天 秤 の 

第五章 皇帝カルガンド(9)

 ギ、ギィィ…と鈍く耳障りな軋み音を立てて、その扉は開いた。
 パラパラと何か粉のようなものが床に落ち、見ればかつては小まめに油を差し、磨かれていた蝶番(ちょうつがい)が真っ赤に錆付いている。
「……」
 彼はそこに流れた年月を感じ、静かに吐息を漏らした。
 ── 己を取り戻してから、五日ほどか。
 流石に昼夜の区別はつくが、今が界暦の何年であるのか、何日であるのかなどまったくわからない。気温から夏だろうと推測するものの、それが正しいという保障は何処にもない。
 わかった所で何かが劇的に変わる訳ではないが、出来る事なら確実な『現実』に繋がるものが欲しかった。今もまだ何処か現実感は乏しく、夢でも見ているのではないかと思えるほど。
 そのまま蝶番から己の両手に視線を移す。
 その手はやせ衰え、まるで骨に皮だけを被せたような有様だった。齢を重ねに重ねた、老人のような手── だが、そうした衰えを感じさせるのはその部分だけだ。
 そこだけ時間が早く流れてしまったのかと思うほど、その部分以外の変化は思った以上に少なかった。
 部屋を広く見せるだけでなく、乏しい照明の光をより明るく効率よく広める為に壁の要所要所にはめこまれた鏡。そこに映る姿は、やつれてはいたものの老人と表現するほどのものではない。
 足腰も予想していたよりもずっとしっかりしていた。もっと萎えて、立ち上がる事も覚束ないのではないかと思っていたのに──。
 流石にすぐさま立って歩けた訳ではないが、それでも二、三日もすれば歩き回るくらいの事は出来るようになった。
 …肘(ひじ)から先だけ。
 その変わりようは奇異と言えば奇異だが、彼はそれをまるで天罰のようなものに思えた。
 かつてこの手は、大切なものを── 守るべきものをこの世から奪い去った。その報いなのだ、と。
(…いや、罰されたいのだ私は)
 犯した罪は重い。赦されるような行為ではない。
 その事は誰よりも己が知っている。可能ならば今ここで、己の命を断ち切って贖罪に変えられたらとさえ思う。
 けれど── 己の死は何も贖(あがな)えない。そうした所で失われた命が返るはずもなく、今現在も『皇帝』である限り、逆に事態をより悪化させるだけだ。…だから、自殺も出来ない。
 薄く唇を噛み締める。考えれば考えるほど、自分は本当に無力なのだと思い知るばかりだ。
 意識を取り戻した時に側にいた、自称『悪役』の男の姿は今はない。
 一日に一度、何かしらの食料を手に現われるが、明らかに彼の生命維持の為の食料で、一緒に食事を摂る訳でもなくすぐにふらりとまた姿を消してしまう。
 最初こそとまどいはしたものの、彼もすぐにそんな状況を受け入れた。
 つまりは無関心なのだろう。生きていてもらわなければ困るが、彼が何をしようと興味がないのだ。もしくは── 何も出来ないと思っているのだろう。
 実際、今の彼は歩くのがやっとで帝宮を出る事など不可能だろうし、そもそもそんなつもりもない。出た所で一体何が出来るというのか。
 今、謁見(えっけん)の間から出ようとしているのも、決して逃亡の為ではなかった。  罪を贖えない身でも、唯一出来る事がある── それを為す為に。
 それは、今の時点で彼にしか為し得ない事だった。たとえそれが自己満足であろうと、無為に時間を過ごすよりは遥かに心が救われる事だろう。
 一歩、一歩、確かめるように歩き出す。拙い歩みながらも、その一歩は確実に彼の望む場所へと続いている。
 目指す目的地へと歩みながら、彼はふとある事に気付き、微苦笑を浮かべた。
(…一日の予定が決まっていないなんて、随分と久し振りだな)
 彼が名実共に皇帝であった頃、その一日は事細かく決まっていた。
 眠る時以外に自分の時間など、一日にどれだけあった事か。それでもそれが当たり前なのだと思っていた。
 いや、『思わされてきた』と言うべきなのだろうか?
 世界を動かす『歯車』である事を、疑問にも感じずに。ただ、日々を重ね── そして次代に運命を引き継ぎ、命を終える。そんな未来が訪れるのだと……。
 そこで彼ははた、と今まで考えもしなかった事を思い出した。折角の歩みも自然と止まる。
(そうだ── 『次』は誰なんだ)
 彼が乱心するまでは、次期とみなされていたのは第一皇子のソーロンだった。果たしてソーロンは今どうしているのだろう。生きているのだろうか、それとも──。
 めまぐるしく思考が巡る。夏の熱気のせいだけではない、嫌な汗が額に浮かんだ。
 …覚えている。
 この手に剣を取り、次々に命を摘み取った。皇子に皇女── 直系に属する者達を。『皇帝』を継ぐ事が可能な者達を。
(誰が、生き残っている?)
 ソーロンを筆頭に、半数は逃げ出したはずだ。だが、彼等がその後どうなったのか記憶が曖昧な彼にはわからない。
 万が一、誰も残っていなければ── 彼の死と共に、皇帝が不在となる。つまり……。
(── 世界が…滅びる……?)
 身の内を、戦慄が駆け抜けた。

 ── お前はこの世界が好きか?

 耳に甦るのは、いつかの言葉。
 最初にして最大の過ちを選んだ時の。

 ── この世界の存続を望むなら、『皇帝』となるがいい。

 選んだ後に知った。
 『皇帝』とは、二つの世界を支える天秤の均衡を保つ為の『分銅』の最たるもの。為政者としての役割は後からついてきたものに過ぎないのだと。
 だからこそ不在は許されず、当代に死が訪れる前に次へと受け渡される。
 そして次代はかならず、皇帝の直系でなければならない。本人の意志や能力など関係しないのだ。
 何故なら、それは── 『血』をもって継承される一種の呪いだから。
 そしてそれが何らかの理由で絶えた時── 『呪い』は破綻する。
 そうなった時に実際に何が起こるのかはわからない。だが、『現在の世界』が何らかの形で崩れ去る事は確実だった。
「…死ねない……」
 血の気が失せた唇が、呆然と呟く。  たとえ、自身に生きる意欲がなくても── この世界を滅ぼしたくなければ、どんな事をしても生き延びなければ。
 それが呪いであろうと、それこそが世界を永き安寧に導いたのは事実なのだ。
 次代に受け継げないのであれば、せめて一日でも長く世界を存続させる事こそ、彼の最後に残された役目だろう。
 ── 狂気の中、己が何を望んだのか薄々分かっている。

『自由? …── あなたは、間違っています。こんな事をしても、あなたは決して「自由」にはなれない……!!』

 耳に甦った言葉に、ずきりと胸が痛んだ。
 そうだ…世界を道連れにしてでも自分は解放されたかった。『自由』に、なりたかった。
 『世界』という装置を動かす、歯車などではなく── ただの『人』として、生きたいと望んだのだ。
 南領妃・サーマ── 今までの人生で、ただ一人。唯一、皇帝である彼を一人の『人間』だと言った人物。
 命をかけて伝えてきた彼女の言葉は正しい。
 血を絶やし、世界を壊し── そうした所で、己に課された役割から解放などされはしない。ただ、多くの血が流れ、嘆きが世界を満たすだけで……。
(…サーマ。お前は…最後まで約束を守ってくれたのだな)
 南領妃として帝宮に入った際、サーマは一つだけ条件を出した。

『どうか、わたくしを「皇帝の妻」として扱わないで下さい』

 それは彼女がこれからなるであろう立場を考えれば、随分と矛盾している物言いだった。
 けれど続いた言葉に、彼は彼女の望みを受け入れる事を決めた。

『わたくしは── あなたの味方でありたいのです。世界中の誰もがあなたを顧みなくても、わたくしだけは最後まであなたの隣に立っていましょう。あなたが道を見失うような事があれば、目を反らす事無く過ちを正し、共に道を探せる者── 同志になりたいのです』

 ただ子を産み、育てるだけの『妻』でありたくはないと。
 彼女が一体、どんな気持ちでそんな事を望んだのかはわからない。
 しかしサーマは数々の陰口や中傷を受けながらも、名実共に彼の片腕と言われるほどの存在となってみせた。

『──…陛下はいつもまるで、自分が「人間」ではなくて「皇帝」という生き物であるかのように仰いますけど、それは間違いだと思います』
『陛下だって、子供の頃は皇帝以外の自分を想像くらいしたでしょう?』

 初めて顔を合わせたのは、サーマが十七の時だった。
 最初こそ遠慮した物言いだったものの、サーマは次第に自分に対して不思議なほど率直な言葉を向けるようになっていった。
 飾らない言葉は不躾とも言えたかもしれないが、身近にそうした存在がいなかった事もあり、不快どころか快くさえ感じて。
 ── そうして、己の中の欠落に気付いた。
 人として当たり前に持っているであろう希望、願い、夢── そうした未来に繋がるものがない事に。
(『いつかこの欠落が、私を蝕(むしば)んだとしても…』か)
 それはかつて己が口にした言葉。その時はこんな未来が待っているなど、考えもしていなかったけれど。
(…お前は私を怨んでいるだろうか?)
 問いたくとも、もう彼女は何処にもいない。他でもないこの手が、その命を奪ったのだ。
 今でも思う── 己にある『欠落』に気づかなければ、サーマの未来もまた違っていただろうと。
 父の力になりたいという純粋な夢を踏みにじり、愛する家族と引き離し── 最後は愚かな男の手にかかって命を散らして。
 そんな無残な終焉を迎えずに済んだに違いないのだ。
 …思い返すのは、夏の盛りの南の離宮。噎(む)せ返るような草いきれの向こうに見た光景。

『…ずっと、あなたに会いたかった……』

 見覚えのない男にすがるようにして、声を押し殺すように涙を流していたサーマ。
 その今まで自分には見せた事のない顔にひどく苦しさを感じ、逃げるようにその場を後にした。
 問い質してもよいはずなのに、そうする気にもなれず。
 男が何者であったのか、結局わからないままだ。けれど、もし自分が手放したくないと思わなければ── サーマがあんな顔で泣く事はなかったのかもしれない。
 ── その時の光景は見てはならないものを見たような罪悪感と共に、いつまでもいつまでも彼の内から消え失せる事はなかった。

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