天 秤 の 

第四章 呪術師ザルーム(23)

 ── 思い出す。
 呼び出され、『己』を得た時の事を。
 彼は、思い出す。
 最後に食らった『魂』にあったのは、死への恐怖でも諦念でもなく。
 たった、一つの願い。
 …それこそが、行使された術の正しい姿。禁呪とされたのは、術者の命を代償とする為だけではない。
 術者の死を求められるが故に、『成功』する確率が極度に低い為だ。
 《闇の王》召喚に必要なのは、術者の血液と生命、そして── 死を賭しても叶えたいと強く願う心。
 だが、多くの人は己の死を受け止めきれず、恐怖に押し潰され、願い自体を忘れてしまう。それは生き物の本能であり、それが当然なのだ。
 天寿を全うし、あるいは心残りを全てなくして、ようやく死は安らかな物へと変化する。本来の寿命を断ち切る行為に恐怖が伴うのは、それが自然に反する行為だからだ。
 だが、極稀にその恐怖に打ち克つ者がいる。
 年齢や経験は関係ない。それこそ、一種の資質的なものなのかもしれないが── 願いを叶える為に己を犠牲とする事を、全く厭(いと)わない者。
 彼を呼び出したのは、その一人だった。

 ── ミルファを死なせたくない。

 打算からでなく、ただ無事を願う祈りにも等しい願い。
 それはあるべき場所から引き寄せられ、己の存在すら知覚していなかった彼を縛る。
 《闇の王》召喚の呪術は、命と引き換えに願いを叶えるもの。己を犠牲にするその術を、何故その少年が知っていたのか── それはわからない。
 その術が『渡し守』と称されるモノに己を食わせ、魂に刻んだ意志を遂行させるものだと、果たして知っていただろうか。
 己がない彼は、自我がない故に簡単にその魂にあった願いを受け入れた。
 …もし、普通に術が完成していたのだったら、おそらくもっと違う展開になっていたはずだ。
 『ミルファの命を守る為』に、彼は殺戮者と化し、刺客は元より、その命を狙う皇帝の命を屠(ほふ)っただろう。
 本来どちらの界にも属さない彼になら、それは不可能ではなかった。
 しかし、その願いがあまりにも強く純粋だったからか。それとも── 願いの持ち主が、『特別』だったのだろうか。
 あるいは、第三者が介入したからかもしれない。
 術は完成されながらも、別の変化を齎(もたら)した。
 少年── ケアンの願いは彼を縛り、浸透し、本来存在しないはずの意志を生み出す。

「…わた…し…が……」

 ── 私が、全てを。
 それが彼が発した最初の言葉。そして、同時に彼が『彼』たる意志を持った瞬間。
 ミルファを襲う全ての困難を、ミルファが負う全ての傷を。代りに受け止め、代りに背負う。
 ケアンの魂から受け取ったのは、意志だけではなかった。彼が知る限りの膨大な『記憶』も共に彼に溶け込んだ。
 …そしてそこに居合わせた第三者によって、『器』を手に入れ。『器』からは、ありとあらゆる呪術の知識を手に入れ──。
 そうして、彼は『影』となった。
 皇女ミルファを皇帝と為す為だけに存在する者に──。

+ + +

「── お目覚めになられましたか」
 目を開くと、まるで目覚める事がわかっていたかのように、彼はそこにいた。
 周囲の薄闇に溶け込むようにひっそりと、しかし寝台に横たわるミルファからもわかる位置でいつものように主に対する礼を取る。
 耳に馴染んだ陰鬱な声が、何故か不思議と懐かしかった。つい先程までも、『夢』の中で耳にしていたはずなのに。
「全てを…思い出されましたか?」
 静かな問いかけ。
 意図的なのか、そうでないのか、彼は主語を交えずに尋ねる。ミルファはしばし考えた後、ゆっくりと頷いた。
「…一番忘れたいと、望んだ事も」
 苦笑の混じるその声は、微かに震えている。ザルームが封じたものは、五年の歳月を経てなお、心に衝撃を残すのに十分だった。
 目を閉じれば脳裏に思い浮かぶ。
 優しかった『家族』達の無残な最期。変わり果てた母の姿。そして── 敬愛していた父の狂気。
 むしろ封じられていたが故に、それらは風化する事もなく克明に示す。全て、現実に起こった事なのだと。
(わたくしは…父の子ではないかもしれない)
 ぎゅっと胸元を握り締める。真実を知るであろう母が亡き今、それを完全否定は出来ない。
 もしもそれが事実ならば── 果たして、自分に父を討つ権利があるのだろうか? 否、それ以前に…自分には『皇帝』を継ぐ資格がないという事になる。
 そして──。
「ザルーム…あなたは、人ではないの?」
 『夢』の中でザルームは、自身が『渡し守』であると語った。五年もの間側にいた彼が人外の存在であったなど、にわかには信じがたい。
 だが、ザルームは静かにミルファの言葉を肯定する。
「── その通りです、我が君」
 陰鬱な声音に、動揺は微塵もない。その様子で理解する。彼は── 全てを話す気でここにいるのだ。
「私はかつてケアンという名の少年の命を食らい、その願いを受けました。彼の血と命を代償に、私は意志を得、彼の願いを叶える為に力を求めました」
 淡々と語られる言葉に、嘘や偽りは感じない。それはケアンの死も確定的な事にする。
 ミルファはぎゅっと、胸元を握り締める。無意識に行ったその指先が、ある感触に触れた。
 ── ケアンの聖晶。
 微かな光を帯びたそれは、偽りの物には見えない。だが── ケアンが死んだのなら、その光があるはずもない。
「…どうして光を失っていないの?」
「おそらく…ですが。私の中に、彼の魂の一部がまだ残っているからでしょう」
「え…?」
 思わずまじまじとザルームに目を向ける。
 おそらく、無意識の内にそれは縋(すが)るようなものになっていたのだろう。ザルームは緩く頭を振った。
「…ケアンは死にました。彼が望んだ事とは言え、結果的に私が命を奪ったようなものです。ミルファ様── 私を憎みますか?」
 静かな問いかけに、ミルファは答える事が出来なかった。
 途切れた記憶が繋がり合い浮かび上がったのは、大切に思っていたものが全て失われてしまったという事実。
 頭の中では理解出来ても、心はまだ追い着かない。心の中にぽっかりと空いた空洞を、どうやって埋めれば良いのかわからない。
 
『もしかして…初恋の人、とかですか』

 不意にルウェンから尋ねられた言葉が甦った。
 尋ねられるまで自覚すらしていなかった感情。辛い時、苦しい時、いつも心の奥で縋ったのは彼の存在だった。
 今ならわかる。自分は確かに、ケアンが好きだった。好きだからと言って、叶う想いではないと知っていたから、気付かない振りをしていただけ。
 けれど…たとえ実る可能性のない恋でも、こんな風に失うはずではなかったのに。
 ── ケアンはもう、この世にいない。
 相手の幸せを祈り、淡い想いを思い出に変える事すら、ミルファには許されなかった。
 それどころか、最後の最後まで── 傷つけた事を謝る事も出来ずに。
 胸が苦しいのに、押しつぶされそうなのに…それでも涙は出なかった。こんな時ですら、誓いを忘れない自分が滑稽だった。
 もしかしたら、そんな資格すらないかもしれないと言うのに──。
「…ごめんなさい、一人に、して……」
 まだ、ザルームから聞くべき話はいくつもある。けれど今は、何を聞いても受け入れられる気がしなかった。
「── 御意」
 ミルファの言葉を受け、ザルームは深く一礼するとその姿を消した。

+ + +

 夜が明けたのか、ゆっくりと室内が明るくなってゆくのを、ミルファはぼんやりと見つめた。
 あれからひたすら考え続けていた。
 自分はザルームをどう思い、どう接したいのかを。

 ── 私を憎みますか?

 ザルームの言葉が、幾度も頭の中を巡る。
 ケアンが死んだ事は悲しい。だが、その命を奪ったザルームに対して憎しみを抱くかと問われれば── 答えは出なかった。
 そう、憎む事など出来るはずもない。
 心を閉ざした自分を、記憶を封じる事で現実へと引き戻してくれた。
 南への道中、歩き慣れない自分を庇いながらも、道や食料を確保してくれた。
 …何の力もなかった自分へ、父に立ち向かえるまでの力を与えてくれた。
 今の自分が在るのは── 全て、ザルームのお陰なのだ。
 いつの間にかいるのが当たり前のようになっていて。同時にいつも不安だった。
 彼ほどの力を持つ者が、何故自分へ助力してくれるのかと。いつか裏切られてしまうのではないかと。
 今ならそれが杞憂だとわかる。記憶を封じる際に、暗示のようなものもかけられたのかもしれない。
 そうでなければ── 恩人とも言える彼に、あのような高圧的な態度を取り続けられたはずもない。
 もしかすると、ザルームは全てが明らかになる事を予見してそう仕向けたのかもしれなかった。ケアンの死を知った時、ミルファが彼を憎めるように。
 …でも。
 五年の月日を思い返す。どんな時も、ザルームは側にいてくれた。
 それが彼の存在理由に過ぎなかったのだとしても── ミルファは彼のお陰で、真の孤独を味わわずに済んだのだ。
 ── 夜が明ける。
 窓から明るい光が差し込む頃には、ミルファの心は結論を出していた。
 そっと首から聖晶を持ち上げる。そこにある春の空の色に、胸は切なく痛んだけれど。
 それは今まで縋ってきた、『過去』の象徴。幸せだった頃の自分に繋がるもの。
 ザルームは言った。もう、自分は一人ではないのだと。
 その言葉は真実であったのに、頑ななまでに受け入れられなかったのは── 封じられていても、一時に全てを失った記憶がどこかに残っていたからだろう。
 大切なものがたくさんあった。それは南の離宮という、小さな世界が全てだったミルファには、何にも替えられないものだった。
 父も母も、南の離宮の人々も── ケアンも。それを失った事で、幼い心は一度は壊れかけた。その時の事を、何処かで覚えていたから。
 けれど今── ミルファの世界は広がっている。ザルームの言葉どおり、見回せば、ミルファの周囲には愛すべき人々がいる。
 支えようとする腕。守ろうとする手。見守る眼差し。向けられる笑顔。
 また失う事が怖くて、その全てから背を向けていた自分。なんて── 愚かだったのだろう。
「私は…行くわね」
 前へと進む事が、自分が生き延びる事を望んでくれたケアンへ、唯一出来ること。
「…今までありがとう、ケアン」
 目を閉じれば、彼の笑顔が浮かぶ。側にいなくても、どんなに彼に支えられただろう。
「今度は、私の番」
 再び目を開いたミルファの瞳に宿ったのは、真摯な光。
 もしかしたら、自分に皇帝となる資格はないのかもしれない。それでも今まで歩いてきた道を、放棄する事は出来ない。
 何より…これ以上罪を重ねて欲しくはないと願う心は変わらない。
 今までにたくさんの命が奪われた。多くの哀しみが生まれ、多くの涙が流れた。ミルファのように家族を奪われた者もいるだろう。
 ── これ以上あんな思いを、自分以外の誰にも味わわせたくはない。
「私は── お父様を討つ」
 それはかつて、口にした言葉。
 兄を喪った哀しみと、その命を奪った父への絶望から生まれた誓い。
 けれど、今は──。
「それで全てを終わらせる。それまでは過去は振り返らない。…あなたの為に泣くのはそれから後になるけれど、許してくれる……?」
 答えはない。けれどミルファは決めたのだ。
 今の自分を必要としてくれる人々の為に生きる事を。生きて── より良い道を勝ち取る事を。
「…ザルーム」
 名を呼ぶと、彼はすぐに姿を見せる。
 彼もまた眠れなかったのだろうかと考えると、自然にミルファの顔に微笑が浮かんだ。
「私はずっと…あなたやルウェン、姉上…着いて来てくれる皆に助けられていると思っていました。その助けがあるからこそ、立っていられると」
「ミルファ様…」
「でも…違った。私が無力なのは事実だけれど…それでも必要とされている。私にしか出来ない事がある。あなたはそう、言いたかったのでしょう?」
 心を閉ざしていたのは、術のせいだけではない。目を覆っていたのは自分自身であった事にミルファは気付いた。
 気付いた今こそ、彼に告げるべき言葉があった。
「私はもう一人ではない…いつか言ったのは、そういう事だったのでしょう?」
 それは確かな事実。けれど、ザルームは恐らく気付いていない。
「…それは正しいけれど、一つだけ間違っています。私は…いつも一人ではなかった。真実一人きりだった事など一度もなかった。…そうでしょう? ザルーム…あなたがずっと側にいてくれたのだから」
 ミルファの言葉に、ザルームは何も答えなかった。
 表情を隠すフードのせいで、彼がその言葉をどのように受け止めたのかさえわからない。
 ケアンの命を奪った相手だとしても、最初から憎しみなど抱けるはずもなかった。
 混乱はしたものの── 自分の感情を確かめれば確かめるほど、出てくる答えは一つだけ。
「側にいてくれて、ありがとう」
 その名の通り、影からずっと支えてくれた人。彼に守られ、彼に導かれてここまで来た。
 そんな存在にどうして憎しみなど向けられるだろう?
 ミルファの出した答えに、ザルームは沈黙したまま佇んでいた。思いがけない言葉に、呆然としているようにも見える。
 やがてザルームはゆっくりと主に対する礼を取った。
「…ありがたきお言葉です、ミルファ様」
 その言葉を、ミルファは穏やかな気持ちで受け止めた。
 昇りきった朝日が室内を明るく照らす。それはまるで、最初に主従の誓いを交わした廃屋とは対照的な光景だった。
 これでいいのだと思った。またここから、先に進められる。
 ── この誰よりも忠実な、『影』と共に。

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