天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(17)

 十二歳の誕生日は、ミルファにとって忘れられない日となった。
 それも── よくない意味で。
 執り行われた祝宴自体は、普段は顔すら合わせない兄や姉、更に義母に当たる他の皇妃までも集う盛大なものだった。
 何しろそれまでの誕生日と違い、十二歳は『大人の仲間入りをする』という特別な意味を持っており、十八の成人程ではないが重要なものとされている。
 実際、その日の朝をミルファも心が浮き立つような気持ちで迎えたものだ。
 もちろん、仲間入りをするとは言っても全てが自由になる訳ではない。それに、今までは禁じられていた事がいくつか許される代わりに、ある程度の責任も課せられる。
 誰もが十二歳になると、大人達の庇護を受けるだけではなくなり、市井(しせい)の子であれば大部分が何らかの職の見習いになる事が一般的だ。
 そうして、成人を迎える日まで修行し、やがては一人立ちする。
 皇女であるミルファの場合、何かの職に就く事はないが、今までは参加する事のなかった皇家、あるいは大神殿が執り行う祭事や儀式に加わり、何らかの役割を果たす事になる。
 その為に今まで煩雑とも言える儀礼作法を身に着けてきたと言っても過言ではない。
 別にそうした儀式に参加するようになる事が嬉しい訳ではなかったけれど、そう思うと何となく誇らしげな気持ちになる。
 幾人もの神官が教えようとして、結局は匙(さじ)を投げる事になったミルファが作法を身に着ける事が出来たのも、ミルファ自身が相応に努力した事も大きかったが、何より『先生』が良かったからだ。
 だからこそ、ミルファは彼に会ったらお礼を言わなければと思っていた── そう、彼がやって来て、その一言を口にするまでは。

「…もう、来ない?」

 思わず、たった今聞いた言葉を繰り返していた。
 その日はたまたま、いつも彼── ケアンが南の離宮を訪れる日で。
 祝宴自体は日が暮れてからだったし、南の離宮で働く人々こそ、その準備で目の回るような忙しさだったけれど、主賓であるミルファがする事は特になく。
 だからいつも通りに、庭先で彼の訪れを待っていた。
 ケアンが姿を見せたら、敬意を示す礼をして── 今まで何となく言いそびれて来たお礼の言葉を言おう、そんな事を考えながら。
 何しろ、今まで『生徒』として『教師』である彼に相応の敬意を払った事などなかったのだ。
 けれど──。
 いつもよりも遅くに姿を見せたケアンは、ミルファの元へとやって来ると、ミルファが椅子から立ち上がるよりも先に、その場に跪(ひざまず)いて臣下の礼を取った。
 そして、そのままの姿勢で口を開いた彼は、定まった祝辞を述べた後、ミルファが予想もしていなかった事を口にしたのだ。
 曰く── これから先、自分がこの南の離宮へ個人的に訪れる事はない、と。
「いきなり…どうしたの、ケアン?」
 言われた言葉の意味は理解したものの、突然彼がそんな事を言い出した理由がわからず、ミルファは問いかけていた。
 それ以前に、彼が自分に対して臣下として接する意図がわからなかった。…わかりたくなかったのかもしれない。
「もう、私がミルファ様にお教えする事は何一つございません」
 帰って来た返答は、何処か余所余所しく。
 実際、ケアンの言葉は真実で、そもそも彼がミルファの元へとやって来た目的── 儀式や祭事で必要な作法や神学的な知識を教授する事はとっくの昔に果たされていた。
 …けれど。
 それだけではなかったと思うのは、独り善がりな考えだろうか。
「…どうして、顔を上げないの?」
「お許しを頂いておりません」
「そんなもの、必要ないでしょう!?」
 つまらないと思っていた作法や勉強を進んで学ぼうとするようになったのも、その事が好きになったからではない。
 ケアンが教えてくれるから── 初めて自分と同じ高さで物を考えようとしてくれた人が『先生』だったからだ。
 ケアンが来てくれるようになって、毎日が楽しかった。
 次に彼が来たら何をしよう、何を話そう── そんな事を考えるだけで、嬉しかった。
 自分が頑張ればこれから先もずっと来てくれるに違いない、子供心にそう思ったからこそ、苦手だった勉強も頑張った。
 ──『友達』だと、思っていた。
 皇女とか神官とかそうした物とは関係なく、同じ高さにいてくれる事を願っていたのに。
 けれど、彼は今自分を『様』という敬称をつけて呼んだ。
 いろいろと理由をつけて、二人でいる時は普通に名前だけで呼んでくれるように頼んで以来、第三者が側にいない時はそんな敬称をつけないでいてくれたのに。
 それだけなのに、はっきりと線引きをされたのがわかった。
 今までのようにはいられないのだと。お互いの立つ位置は、決して同じ高さではなかったのだと。
 ── ひどく裏切られた気持ちになった。
 心の何処かでケアンの態度を理解しながら、感情は止まらなくて。何を言ったのかは覚えていないけれど、恐らく一方的に非難する言葉を投げつけた。
 それでもケアンは一度も顔を上げる事なく、ミルファの言葉をただ受け止めた。その態度が益々腹立たしくて──。
 そして言葉が途切れた時、彼はようやく顔をあげると今まで一度も見せた事のなかった硬い表情で小さく『ごめん』と呟いた。
 …それが、ケアンと交わした最後の会話。そのまま立ち去って行く彼に、ミルファは何も言えずにその背を見送って──。
 ケアンは、一度もミルファの方を振り返る事はなかった。
 その後にあった祝宴に、主役であるミルファが欠席する事など許されるはずもなく。
 祝辞を述べる人々を前に、沈んだ気持ちを抑えて、ミルファは精一杯楽しげに笑おうと努力した。
 自分を祝ってくれる場で、暗い表情など見せてはならない事くらいわかっていたけれど── その努力が実ったかどうか、自信はまったくない。

+ + +

 気がつくと全てが終わっていて、ミルファは自室で一人立ち尽くしていた。いつ着替えたのかすら覚えていない。
 そんな自分に呆れつつ、もう泣いてもいいんだなとぼんやり考えて── けれど、何だか泣く事も間違っている、そんな気がした。
 心が今までになく傷付いている。それは確かだ。でも──。
 自分でもよくわからない感情を持て余して、寝るに眠れず向かった先は、母である南領妃サーマの元だった。
 前触れもなく顔を見せたミルファを、サーマは驚いた様子も見せずに黙って部屋へ迎え入れてくれた。
「ミルファ。それはあなたが間違っているわ」
 ミルファから事と次第を聞いたサーマは、静かな口調できっぱりと言い放った。
 おそらくサーマ以外の人間がそう言ったなら、素直に受け止める事は出来なかっただろう。
 否定する言葉ながらも、あくまでも客観的に発せられた言葉は、思った以上にすんなりとミルファの心に落ち着いた。
「…お母様。わたくしは、何を間違ったのでしょうか?」
 問いかけると、サーマはふと表情を和らげた。
「否定しないのね、ミルファ」
「……」
「あなたの気持ちはわからないでもないわ。けれど…自分の立場を忘れるのは良くないわ。そして、相手の立場も」
「立場……」
 自分が皇女で、ケアンが神官である事は理解していたつもりだった。
 相応の自覚も持っているつもりだったけれど── 足りなかったという事なのだろうか。
 考え込むように俯くミルファへサーマは続ける。
「ミルファ。あなたは皇女であっても、位の上下に拘(こだわ)らずに人と接する事が出来る。それはとても良い資質です。けれど…忘れてはならないわ。それはあなたがあくまでも『上』に属するからこそ許されるという事を」
 逆を言えば、『下』に属する人間が同じ行いをすれば、大抵が『不敬』に当たるとして処罰の対象にすらなる。
 皇帝自身が生まれではなく能力を重視する傾向を持つが故に、上下関係に関して厳しくはないが、ほんの少し前ならばたとえ側近くに仕える者であろうと、皇女と女官や警備兵が親しく会話を交わすなど有り得ない事だった。
 それは同様に神殿に関しても言える。
 彼らに身分の上下はないが、役職による位階が存在する。
 地方神殿の規模ならばさておき、神殿の頂点である大神殿におけるそれは、何処よりもはっきりとしたものだ。
 下だからと蔑(さげす)まれる事はない。だが、望んでも自分にそれだけの能力がなければ決して上には行けない世界である。
 …その中で。
 ケアンという少年の立場はあまりにも微妙な位置に存在している。
 『神童』とさえ呼ばれ、最年少で大神殿入りを果たした彼は、未だ見習いではあるものの、大神殿の長である主席神官に目をかけられ、正神官になった後はすぐに補佐付けになるのではないかとまで目されているらしい。
 神殿内部の事は、皇帝の右腕として働くサーマの元ですら、多くは聞こえてこない。
 噂だけでも届くという事は、それが神殿においてかなり注目されている出来事だという事だ。
(…彼の本心はわからないけれど……。少なくとも、上からの圧力はかかった事でしょう)
 神殿は元々、皇家との直接的な関わりを持ちたがらない傾向がある。
 政(まつりごと)を司る皇家と宗教を司る神殿は並び立ちはしても、交わってならない…らしい。
 らしい、と曖昧なのは、その原則を覆(くつがえ)す存在がいるからだ。
 ── 第二皇女ティレーマ。
 現在は西の果てに存在する地方神殿に入っている、皇女でありながらも神官という人物。
 しかも、伝え聞く話だと彼女は『聖女』としての能力に目覚めたらしい。
 ただの神官であれば、その立場は複雑なものにはならなかっただろう。
 神殿側も、ティレーマがその能力を持たなければ、しかるべき時に皇女として皇家に戻すつもりであったらしい。
 しかるべき時── 現皇帝が皇位を譲り、次代の皇帝がその血を継ぐ子を為し、彼女の皇位継承権が抹消された時に。
 …だが、聖女となれば話は変わる。
 神殿においても特別視される存在である。簡単に手放せる存在ではなくなってしまった。
 ただでさえ、その事実で大神殿は皇家との関わりに過敏になっている。
 ── 第三者から見ても、ミルファとケアンはあまりにも距離が近かった。
 本人達は友人、あるいは兄妹のように思っていたとしても、周囲がそう考えるとは限らない。
 何しろケアンはまだ見習いでしかない。彼が望むなら、神官でなくなる事も出来るのだ。
 今引き離さなければ、と神殿側が考えたとしても何も不思議ではない。
「…わたくしは、ケアンにひどい事をしたのでしょうか」
 しばらく考え込んでいたミルファが、ぽつりと呟いた。
「ミルファ?」
「お母様の仰る通りなら…ケアンは本心から来ないって言った訳じゃないかもしれないのでしょう……?」
 一方的な言いがかりを、彼は黙って受け止めた。
 最後にぽつりと漏らした『ごめん』という謝罪を、言わせてはならなかったのではないだろうか。
「…わたくし、ケアンを傷つけてしまったかもしれない」
 今まで喧嘩など一度もした事がなかった。
 彼が怒った顔など見た事もなかったし、自分が怒るような事はなかった。彼の訪れが、とても楽しみで楽しみで──。
「もう、会えないのでしょうか?」
 ぽろりと、涙が零れた。
 それは先程までの荒れた気持ちとは違う、無意識のものだった。
 胸の奥が痛い。けれど、それは傷ついた痛みではなく、傷つけてしまった事への後悔だった。
「…謝る事も、出来ないのでしょうか……?」
「ミルファ……」
 声を上げずに、ただ涙だけを零す娘をサーマは抱き寄せた。
 ── こんな風に、泣く事がなければとずっと願っていたのに。
 そんな内心の思いを口にする事は出来ない。
 あまりにも自分に似ている娘。外見だけではなく、傷付く場所までも同じなのだろうか──。
(…いいえ。まだ、わからないわ)
 自分にはないものを、ミルファは持っている。物怖じしない心と、打算のない素直さを。
 ならば、同じ結末を迎えるとは限らない。どんなに似ていても、この自分とは違うのだから。
「…確かに、今までのように気軽に会う事は不可能でしょう」
 今までの名目がなくなった今、彼が南の離宮に訪ねてくる理由もなければ、ミルファが大神殿に訪ねて行く理由もない。
 訪ねて行ったとしても、皇女としての訪問となる。ケアンのような一介の見習い神官がミルファの応対に出る事はないだろう。
「けれど──」
「…けれど……?」
「…あなたがもう少し大人になって、祭事へ本格的に参加するようになった頃には、彼も正神官として行事に携わる事になるでしょう。そうすれば、会う事は叶うかもしれません。ただし…今までと同じとは行かないでしょうけれど」
「……」
 会えたとしても、直接会話を交わせるかどうかもわからない。その程度の事はミルファにも想像出来た。
 第一、ケアンが自分とまた顔を合わせたいと思ってくれるかどうか──。
 それでも、涙は止まった。
「わたくし…諦めません」
 あんな悲しい終わり方は嫌だと思う。もう二度と同じように、優しい時間を過ごす事は出来なくても、今でもケアンは自分にとっては特別の人間なのだ。
「時間はかかっても…ケアンに必ず謝ります」
 同じ高さで言葉を交わす事が出来なくなっても。もう一度、彼の笑顔を見れるのなら──。
 幼い心に決意を宿すミルファを、サーマは黙って抱き締めた。

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