが、よくよく考えて自分がリヴァーナに対して言い訳も口止めもしなかった事を思い出した。
 リヴァーナのあの淡々とした物言いに流されて、うっかりそうした事を忘れていたのだ。我ながら痛恨のミスである。
 医師という事は、当然フィルセルとも面識がある事はよく考えずともわかる事だったと言うのに。
 そこから興奮したフィルセルを落ち着かせるのは、本当に骨の折れる事だった。思い出したくもない。
 どうにか宥めすかして、罰ゲームの事を話し、世間話をしただけだと説明したが、フィルセルはなかなか信じてくれなかった。
 自分でも無理があるとは思ったが、ミルファとザルームの決裂については他言出来る事ではないし、これからティレーマと共に行う事は周囲に知られる訳にも行かない。
 変に話が曲解されれば、自分だけではなくティレーマまでも誤解を受けるからだ。
「…あの、ティレーマ様」
「はい?」
「昨日、フィルが来ませんでしたか?」
「え? ええ…来ましたけど」
「…やっぱり」
 昨日の納得しきれていない様子では、ティレーマの方にも確認に行くに違いないと思っていたが、どうやらその予想は当たったようだ。
(…フィルの奴、俺を何だと思ってるんだ!?)
 ジニーから『懐いている』という話は聞いていたが、これではまるで保護者のようだ。
「何か言ってましたか?」
「ええ、まあ…ルウェンさんと何を話したのか、とか、ルウェンさんにお茶まで出す必要はないとか、何とか」
「……。それで…今日の事は……」
 念の為と確認すると、ティレーマは表情を改めると首を横に振った。
「もちろん、それは話していません。フィルはザルームさんの事を知っていますし……。それで良かったでしょうか?」
「ええ、上出来です。…では、白黒をはっきりさせに行きましょうか」
「でも…ルウェンさん、具合が悪いのではないのですか? 二日酔いはとても苦しいものだと聞いていますけど……」
 先程のルウェンの言葉を頭から信じている言葉に、ルウェンは苦笑を浮かべた。
「大丈夫です。二日酔いというのはですね、動き回った方が治りが早いんですよ」
 ── こんな風に適当に嘘をつけてしまうから、そしてそれを単純に信じる相手だから、フィルセルも信用しないのだろうな、と思いながら。

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