約束の

前祭 〜奥院の亡霊〜(1)

 若き神官は、燭台を片手に暗い廊下を歩いていた。
 もう片手に抱えられたのは、一冊の分厚い本。彼はこの本を探しに書庫へ行った帰りだった。
(もう明後日は前祭か……)
 そこで彼は小さく笑う。
 五年前の今頃は、まだ神殿の規則や生活に慣れるのに精一杯だった。
 イルーハ=トバは三日に渡って行なわれる。それだけにどんな見習いであろうと何かしら多忙となるのだ。
 あの時は本当に神官などやめてしまいたいと思ったものだ。
 しかし、大祭が始まるとそんな思いは消え去った。
 荘厳で華麗な儀式。人々と地母神の繋がりを説く『語り』に、最高の歌姫による聖歌の奉納。
 ── たとえほんの一部分に過ぎなくとも、携(たずさ)われた事を誇りに思えた。
 今度の大祭では、祭りに直接関わる役目を担う事が決定している。
 数多く存在する神官で、イルーハ=トバに直接関われる者は思いのほか少ない。その一人になれた事が、純粋に嬉しかった。
(…そう言えば…この所、神官長様の体調が芳しくないらしいが…大丈夫だろうか)
 彼はふと、現神官長を務める男の痩せた顔を思い浮かべた。
 神官長には、大祭において最も重要な役割が振られている。
 一つは明後日に控える前祭── 起神祭にて、地母神を呼び起こす聖文を読み、大地の祝福を祈る事。
 そしてもう一つは後祭── 帰神祭にて、地母神を神の世界へ送り、永久の忠誠を誓う誓約を述べる事だ。
 言葉にすると単純そうだが、実際それは全て太古の言語で為される為、一介の神官が簡単に行なえるものではない。
 同じ太古の言葉を用いるにしても、『語り』よりは表現が複雑で、しかもその内容はずっと難解なのだ。
 その点、現神官長は若い頃から才能に恵まれ、太古語は神官となって数年で完璧に習得したという人物である。
 その才能により、神殿に入って半年程で大祭の『語り』の中核となる部分を任されたという。
 そんな神官長を、彼は先達として、直接の面識はないながらも深い尊敬の念を抱いていた。
(……?)
 そんな考え事をしていた彼は、ふと足を止めた。少し先に、何者かが佇んでいたからだ。
 薄明りの下では良くわからないが、背格好からすると彼と同じ年頃の青年であるらしい。
「どうしたんですか? 灯もつけずにこんな所で」
 彼は深く考えるまでもなく、気軽に声をかけた。相手がその声に対してゆっくりと顔をこちらに向ける。
 予想通り、二十歳そこそこといった様子だったが、どうやら雰囲気的に彼よりは年上らしい。その顔に面識はまったくなかった。
「灯が無くて困っていらっしゃるなら、これを使いませんか。私の部屋はすぐそこなので」
 そう言いながら燭台を差し出す。しかし、青年はゆっくりと頭を振ってそれに手を伸ばしはしなかった。
「…私が待っているのは、あなたではない……」
 それは、人間のものとは思えないような、恐ろしい程感情の抜け落ちた声だった。
 ぞくりと彼の背を悪寒が駆け抜ける。けれど、好奇心故かそれとも別の気持ちからか、彼は尋ねずにはいられなかった。
「では── 誰を待っているのです」
 青年は微笑んだようだった。虚無の声はその答えをぽつりと呟く。
「──…彼女を」
 それは先程の声とは幾分異なるものを含んで、彼の心に深く響いた。
 夢か現かわからない。青年の姿がやがて幻のように消えるのを、彼は瞬きもせずに見ていた。
「…約束が果たされるその日を…待っているのです」
 何処となく淋しさを滲ませた言葉だけが、彼の耳に取り残される。
 彼は恐ろしさも忘れて、その場に立ち尽くすより他に、何も出来なかった。

+ + +

「見て見て、イオっ!! ほらっ、すっごく可愛いでしょ!?」
 未だ嘗てなかったような上機嫌で、ストシアが隣室から姿を現わした。
「あ、あの、ストシアさんっ。わたし、その……っ」
 その手に引き摺られるようにして現れた少女が、困惑の声をあげる。
 だが、ストシアはまったくそれに構わない。にっこり笑って言い放つ。
「何よ、いいじゃない。どうせだから、ねっ?」
「で、でもっ」
(── ストシアの奴、楽しそうだなあ……)
 目前で展開される女の子同士のじゃれ合いを眺めつつ、一人蚊帳の外のイオはそんな事をぼんやり思った。
 そのまま視線をずらすと、イオとは別の意味で困惑しきった様子の、先刻大神殿で出会った少女が目に入る。
 少女はあの後フルールと名乗り、大神殿に用があってここまで来たのだと語った。…が、カハナの賑わいを目にするまで、驚く事に大祭がある事を知らなかったらしい。
 その為、大祭の最中で何処も宿が埋まっているのに、今日泊まる場所がまだ決まっていないという彼女を、イオもストシアも見逃せず、取り合えず神殿から比較的近い落ち着ける場所、すなわちストシアの家に移動したのだった。
 その結果、彼女は先程からストシアの体の良い着せ替え人形と化していた。
「あたし、ずっと妹が欲しかったのよね〜! …ねえ、フルール。いっその事、本当にあたしの妹になっちゃわない!?」
 とんでもない無茶を言いながら、ストシアは今度は髪に飾る飾りをテーブルに並べ、フルールの金の髪に合わせては、これでもないあれでもないと唸る。
 フルールはそんなストシアに、ひたすら恐縮するばかりのようだ。
 気の毒に、と思いつつも旅装を解いたその姿をマジマジと見つめ──。
(…確かに可愛いかも……)
 そんな感想を抱いて、イオはすぐに我に返ると赤面した。
(な、何を考えているんだ、俺はっ)
 だが、確かにストシアが夢中になるのも頷ける可憐さが、フルールにはあった。
 なんと言うのだろう、何処か頼りなげでつい手助けしてあげたくなるような、そんな雰囲気がある。
 顔を隠すように被っていたフードを取り、素顔を曝したその顔は、幼いながらも、はっとする程美しい。
 おそらく、数年後には男達がこぞって求愛するのは間違いなかった。
 真っ直ぐな金の髪に、空色の瞳。
 整ったその容貌だけなら本当に人形めいて見えるのだろうが、その表情はあどけなくて年相応の幼さを感じさせる。
「イ、イオさん……」
 弱りきった声で、フルールが助けを求めてくる。
 だが、それすらも遮って、ストシアが不満気に指摘した。
「もう、フルール。『さん』はいらないって、先刻から言ってるのに」
 一方的な着せ替えはどうかと思うが、その意見にはイオも同意見だった。
 普段が普段だけに、敬語を使われると居心地が悪くて仕方がない。
「そうだよ。年なんて一つしか違わないんだし」
 移動がてら互いに自己紹介し合った結果、お互いの年齢も知る事になったが、ストシアとは二つ、イオとは一つしか違わない事がわかった。
 …つまり、フルールは現在十二歳。
 一人で旅をするには、いささか若過ぎる感が否めないが、話を聞く分にはこのなりで南方の辺境からはるばる旅して来たらしい。
 意外とこれでしっかりしているのかもしれなかった。
「はあ……」
 ストシアとイオの二人にそんな事を言われ、益々困ったようにフルールは俯いてしまった。
 その様子がまた可愛いらしく、イオはそう思った自分に照れてしまう。
「でも…本当にお世話になるなんて……」
 イオの内面など知らずに、フルールはおずおずとそんな事を口にする。その言い分に、ストシアが眉を持ち上げた。
「気にしないでってば! どうせ明日は一緒に奥院にまで行くんだし」
 当然のように言い切って、ストシアはぎゅっとフルールの手を握った。
 不思議そうに顔を上げたフルールのもう片手には、何枚かの紙片が握られていた。聖譜── 歌姫選出の審査に用いられる聖歌が記された楽譜だ。
 今日、奥院でストシアと一緒にいたせいか、一緒に担当の神官から手渡されたものだった。
「ストシアさん」
「ストシア」
「あ、はい。…ストシア、御免なさい。こんな事になるなんて思わなかったから……」
 泣きそうな顔だ。
 一体何を謝るのかわからず、ストシアとイオはその顔を見て面喰らった。
 そんな顔をさせたくて、奥院からここまで連れてきたつもりではない。
「フルール? どうして謝るの?」
 心底困った様子で、ストシアが首を傾げる。
 だがそんなストシアに、何故フルールが謝るのか理由を察したイオが代わって答えた。
「お前のライバルになるからだろ」
「…ライバル?」
 まだ飲み込めずに、ストシアが反芻する。そのまま暫し考え込んで、やがてああ、と納得した。
「歌姫の事? やあね、そんな事気にしてたの」
「でも……」
 なおも言い募ろうとするフルールに、ストシアは笑って肩を竦めた。
「どうせ駄目元だもの。フルールが気にする事なんかないのに。フルールには奥院に行くだけの理由があるんでしょう? なら、その手助けをする方がよっぽどあたしらしいと思うわ」
「ストシア……」
「イオだって手伝ってくれるわよ。ねえ?」
 不意に水を向けられ、反射的にイオは頷いていた。
「え、えっと…うん」
「ほら」
 頷いたイオを面白そうに見て、ストシアはフルールに鮮やかにウインクして見せる。
 いつの間にやら、完全にこの場の主導権はストシアのものになっていた。
 ストシアはまだ何処か心許ない様子のフルールに、例の有無を言わせない笑みを向けると言った。
「じゃあ、詳しい事情を話してくれる?」

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