天 秤 の 

第五章 皇帝カルガンド(8)

 ルウェン達がセイハッドとイルニに遭遇していた頃、ティレーマは単身キーユへと向かう街道を歩いていた。
 キーユに入る反乱軍に同行せず、そこから少し郊外に置かれた地方神殿へ出向いていたのだ。
 仮だとは言え、神官としての立場を放棄している身の上だ。そうでなくても、その土地の神殿へ挨拶に行く必要性はない。
 それでもその地方神殿へわざわざ向かったのにはいくつか理由があった。
 混乱の中にあるであろう帝都内の神殿の現状を知っておきたかったし、一般とはまた異なる神殿の目を通して異変がなかったかを確認してもおきたかった。
 それに何よりも、そこにティレーマからすると師に等しい人物が在籍していると聞き及んでいたからだ。
 その人物の名はバルゼル=オルウィ=チェディス。かつて、ティレーマがまだ帝宮にいた頃に大神殿の主席神官を勤めていた人物だ。
 ティレーマが西に下ってからしばらく後、老齢を理由にその座を返上したそうだが、それでも中央の事は今まで西領にいたティレーマよりずっと詳しいはず。
 当時は聞く事の出来なかった話も、今なら聞けるかもしれない。そうした思いから尋ねたティレーマを、今では一神官となったバルゼルは暖かく迎え入れてくれた。
 神官の証とも言える聖晶もなく、状況が状況だ。
 名乗った所で自身の証にはならず、最悪、門前払いかもしれないと思っていただけに、バルゼルがティレーマを覚えていてくれた事は幸運だった。

+ + +

「すっかり見違えましたな。立派になられた」
 ティレーマに椅子を勧めながら、バルゼルは穏やかに微笑んだ。
「わざわざこんな所にまで足を運んで、この老体に何をお聞きになりたいのかね?」
 流れた月日の分年齢は重ねていても、以前と変わらぬ人好きのするその笑顔のままずばりと核心を突かれ、ティレーマは素直に驚いた。
 バルゼルにどう話を切り出そうかと思っていたのだが、その心配は無用だったようだ。
 第一線を退き、隠居にも等しい状況だが、数多ある神殿の頂点に立っていたのは伊達ではないという事か。
 ティレーマは居住まいを正すと、まずは以前から気にかかっていた事を尋ねる事にした。
「…現在、大神殿はどうなっているのでしょうか」
 皇帝が乱心してというもの、大神殿は沈黙し続けている。
 他の地方については不明だが、ティレーマが在籍していた西の主神殿ではその事実をかなり憂慮していた。
 というのも、帝都以外の各地方に点在する神殿は主神殿によって統括されているが、帝都内においては主神殿の役割を大神殿が直接行っていたからだ。
 あくまでもそれは管理面であって、帝都内の地方神殿の神官がそのまま大神殿に入る事はない。
 その場合は必ず東西南北いずれかの主神殿を経てからになるのだが、そうした異動に関しても大神殿が管理していた。
 つまり、何処か人が足りていない地方神殿があったとしても、今の状況では他の神殿から応援を呼ぶ事も自分達で行わなければならない。
 元々、各地に点在する神殿間の交流は乏しく、非常時という事を加味せずとも、それが困難であることは明らかだ。
 それ以前に大神殿が沈黙しているという事実は、出来れば考えたくはない可能性を示唆している。
「── 全滅、と私は見ておりますよ」
 笑みを消し、バルゼルは静かにその可能性を肯定した。
「神官であるからこそ、わかるでしょう。ラーマナの守りは決して万能ではない。何より…生かしておく理由もありません」
 きっぱりとした言葉に、ティレーマは唇を噛む。
 そう、その事実を先日身をもって思い知ったばかりだ。
 魔物の群れに囲まれ、パリルの民を守る為に交代で結界を張り続けた。あの時こそ、魔物が途中で消えた為に命拾いしたが、あの状況が数日続いていたなら、おそらく神官から死者が出ていただろう。
 現状において、『もっとも命の危険から遠いと見なされている』神官の中からだ。
 その認識は決して間違いではない。
 神官だけがその場にいたなら、そんな心配はなかった。その持ち主の直接的な命の危険に対して、聖晶は守りの力を発揮する。
 己を守る事が出来ないパリルの民がいたからこそ、命を落とす危険が生まれたのだ。
 おそらく── 魔物の群れを仕向けた者は、当然そうと知って最初にパリルの街を焼いたに違いない。
 焼き出されたパリルの民が、身の安全を求めて最寄の神殿に身を寄せようと考えるのは自然だ。
 地方神殿へ人が集中するのを見越して……── とても単なる思いつきでそんな方法を実行したとは思えない。手間もかかり過ぎる。どうしてわざわざそんな事をしたのか。
 簡単だ。そうすれば神官でも死ぬと、知っていたからだ。
「どうして、こんな事になってしまったのでしょう……」
 過去に何度も思った疑問が言葉となって零れる。
 切っ掛けは皇帝の乱心。
 そのたった一人の人間が心乱しただけで── これほどに世界が荒廃してしまうのか。皇帝の背後に何者かがいるにしても、人一人の影響力とは思えない。
 ティレーマの嘆きに、バルゼルはしばし考え込むように目を閉じた。そして再びそれを開いた時、そこには何かしらの決意が宿っていた。
「── 今だから言えますが、私はいつかこんな日が来ると思っておりましたよ」
「…え?」
 思いがけない言葉に、ティレーマは反射的にバルゼルに目を向ける。バルゼルはティレーマの思いを見透かしたように言葉を重ねる。
「無論、このような形でとまでは予想はしておりませんでしたが。…不自然なのですよ」
「不自然…? 何がでしょうか」
「『皇帝』というもの、ひいてはこの世界自体が。…神殿に属する身ならば、知ってはおられるでしょう。神殿がずっと『何か』を探している事は」
 その言葉にティレーマは西の主神殿での事を思い出した。
 確かに── 呪術師までも招いて、神殿は何かを探していた。それが何であるのかは、位階としては末端に近いティレーマが知る所ではないが……。
「その課程で過去を追えば追うほど、その不自然さは確定的なものになる。…普通に生きている人間では気付かないでしょう。日々の生活にはある意味、まったく無関係な部分ですからな」
「バルゼル様、一体皇帝や世界の、何処が不自然だと仰るのですか?」
 まるで明言を避けるかのような言い回しに、ティレーマは落ち着かない気持ちになった。
 何故だろう。とても重要な事のような気がするのに── 知ってはならない、そんな気がしてならないのは。
 バルゼルはティレーマの心情がわかるのか、口元に微苦笑を浮かべた。
「確証は、ありません。けれどそう考えると辻褄が合う部分が多い。…これは私の個人的な推測に過ぎませんが…おそらく一番わかりやすい事をお尋ねしましょう」
「何でしょう?」
「皇帝は世界の中心であり、為政者でもある」
「…はい」
 それは言われるまでもない、この世界における『常識』だ。
 ティレーマもその言葉に疑問も抱かず、バルゼルの言葉に頷いた。するとバルゼルは思いもかけない事を尋ねたのだった。
「ではティレーマ様…その歴代の皇帝陛下の名前をご存知ですかな?」
(名前……?)
 何を聞かれたのか一瞬わからなかった。理解してからも、ティレーマは答える事が出来なかった。
 ── わからなかったのだ。
「おかしいとは思いませんかな? 世界の中心とも言う人の名すら、我々は知らないで過ごしておるのですよ」
 …確かにバルゼルの言う通り、日々を生活する上ではまったく関係がない事だ。一般の民にとって、皇帝は直接関わりのある存在ではない。
 だが、ティレーマにとっては違う。
 先々代の皇帝は早世だった為、直接の面識がない分、わからなくてもそこまでおかしくはないにしても、現皇帝はティレーマにとって実の父の事である。
 その名を問われて出て来ない事実に── それが当然だと思い込んでいた事を今更のように気付いて愕然とした。
 物心つく前から、父はすでに『皇帝』という存在だった。皇妃であった母も、名ではなく常に『陛下』と呼んでいた。
 それは尊称であり、肩書きに過ぎないはずなのに── 覚えている限り、誰一人、父を名で呼ぶ人間はいなかった。
 皇帝も人だ。人の子だ。生まれたその瞬間から、皇帝であった訳でもない。ならば当然、生まれた時に名づけられた名があるはずなのに──。
「他にもよく考えてみると、意図的としか思えないようなおかしな部分はいくつもある。…神殿が追いかけているのは『真実』に他ならない。けれども…私はある時、思ったのですよ。隠されている物には、それなりの理由があるのだと。もしそれを明らかにしようと思ったなら、相応の犠牲を払う必要があるでしょう。…私は現状を壊してまで、その『真実』が重要だとは思えなかった。だから大神殿を辞したのです」
 バルゼルの言葉を借りれば、皇帝である父の名を誰も知らない事には何か理由があるのだろう。
 今の混乱は何者かが隠されていた『真実』に触れてしまった為なのだろうか。
 ならばこれからその混乱の中心に飛び込もうとする自分達も、それを知る事になるのか。知って── 何かを犠牲にするのだろうか。
 言葉を失くすティレーマに、バルゼルは静かに言った。
「今の混乱はもしかすると、まだ始まりに過ぎないのかもしれません。現皇帝陛下を止めれば済む話ではなくなっているのではないかと…私は危惧しておるのです」

+ + +

 バルゼルとの会談を思い起こしながら歩むティレーマの足取りは重い。
 今までは父である皇帝の凶行を止めれば、何もかも終わるのだとばかり思っていた。少なからず犠牲は出るだろうが、そうすればまた元通りになるのだと。
 けれど──。

『…不自然なのですよ』

 皇帝の、世界の在り方が不自然だと告げたバルゼルの言葉が、心に重く圧し掛かる。
 言われてみれば、誰も『何故』と疑問を抱きこそすれ、皇帝が乱心した原因がその本人以外にあると考えた者はあっただろうか。
 足を止め、来し方を振り返る。
 一度壊れてしまったものは、二度と元通りにはならないという。修復出来たとしても、それはやはり何処か違っているものなのだと。
 ふと、そんな話を思い出した。
 ミルファは父である皇帝を討つつもりでいる。そうして取り戻す平穏は、確かに以前とは違うものになるだろう。
 ── ミルファはおそらく一生、実の父を手にかけた罪に苦しむ。それはきっと、幸福な人生とは言いがたいものだろう。
(今更、止められはしない……)
 ミルファはとっくに覚悟を決めている。ミルファ自身だけでなく、その周囲、いや現状を良しとしない全てのものが、その結果を求めている。

 『皇帝』の死を。

 その、わかりやすい結末を。
 ここまで大きくなってしまった流れに一石を投じる事は、流れをいたずらに乱すだけに違いない。
 けれど── もし、別に原因があるのなら。
(…違う結末を、望める……?)
 強く風が吹き抜ける。
 風が通り抜けた後、再びティレーマは歩き出す。その瞳には、何かを決意した強い光があった。

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