天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(16)

「── それで、話というのは……?」
 本来、人をもてなす為の部屋ではない為、椅子も十分とは言えない中でミルファから話を切り出した。
 向き合うのは、この部屋にもう一脚だけあった椅子に腰掛けたティレーマと、その後ろに立って控えるルウェンだ。
 ルウェンは見た所、特に変わった様子は見えないが、ティレーマは明らかに何処か緊張を隠せない顔をしている。ミルファでなくても、これから始まる話が決して愉快とは言えない話であろう事は想像出来ただろう。
 ティレーマは僅かに躊躇(ためら)いを見せた後、意を決したように口を開いた。
「…気なる事があるの。ルウェンさんから今までの話を聞いていたのだけれど── 魔物が集団で現れるようになったのは、東の異変の時から。それは確かね?」
「ええ。私も直接この目で見た訳ではありませんが、異変を生き延びた者などの報告を聞く限りではそのようです。…それが?」
 何を言い出すのだろうとは思っていたが、よもやこの姉の口から魔物に関する言葉が出て来るとは思ってもおらず、ミルファは困惑を隠せなかった。
 まだ話が読めない。一体、姉とルウェンは自分に何を伝えようとしているのだろう──。
 何処か心許ない様子のミルファに、ティレーマは静かな口調のままで問いかけた。
「…他に集団で現れたという報告はありますか?」
「── 他?」
「東と南、そして── 先日のパリルと神殿を襲った集団以外で、です。他の場所でもそうした事は起きているのでしょうか?」
「それは……」
 姉の言葉に、ミルファはここ最近の記憶をかき集めた。
 南領から定期的に届く近況報告、帝都側の情勢── 実に様々な情報が日々齎(もたら)されるが、その中に魔物に関する情報がどれだけあっただろうか。
 前代未聞の魔物の集団による襲撃が東領で起こって以来、人々の魔物への警戒は高まっている。もし、何処かで同様の事が起こったなら大なり小なり話が聞こえてくるはずだ。
 覚えている限りではそうした報告はなかった。全くないと言う事は、図らずとも以前ミルファが立てた仮説を証明する。
 つまり──。
「…お話とは、魔物達が何者かによって意図的に操られている── その事についてですか?」
 おぼろげながらティレーマの言いたい事を感じ取り、ミルファは居住まいを正した。
 皇帝乱心の背景に問題の人物が何処まで関わっているのかは不明だが、そうした存在がいる事はほぼ間違いない。それも、強大な力を持つ呪術師か、それに類する存在である事も。
 それを表立って断言出来ないのは、確実に反乱軍内外で混乱が起きると予想されるからだ。
 呪術に関しての人々の感情は、総括すれば『畏怖』以外の何物でもない。その使い手であるばかりか、魔物すらも操る事が出来るとなれば── 士気は確実に落ちるだろう。
 そして…ミルファの個人的な感情からも、明確な事実が示されない限りはその事を肯定出来そうになかった。
 ティレーマはミルファの問いかけに、小さく首を振って否定した。
「確かに…その事は大前提になるのだけれど── 神殿が魔物に襲われた時…反乱軍の方へも襲撃があったそうね?」
「はい。集団とは言えない程の数でしたが──」
 答えながらもその時の事を思い返し、無意識に身体が強張る。もしかしたらあの時、自分は死んでいたかもしれないのだ。
 空を一瞬にして赤く染めた炎。その記憶は今もまだ、鮮やかに思い浮かぶ。
「わたくしはその時神殿にいましたから、詳細な状況はわかりません。でも…どうしても引っ掛かるの」
「引っ掛かる…?」
「パリルや神殿が襲われた理由がわたくしの命を狙う為だとして…どうしてその魔物達はミルファ達を襲う事が出来たのかしら……?」
「え?」
 その疑問は、今までまったく思いもしなかった事だった。
 西に向かう反乱軍を足止めする為── そう認識はしていたが、それ以上の事を考えた事はなかった。
 今のティレーマの疑問は、ミルファが考えもしていなかった── 無意識に考えないようにしていたある疑念を否応なく引きずり出すもの。
 …だからこそ。
 一つ間違えれば取り返しのつかない状況になるかもしれないとわかっていながら、ルウェンはティレーマと共に賭けに出たのだ。
「何を仰りたいのですか、姉上?」
 表面的には動揺は出なかったものの、言葉が僅かに硬くなるのを自分でも止める事が出来なかった。
 そんなミルファを、ティレーマはほんの一瞬痛ましげな目で見つめ── しかし、すぐに表情を改めると話を続ける為に口を開いた。
「…わたくしが居た、地方神殿へ辿り着く道は一つではないわ。やろうと思えば、道を無視して進む事も可能です。わたくしも主神殿を出てここまで来るのに、先を急ぐ為に街道は使わずに可能な限り最短距離を進むようにしました」
 それは西領が他の地に比べ、起伏が少なく比較的見通しのよい土地柄であるからこそ出来る事だ。
 最悪、道に迷ったとしても、相応の装備と星や太陽の位置を読み取る知識さえあれば、遭難する危険は少ない。実際にミルファも、ティレーマのいる神殿へと向かう途中で街道を外れて進んだ所もあった。
 ── それは裏を返せば、自由度が高い分、相手の行動を読むのが困難であるという事……。
「…なのに、どうして魔物はミルファ達を待ち伏せする事が出来たのか」
「……!」
「おかしいでしょう。わたくしがあの地方神殿に身を寄せていた事は周知の事実でしたし、東の異変でもそうです。お兄様があの場所にいる事は誰もが知っていた。南の…セイリェンの時も、ミルファがそこを目指す事は誰でも予測が出来たと思います。けれど……」
「西へと向かっている最中の反乱軍の正確な位置を知る事は、普通ならばかなり困難、そう言いたいのですね……」
 行軍中、何処で休息を取るか、どの進路を取るか── それらは全てミルファと重臣達がその場その場で状況に応じて決定していた。
 確かにある程度は前もって計画を立てていたものの、パリル壊滅の知らせを受けてそれは大幅に変更され、最初のものとは丸きり異なるものになっていたと言っても過言ではない。
 …にも関わらず、魔物は反乱軍の進む先で待ち構えていた。それが意味する事は──。
 ティレーマの言葉は、すでに答えを述べているようなものだ。それでもまだ認めきれずにいるミルファへ、それまで黙っていたルウェンが口を開いた。
「結論を言いましょう。── 内通者がいる、としか考えられません」
「ルウェン……」
「それも── ミルファ様の身近にいて、情報に通じ、あの時点で起きていた全ての出来事に関わる事が出来た人物。…何か否定材料はありますか」
 直接誰だとは言及せずとも、それが誰を示すのかは明らかだった。
(…違う)
 ティレーマの疑念にも、ルウェンの結論にも、納得する自分が確かにいる。そう考えるのが自然だとも思う。
 なのに── 何故、この期に及んでもまだ、彼を信じようとするのだろう。先日、あんなにも手厳しく突き放されもしたのに。
(ザルームは、違う……)
 変だ。
 可能性の問題だとしても、これだけ彼に不利な状況が揃っているのに、何故冷静に考える事が出来ない?
 どうして── 認められない?
 彼が、『敵』であるかもしれない可能性を。
「…ミルファ?」
 黙り込んだミルファの只ならぬ様子に、ティレーマは思わず声をかける。
 ミルファはその声に応える事もせず、唇を噛み締め、苦痛に耐えるような表情で内に渦巻く混乱と戦っていた。
 不安、不信、相反する信頼── 何が正しいのか、何が間違っているのか。
 胸が── 心が痛い。間違って噛み合わさった歯車が、止まる事が出来ずに悲鳴を上げながらなお回る。
 様々な感情がぶつかり合い、入り混じる。

 ── 真実は、何処に?

「……ッ」
 一瞬、ズキッと刺すような頭痛が走ったと思った次の瞬間、堰(せき)を切ったように、脈絡もなく脳裏に甦った光景があった。
 それは血のように赤い月を背にした、二人の人間の姿──。

『…本当に……か?』
『それ…あな…が真実…思うの…ら……』

 耳に甦ったのはどちらも何処か懐かしく、そして今となっては遠い記憶に残るだけの声。
 そして──。
「ミルファ…?」
「ミルファ様?」
 ミルファの様子がおかしい。
 二人がそう思った瞬間、ミルファの口から悲鳴が迸(ほとばし)った。
「…あ、あ…いやああああ!!」

 月が、見ている。
 赤い── 血を吸ったかのような月が。

『…見損ないました』
『見損なう?』
『あなたに…「皇帝」を名乗る資格などございません……!』

 厳しい口調での口論は、よく知るはずの二人を別人のように見せる。
 今まで、彼等がこんな風に言い争うような姿など一度も見た事がなかったのに。
 ── 確かに仲睦まじいというには、二人の関係は自分から見ても何処か不自然だったけれど。

『面白い事を言う。神官でもないのに、人を殺した位で「皇帝」の資格が消えるとでも?』
『そういう意味ではありません。…ご自分が一番よく知っているはず』

 どうしてお父様は剣なんか持っているの。
 …── 違う、あれはお父様じゃない。お父様のはずがない。
 お父様なら、あんな怖い声で話したりしない。

『そうだな。ではもう私は「皇帝」ではない訳だ。ようやくこの重責から自由になれたという事か』
『自由? …── あなたは、間違っています。こんな事をしても、あなたは決して「自由」にはなれない……!!』
『黙れ……!!』

 どうしてお母様は床に倒れているの。
 どうして動かないの。
 床が黒く汚れてゆくのは何故?

 ── お父様。
 お父様が、お母様を殺した?

 どうして?
 どうして?
 どうして──…!?

「…ああああああっ!!」
「ミルファ! どうしたの!?」
 ミルファの突然の異変に驚いたのは一瞬の事。ティレーマはすぐに我に返り、頭を抱え込んだミルファに駆け寄ると、抱き起こしその顔を覗きこんだ。
 大きく目を見開いたミルファは、目の前のティレーマを見ていなかった。
 その瞳にあったのは、恐怖と絶望──。
「…ルウェンさん! ここはわたくしがついていますから、早くお医者様を!!」
「はい、すぐに!」
 ティレーマの指示を受けて、ルウェンはすぐさま扉に向かった。
 こんな事態はまったく想定していなかった。ミルファに正面から現実と向き合ってもらい、ザルームに関する疑念を自分で晴らして欲しいと思ったのだが──。
 ミルファの身に突然何が起こったのかはわからなかったが、彼等に出来る事はその程度しかなかった。
 ── その時。
「…医師の必要はありません」
 立ち塞がるように現れた人物の姿に、ルウェンは立ち止まった。
「ザルーム……」
「余計な事をして下さいましたね。これでミルファ様の精神が壊れてしまったら、どうなさる気か……!」
「ッ!?」
 初めて見せるザルームの感情的な言葉に、一瞬気圧(けお)された。次いでその言葉が意味する事に、言葉を失う。
 ミルファを精神的に追い詰める事になるかもしれない、とはティレーマとも話し合っていた。だが、まさか──。
「…まさか、という顔をしていますね」
 再びいつもの淡々とした口調に戻ったものの、やはりその言葉には何処か冷ややかなものが漂っていた。
「ミルファ様は過去、自我を手放すほどに精神的な傷を負いました。…今まではその記憶自体を封じる事で、自我を保ってきたに過ぎません」
 言いながらザルームは、ティレーマに支えられているミルファの元へと歩み寄った。
 途切れ途切れの悲鳴を上げながら、がたがたと震えるその姿は、今まで反乱軍を率いていた人物からはとても想像の出来ない姿だ。
「…ザルームさん…あの……」
「ティレーマ様、ミルファ様にかけた術を一度解きます。…もしかしたらその余波が及ぶかもしれませんが…支えていて下さいますか」
「…は、はい。わかりました」
 青褪めながらもしっかりと頷いたティレーマを確認し、ザルームはその骨のような指先をミルファの額へと向けた。
 不完全に解かれた術を完全に解けば、ミルファの精神にかかる負担は確実に減る。だが同時に── ミルファが自分を捨ててまで、『なかった事』にしたかった記憶が戻るだろう。
(── ミルファ様…あなたは、耐えられるだろうか……)
 こうなってしまっては、後はミルファを信じるしかない。再び自我を捨ててしまうか、それとも── 乗り越えるか。
 迷いはほんの一瞬。
 ザルームは解呪の呪術を展開した。

BACK / NEXT / TOP