天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(24)

 朝が訪れ、夜明けと共に起き出したティレーマは、いつものようにラーマナへの祈りを捧げた。
 仮とは言えども神官という立場から解放された身である。だが、もはや神と共にある生活はティレーマの一部となっていて、完全な習慣となっていた。
 まだ起き出している人間の方が少ないであろう、時分。耳を澄まさずとも、物音はほとんどしない。
 そんな朝の静寂の中、ティレーマはミルファの部屋へと向かう。訪れるには早すぎる時間だが、ミルファの様子が気にかかった。
 一日二日ならばまだ若い事もあって何とか持つかもしれない。だが、それ以上となればいくら体力があろうとも衰弱しないはずがない。
 今日は目覚めてくれるだろうか──。
 そんな物思いに沈みながら、自室から僅かな距離を進む。ほとんど無意識に扉を叩き── 思いがけず、内から応えがあった時、ティレーマはまず自分の耳を疑った。
 まさか──。
 けれど、ミルファが目覚める事を祈るように願っていたのは事実。
「…ミルファ!?」
 現実だと信じたい気持ちと、都合の良い幻聴かもしれないという不安の中、開け放った扉の向こうに佇むミルファの姿を見た瞬間、ティレーマはその場に立ち尽くしていた。
「…おはようございます、姉上」
 白っぽい朝日の中、微苦笑を浮かべているのは確かにミルファで。
 そこには昨日までの苦しみはなく、むしろそれまではなかった自然体の表情があって──。
「ミ、ミル…ファ……。本当に…目覚めたの…?」
 信じきれず問いかければ、ミルファは頷く。
「…大丈夫なの……?」
 感情的になってはならないと思うのに、声が、体が震えた。
 ミルファが自ら心を閉ざしてまで忘れていたいと願った過去。それを思い出させる切っ掛けを与えてしまった事実が、ティレーマの足を竦ませる。
 望んだ結果ではないけれど── 支えたいと願った妹を、結果的に苦しませてしまった事がティレーマには許せなかったのだ。
「…心配をおかけしました。もう、平気です」
「でも…でも、ミルファ……」
「平気と言い切るのは…確かにちょっとおかしいかもしれません。…思い出してしまいましたから」
 何を、と具体的には言わずにミルファはきゅっと胸元を握る。
 服の下にはケアンの聖晶。なかった事にしてしまいたいと願った、その代償の大きさを語るもの。
「── 忘れて良い事ではなかったのです。本当なら、誰よりも覚えていなければならなかった」
 大事な人達の死を。彼等の死の果てに、今ここに生きている事を。
 辛い過去を振り切ったようにミルファは穏やかに微笑むけれど。ティレーマにはその言葉を素直に受け入れられなかった。
「それでも…辛い、記憶だったのでしょう……?」
 ティレーマには忘れてしまいたい程、辛い記憶はない。
 確かに神官として一人皇宮を離れ、家族との触れ合いが皆無であった事は不幸な事なのかもしれない。
 けれど家族との関係が希薄であったからこそ、皇帝の乱心の際に母や兄妹を失っても、冷静さを失わずにいられた。
 だが── ミルファという『家族』を得た今、もしその身に不幸が降りかかったらと考えた時。
 …ティレーマは母の死を知った時ほど、それを冷静に受け止められる自信がなかった。
 もうすでにミルファは、ティレーマにとってかけがえのない存在なのだ。
 大切な人を失う記憶は、確かに時と共に癒されるものなのかもしれない。それでも、相手が大切であればあるほど、癒されるのに時間がかかるはず。
「過去であっても…痛みの消えない記憶ではなかったの」
 ザルームに対する小さな不信が、こんな事を引き起こすなど思ってもいなくて。
 ── ミルファを苦しめてしまうなどと思ってもいなくて。
 でもだからと言って簡単に済んだ事に出来る事ではない。だからティレーマは前へ進めない。
「── ごめんなさい…わたくしはなんて愚かな事を……」
 合わせる顔がなくて、思わず俯(うつむ)いたその視線の先に、ミルファのつま先が見えた。
 反射的に顔を上げればすぐ目の前にミルファが近寄っていた。その手が伸び、ティレーマの手を取る。
「謝らないで下さい、姉上。ご自身を責めないで下さい。むしろ…私はお礼を言わなければならない位なのですから」
「え…?」
 予想外の言葉に、ティレーマの赤瑪瑙の瞳が丸くなった。まったく似ていない姉を間近で見つめ、ミルファは思う。
 純粋で真っ直ぐで優しい姉── この人と自分の間には、ひょっとしたら血の繋がりはないかもしれない……。
「…側で見届けてくれると言って下さったでしょう? 十年以上も会った事がなかった私を、『妹』として接してくれた……。私は…とても嬉しかった。あの時は嬉しいと思っている事もわからなかったけれど……」
「ミルファ…」
「全てを思い出した今ならわかります。私はあの時思ったんです…心の奥底で。『私にはまだ家族がいる』…と」
 あの時、ティレーマは抱きしめてくれた。
 久しく忘れていた人の温もりは、何処か今は亡き母、サーマを思い出させて。
 ── そう、血の繋がりを、『家族』を心から欲していたのは、むしろ自分の方だった。
「一人ではないと、言ってくれたでしょう?」
 自分を見つめる瞳は優しくて、心から案じる言葉が嬉しくて──。ティレーマの存在は、ミルファに大事なものを思い出させてくれた。
 それは確かに、かつてミルファが当然のように享受し、そして乱暴な手によって奪われたものと同じもの。
 同じだったから…嬉しいと思う事を認められなかった。また── 喪うのではないかと。奪われてしまうのではないかと。
「…私に、守れるでしょうか? 今度こそ大切な人達を」
 問いながら声が震えた。
 抗う事すら出来ずに、また無力に奪われてしまうかもしれない。父は── 父の背後にいる存在は、一筋縄で行く相手ではない。
 剣を使えるようになったからと言って、ミルファ自身が彼らに対抗出来るだけの力を得たかと言えば、答えは否だ。
 それでも、守りたいと思う。心の、底から。
「ミルファ…」
「私はみんなを…守りたい……」
 それは願いというよりは、祈り。喪われる痛みを知ったからこそ、思わずにはいられない。
 大事な人達がいつも幸福である事を。
 先へと進む事を決めたものの、その可能性がミルファの決意を鈍らせる。
「私は行きます。進むと…決めました。けれど、その為に姉上達を危険に晒してしまうかも──」
「…ミルファ。あなたの気持ちはよくわかったけれど…一つ忘れていないかしら」
「?」
 無意識に下げていた視線を持ち上げると、真っ直ぐに見つめるティレーマの瞳があった。
「あなたがそう思うように、わたくしも…みんなもそう思っているし、あなたが思うほど、わたくし達は脆くないわ」
 ティレーマの言葉はミルファの心へ響く。
 信じろと、視線が語りかける。信じていいのだと、伝えてくれる。
「あなたが全てを背負う必要はないの。みな…それぞれの思いを抱えて、その上でミルファを必要とするからここにいるのよ」
「ですが…」
「…進むのでしょう? だったら前を向いて進みなさい。後ろの事など気にせずに」
 励ますように、いつかのように── 優しい熱が、ミルファを包む。
「思うように進みなさい。そして、終わらせましょう。わたくしは約束通り、全てを見届けますから。見届けるまで、どんな事になろうとも側にいますから……」
 熱と共に伝わるのは明確な意志。それはミルファが一人ではないと教えてくれる。
「はい…終わらせましょう。全てを」
 改めて心に誓う。
 それがどんな結果を齎すかはわからない。また全てを喪ってしまうのか、それとも守りきる事が出来るのか。
 自分にその権利があるのかさえわからない。真実はすべて闇の中。
 それでも自分には、どんな時にも従ってくれる『影』がいる。側にいてくれる姉もいる。他にも多くの人が自分の決断を待っている。
 彼等が進む事を許してくれるなら、自分は先を恐れない。恐れる必要もない。
 ── たとえ進んだその先に、どんな結末が待っていようとも。

+ + +

 見上げた空に浮かぶのは、全てを照らす太陽。
 闇を祓い、全てを輝かせる光が世界を覆う── 世界が目覚める。
 けれど光がいかに満ちようと、その裏で闇は未だに蠢(うごめ)き続けている。
(── 私は…『影』。光と共に在り続ける事は許されない)
 さらさらと時間が零れ落ちてゆく。
 引っ繰り返した砂時計の、残りの砂がどれだけ残っているのか誰にもわからない。
 けれど確実にその時は迫っている。…刻々と。
「う…く…っ」
 耐え切れず膝から崩れ落ちるその痩身を支えるものはなく。倒れ伏した彼の姿を、窓辺から差し込む光が刺す。
「…報い…でしょうか……」
 思わず零れ落ちた言葉には自嘲が滲(にじ)んで。
 人ならぬ身でありながら、それでも願う己の身を嘲笑う。

 ── どうか、あともう少し。

 足掻いて足掻いて── そうした所で、落ちる砂の速さが遅くなるはずもないのに。
(まだ…やらねばならない事が、残っている…のに……)
 強制的に解除した呪術は、彼に致命的な傷を負わせていた。肉体ではなく、彼の『命』そのものに。
 それもそうだ。この『器』に直接の呪術は効かない。
 行き場を失った力をあの場にいたティレーマやルウェンから可能な限り反らすには、別の物へ仕向ける必要があった。
 肉体が受け入れられないのであれば── それ以外に向けるしかない。
(見つけなければ…王の探し物を……)
 それは彼が肉体を得、意志を獲得した時に交わされた契約。

 ── 皇女ミルファを皇帝にする為の力をやろう。

 『王』はそう言った。
 その代わり、自分では探せないものを見つけ出せ、と。
 どうやってと問う自分へ王は笑った。それは見る者の心を凍えさせる程の、冷たい笑み。

 ── お前が動けば、奴は必ず気付く。

 それが哀しみなのか、憎しみなのか── はたまたその両方なのか。未熟な感情しか持たない彼にはわからなかった。
 わからないまま、契約を交わした。
 …王が求めた事は探し物ともう一つ。

 ── 呪法は使うな。きっとお前は…食われてしまう。

 その契約を破った結果が、今の自分だ。
 一体、何に食われてしまうのかという疑問はすでに解けている。…この、『器』の中にある『意志』だ。
 呪法を使った後に襲ってきたのは、抑えきれない破壊願望。狂気。
 ケアンによって生み出された『影』としての意志を凌駕し、容易く彼を支配した。

 ── コロセ、コワセ、ホロンデシマエ!!

 それはまるで、溶岩のような憎悪。
 ドロドロと溶け合い、元々の感情すらわからない。何故そんなものが自分の内にあるのか。
 …その答えを知るであろう存在は、手の届かない場所にいる。
 彼はそのまま布の内で目を閉じる。焼け石に水だとわかっていても、今の彼に休息が必要だった。
 ミルファは過去を取り戻し、それを乗り越え進む事を選んだ。
 ここから先は、恐らく今まで以上に厳しい現実が待つだろう。ミルファにとっても── 彼にとっても。
 審判の日は── 近い。
 全てが明らかになる時、ミルファの側にまだ自分はいられるのだろうか。
 滅ぶのが先か、全てが終わるのが先か。
 わかっているのは、自分に残された時間があと僅かだという事──。

+ + +

 光がなければ影は生まれず。
 光が失われれば影は消える。
 また新たに光が生まれても、そこに生まれる影は最初のものと同じではない。
 …何故なら影は、闇とは違うから。
 いつか消えるとわかっているからこそ、願う。

 どうか、光を。
 どうかあと、もう少しだけ。
 ── 全ての憂いが断たれる、その時までは……。



第四章 呪術師ザルーム(完)   第五章へ続く

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