約束の歌姫
前祭 〜奥院の亡霊〜(2)
「人を捜してるの」
準備中の酒場のテーブルを囲み、しばらく無言だったフルールは、やがて何かが吹っ切れたのか、気負いのない様子で口を開いた。
「人?」
「そう。その人はカハナの大神殿で神官をしていたそうなの。名前はグルード。わたしの、お祖母様の知り合いらしいの」
「らしいって…つまり、フルールは全く面識がないって事か?」
イオの問いにフルールはこくりと頷く。
よもやそういう事だとは思わなかっただけに、イオもストシアも困惑を隠せなかった。
「何で…そんな人を捜す必要があるんだ?」
「── 約束、だから」
とても大切そうに『約束』という言葉を発音してフルールは微笑んだが、それは何処となく悲しげだった。
「その、グルードっていう人に会う事が約束なの?」
ストシアが尋ねると、フルールは慌てて首を振った。
「会う事が目的なんじゃないの。多分、もう一つの方が大切な事」
「もう一つって?」
「…わたしには、どうしたらそれが出来るかわからないんだけど……」
そう言って、フルールはその肩を小さく竦めた。左肩の辺りでまとめた金の髪がさらりと揺れる。
「わたしはお母さんに頼まれただけだから。グルードという人にお祖母様の心を届けてって」
「心……?」
そんな形のない物をどうやって届けると言うのだろう。
いや、それ以前にそんな自分自身が交わした訳でもない約束を、必死に守ろうとする事の方がイオには純粋に不思議に思えた。
それが顔に出ていたのか、フルールはイオににこりと笑いかけた。
「やっぱり、変?」
「…いや、そんな事は……。ただ、どうしてそんな風に一生懸命になれるのか不思議で……」
しどろもどろになりながら、それでもイオは思った事を率直に述べた。見れば、ストシアも同感といった顔だ。
そんな二人を交互に見て、フルールは困ったような顔をした。それはしかし、言えないというよりも、上手く言葉に出来ないといった感じだった。
「…まあ、そいつはどうでもいいか。それで、グルードって神官を捜す為には神殿に行く必要があったんだな?」
そう言ってイオは話題を転じた。困った顔を見たい訳ではないのだから。
フルールはその事に驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「そうね。確かに神官を捜すのならそれが一番手っ取り早いわ」
納得のいった顔で、ストシアが呟く。
「もし、今はカハナ以外の神殿にいるとしても、大神殿ならその記録があるはずだもの。しかも今は歌姫選出のお陰で女でも入れる訳だしね。…でも、奥院に入って、それからどうするの?」
「どうって……」
思いがけない事でも言われたように、フルールが口籠る。その様子に、イオは何となく嫌な予感がした。
それを打ち消したい一心で、恐る恐る尋ねてみる。
「── まさかとは、思うけどさ。もしかして何も考えてない、とか?」
「何言ってるのよ、イオ」
フルールが答える前に、呆れたようにストシアが口を挟んでくる。
「いくらなんだって、神官様がそう簡単にそんな事を教えてくれる訳がないって、子供にだって考えつく事でしょ?」
ねえ、と視線でストシアは同意を求める。しかし。
フルールの白い顔はゆっくりと赤く染まり、やがてか細い声がぽつりと漏らされた。
「…ごめんなさい……」+ + +
──彼女は 、それはそれは、綺麗な笑顔を持っていた。
「いやあ、ついに始まりますな」
隣で中年の男がにこやかに話しかけてくる。
「今日歌姫が決定して、明日は前祭。昨日の予備審査だけでも、思いのほか大変でしたよ」
しかし、男の顔は言葉とは裏腹に楽しげだった。それを眺めて、彼は口元に微苦笑を浮かべる。
── どんな歌姫であろうと、彼女に敵うはずがない。だが、それを言った所で何かが起こる訳ではない。
そう…彼女が現れるはずがないのだ。
「本当に、いずれも甲乙付けがたくて。ぜひお聞かせしたいと思いましたよ」
『また、会いに来るから』
「── ああ、そう言えば」
書庫に続く廊下に差しかかった所で、男が思い出したように話題を転じた。
「この辺りに亡霊が現れるそうですよ。御存知ですか?」
「…亡霊」
「はい、もう何人もの神官が目撃をしているのだとか。詳しい事は知りませんが…若い男で、声をかけるとふっと消えてしまうそうです」
「── そのような気配は感じられないが……」
思いついたように述べた彼の意見に同意するように、男は真剣な顔で頷いた。
「私もそう思うのですが…複数の人間が全く異なる時期に目撃したとなると……。薄気味悪いですし、何か…こう、すっきりしないものを感じるのです」
話している内に、廊下の分岐点に差しかかる。そこで二人は別れた。男は歌姫の最終審査へ、そして彼は彼の自室へ。
別れしなに男は心配そうに彼を見た。この所調子の良くない、彼の体を案じてくれたのだろう。
「…歌姫、か」
『あなたの為だけに歌ってあげる』
そう言って── 幼い時から変わらない、見る者に力を与えるような笑顔を見せて彼女が去ってから、どれ程の月日が流れたのか。
「…もう、三十五年だ」
彼はその目をゆっくりと窓の外に向けた。素晴らしい快晴が目に映る。まるで、彼女の瞳のような空の色。
『必ず、約束するわ──』+ + +
魂を、奪われるかと思った。
首筋に鳥肌が立ち、体中の神経を通じて、『歌』が心と体を支配する。
(…すごい……)
それはとても言葉で表わせる感覚ではなく。ぼやけた頭でそれだけをようやく考える。
ふと気が付くと、震える両腕を自らの手が強く押さえていた。
高過ぎず、低過ぎず、柔らかい耳当たりの良いその声音は、まるで大気のように全身を包み込んでくる。
このまま、溺れてしまうのではないか、と思えるように。
(…すごい…すごいわ…まるで、まるで──)
何かが、頬を伝わり落ちた。その熱い何かを、自身の流した涙だと認識するまでにかなりの時間を要してしまう。
驚いて、慌ててそれを拭おうとして、ようやく歌が終わっている事に気付いた。
静寂。
人々は凍りついたように、動かず、一言も言葉を漏らさない。その中心で、彼女の知る少女が、まるで女神のように立っていた。
ほとんど無意識に、体が動いた。手を打ち鳴らす。その音で世界は正常を取り戻した。
突如ざわめきだした周囲を余所に、少女はにっこりと嬉しそうに笑った。
そして自分に与えられた座席に戻る。
──ストシアの、隣に。
「ストシア、どうしたの?」
席に着く前に、少女── フルールが困惑した顔でそんな事を尋ねてくる。
「え?」
「…どうして、泣いてるの?」
「どうしてって……」
途方に暮れたような顔が、じっと答えを求めて見下ろしてくる。
ストシアは思い切り呆れ果てた。まさか自覚がなかったとは思わなかったのだ。
しかし、昨日一日でフルールという少女の純朴さを知っていたストシアは、すぐに自分を取り戻すと、
「──決まってるでしょ」
にやりと笑いかけ、がばっとフルールに抱きついた。
「!?」
フルールが、ぎょっと目を剥く。それに構わず、ストシアはフルールに対する親愛の情と共に、正直な自分の気持ちを紡いだ。
「フルールに会えて、嬉しいからよ」
具体的な作戦を持たないままやって来たフルールを、取り合えず神殿内に入れる為に付き添いのつもりで来た歌姫の審査だったが、どうやら心配は杞憂に終わりそうだ。
きっと、歌姫には彼女がなるだろう。本来だったら、ここにいる事もなかったはずの少女に。
まるで──歌う為だけに生まれてきたような少女に。
この偶然を何と呼ぶのか。
自分だけでない、どの歌姫とももはや次元が違った。自分達の紡いだものが『歌』なのだとすると、フルールのそれは『音楽』に近かった。
負けて口惜しいと思うどころか、その声を直接聞けた幸運を純粋に感謝する気持ちが胸に込み上げる。
「…きっと、うまく行くわ」
ストシアは心からそう言った。
歌姫に選ばれれば、神官の長たる神官長にも目通りがかなう。そうすれば、やり方次第で彼女の捜すグルードという神官の行方も掴めるはずだ。
「…ありがとう、ストシア」
そう言って、身を離したストシアに、フルールは極上の微笑みを見せた。
心の底からの、綺麗な笑顔。見ているだけで、心が洗われるよう。
(きっと、大丈夫だ)
それは確信。
そして数刻後── 大祭の歌姫に、満場一致でフルールが決定したのだった。+ + +
初老の痩せた男が、ゆっくりとした歩みで祭壇に向かう。深く一礼をした後、彼は口を開いた。
外見とは裏腹の、朗々とした声が、今は失われた太古の言葉を紡ぐ。
眠れる女神をこの地に召喚する為に。
──祭りが、始まった。