約束の歌姫
二日前 〜歌姫選出〜(2)
程なく、二人はカハナの中心に聳(そび)え立つ、大神殿に辿り着いた。
大祭の前とは言え、やはり神域。
街の喧噪が嘘のような静寂が、その場を支配していた。
いるのは数人の熱心な信者位で、彼等はイオ達が来た事に気付いているのかいないのか、神殿の床に直接跪(ひざまづ)き、何やら熱心に祈りを捧げている。
建てられてからすでに千年近く経っている神殿は、所々に老朽化が見られたが、堅牢かつ重厚感のある造りが、その場が有する神聖な雰囲気を強調してさえいた。
そんな場所で、イオとストシアは明らかに異質だった。
「な、なあ、ストシア? 俺達…浮いてないか?」
「んー? 何か言ったあ?」
慣れない場所で緊張するイオとは逆に、ストシアは相も変わらず、心ここに在らず、といった様子でずんずんとさらに神殿の奥へと進んで行く。
仕方がないので(逆らうと後が怖い)その後に続きながら、我が身の不幸を嘆くイオであった。
この地上において、もはや唯一神と化している地母神の大神殿のお膝元で暮らす以上、女神に対する信仰心は人並みに持ち合わせている。
だが、わざわざ大神殿まで祈りを捧げに来る程ではない為、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
やがて彼等は、一般に立ち入りを禁じられている『奥院』と呼ばれる建物の入り口へと辿り着いた。ストシアはそこでようやく立ち止まる。
「おい、ストシア。いい加減に説明してくれよ」
完全に困惑して尋ねてくるイオを、ストシアは呆れた顔で見やった。
「…本当に、わからないの?」
「ああ」
間髪入れずにあっさりと頷くと、ストシアは絶句し── やがて盛大なため息をついた。
「…信じられない。こんなに鈍いなんて……」
「ちょっと待て。説明も無しにそれを言うか?」
「何言っているの。あんた、何年ここにいるのよ。大祭の事、何も知らない訳じゃないでしょう? どうしてわからないのか、こっちが聞きたい位よ」
理解不能と言外に言っているその台詞は、いたくイオのプライドを傷つけた。
そこまで言われて引き下がるのも癪だと、唇を曲げながらも思案する。
確かにストシアの言うように、この街に住んでいる以上、大祭の事に関して無知でいる方が難しい。大体、前回── 五年前の大祭はこの目で見た記憶があるのだ。
が、それでわかれば苦労はない。
(何だって言うんだ? ストシアと大神殿なんて、全然繋がりなんてなさそうじゃないか。片や酒場の娘で、片や地母神の……)
そこで何か引っかかった。深く追求する前に、それは奥で眠っていた記憶を呼び起こす。
「ったく、仕方ないわねえ」
急に黙り込んだイオを見かねたように、ストシアが重々しく口を開く。
「教えるわよ。あのね、あたしは 」
「…『歌姫』か!?」
ストシアの言葉を遮ってのその大声は、結果として当然ながら、静かな神殿の中を響き渡った。
「っと!!」
「ばかっ!! ここを何処と思ってるのよっ!!」
慌てて口を抑えるイオを、ストシアは抑えた声で叱責する。
わたわたとうろたえる二人だったが、それは杞憂(きゆう)に終わった。神殿内は、まるで何事もなかったかのように再び静まりかえる。
思わず二人は顔を見合わせ、ほっと安堵の息をついた。
「もう…気をつけてよ。ここはもう『外院』じゃないんだから。神官様にでも見つかったら大目玉よ!?」
「ご、ごめん。つい…。だって、さ。ストシアが歌姫なんて……」
余りに意外で、まじまじとその顔を見てしまう。
確かにストシアの声は良いと、イオは思う。
父親の酒場で時折歌っているのを耳にするが、張りのある伸びやかな声で、綺麗というよりは聞いていて気持ちの良い声だった。
…しかし。
大祭で歌を奉じる歌姫── その栄誉を手にするのは、世界各地から集まった内の一人だけという、狭き門。
それ故に、数多の歌姫達が並々ならぬ実力と努力をもって、その審査に臨むという。
ちゃんとした歌の教育も受けず、練習だってした事のないストシアが選ばれるなんて、まったく想像もつかない事だった。
「…よく選ばれたな」
感心するよりも、むしろ担がれているような気持ちで、イオはそんな感想を述べた。それを聞いたストシアの眉がぴくりと持ち上がる。
「何よ、その意外そうな顔は」
不服そうに唇を尖らし、じろりと睨み付けてくる。だが、すぐにあ、と何かに気づいたように口を開いた。
「もしかして誤解しているのかもしれないけど、まだ正式に大祭の歌姫に選ばれた訳じゃないからね。あくまでも、候補の一人」
「あ、そういう事か」
腑に落ちて思わず手を打つ。
歌姫の選抜は一度きりではない。何しろ世界中から我こそは、と思う者が集うのだ、その数は計り知れない。
かつては丸一月がかりで行なわれたと言う。かの伝説の歌姫以降、その数はかなり減ったとも伝えられているが、実際の所は定かではない。
今回もそれなりの人数はいるはずなのだ。
「いやあ、てっきりストシアが伝説の歌姫みたいに大抜擢されたのかと……」
思わず思った事をそのまま口にしてしまう。
あ、やべ、と思った時には、すでにストシアの顔から笑顔らしきものは一切消えていた。
「イオ? …今、思いっきり納得してくれたわね……?」
上目遣いにイオを見ながら、ストシアはずいっと詰め寄って来る。
極々至近距離にまで迫られ、イオはだらだらと脂汗を流しながら逃げ腰になった。
「あたしが候補なのには納得出来て、歌姫に選ばれる事には納得できない、と…そういう事かしら?」
顔に似合わぬドスの利いた声である。目も明らかに据わっている。
…これはどう考えても本気で怒っているらしい。
真剣に身の危険を感じて、イオは咄嗟に奥の手を出した。
「な、何を言ってるんだよ。嫌だなあ。そんな訳ないじゃないか。うん、幼なじみとして鼻が高いよ。はっはっはっ。ほらほら、そんな顔しないで。折角の美貌が台無しだよ?」
「あ、あら、そう?」
『美貌』の効果は絶大であった。ストシアはころりと態度を豹変させる。
「もう、イオったら正直なんだからっ。…まあ、わかってるならいいのよ。今回候補になったのも、ひとえにあたしの実力だってね」
そのまま高笑いでもしそうな勢いを横目に、イオは自身の寿命が多少延びた事に安堵し、ほっと胸をなで下ろした。
いくら人目がないからと言っても、女の子に殴り飛ばされるというのは、男としてかなり悲しすぎる。
過去、何度かそういう憂き目に遭っている身としては、是が非にでも避けたかった。
「…取り合えず、おめでとうって言っておくよ。これからも審査はあるんだろ? 頑張れな」
「うん、ありがと。今日はね、明日の審査に使う聖譜を頂きに来たのよ。ほら、ここって来づらい雰囲気があるでしょ? それに本来なら奥院って、女人禁制だって言うし」
そこまで言うと、ストシアは唐突にふう、とため息をついた。
「ストシア?」
「…実を言えば、自信なんてないの」
ほとんど不意打ちで、そんな弱音がストシアの口から零れ出る。
あまりそういう事が今までなかっただけに、イオは完全に面喰らった。
「ど、どうしたんだよ。…らしくない」
「だって…はっきり言って、あたし、今まで真剣に歌った事なんてないんだもの。きちんとした練習だって……。前の歌姫みたいに歌えるか…まして伝説の歌姫みたいにはやれっこないじゃない。だったら…ここで諦めた方が、ってちょっと考えちゃうんだよね」
「…ストシアはどう頑張ったってストシアなんだからさ、今の精一杯で頑張ればいいんじゃないか? 大体、伝説の歌姫なんて、三十五年も昔の人間じゃないか。ほとんどの人が直接聞いた事ないんだぞ。その人がいくらすごくたって、今回の審査に出てくる訳じゃないんだし、気楽にやればいいじゃないか」
よくよく聞くとあまりフォローになっていない言葉だったが、イオにしては珍しい乱暴な理屈にストシアは目を丸くし、やがてそうね、と笑顔になった。
「うん、そうよね。精一杯、楽しんでやる事にするわ」
「おう。応援するから」
「ありがとっ」
何だか前向きな雰囲気になったその時。二人の背後で、申し訳なさそうな声がした。
「…あ、あのっ、済みません…っ」
それまで、そこに自分達以外の人間がいるとは思いもしなかった彼等は驚き、同時に振り返った。
「えっと……?」
そこに立っていたのは、フードを目深に被った、小柄な人物だった。
格好からして旅人らしい。いつからそこにいたのか、何処となく頼りない様子で一人、ぽつんと立ち尽くしている。
「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが……」
緊張でもしているのか、それは硬く微かに震えた、消え入るような声だった。しかし── イオは(おそらく、ストシアも)一瞬耳を奪われた。
それは、例えるならば儚い朝露のような、何処か現実を感じさせない、一生に一度聞くか聞かないかと思えるような美しい声だったのだ。
「あの……?」
「あ、ああ、ごめん! えっと、何……?」
一瞬生じた間を誤魔化そうと、イオは慌てて早口で尋ねる。
美声の持ち主は声からするとイオ達とそう変わらない、同じか少し下位の少女のようだった。
「あの、わたし、田舎から来たのでよくわからないんですが……」
必死に言葉を紡ぐその口元に知らず目が引き寄せられる。
フードから覗く肌は、ストシアの健康的な小麦色とは対照的に、はっとする程白い。だが、決して病的ではなく、透き通るような瑞々しい白さだった。唇すらも色が淡い。
そこから柔らかな響きの、魅惑の声が零れ出す。
「ここが、大神殿の奥院なんでしょうか?」
そう言って、自信がなさそうに小さく首を傾ける。その弾みでそれまでほとんど見えなかった瞳が露になった。
息を呑む。そこにあるのは、空を映した小さな宝石そのもの。
「ええ、そうよ」
イオの代わりにストシアが驚きを隠さない少し上ずった声で答えると、少女はほっとしたように微笑んだ。
それは可憐な花が開いたような、見る者にある種の感銘を与えるものだった。
おそらく── それが、全ての始まり。