約束の

主祭 〜歌姫再来〜(1)

 白金の髪に空を映した瞳の歌姫は、大地を踏み締め、空を仰ぐ。
 辺境の村で育った彼女には、その場に自分が存在する事でさえ純粋な驚きだった。
 村を出た時は、よもやこんな事になるとは思ってもみなかった。
 ただ、自分の幼馴染が地母神の大祭で大役を務めるという知らせを聞いて、一言『おめでとう』と言いに来ただけだったのに──。
 けれど…彼女は迷いもなく歌を紡ぎ出す。まるでそうする事が、生まれてきた意味そのものであるかのように。
 旋律は大気に解け、拡散し── 人々を包み、魅了する。
 どれ程の力量を持った歌姫であっても、きっと彼女には敵わない。
 何百、何千人も集うのだ、その一人一人に声を、歌を届けるなど、普通ならば不可能なのだから。
 彼女だから、可能だった。
 人は彼女を『女神の御使い』と呼んだ。深い意味などない、純粋に思いつきでしかない、呼び名。
 だからこそ、それがある意味真実であった事を誰も知らなかった。
 …彼女自身すらも。

+ + +

 彼は自室で休んでいた。
 重たい四肢。頭は完全に覚醒しているのに、身体はその命令に従わない。
 それで仕方なく目を閉じていた。そうすると、自然に一つの面影が浮かび上がる。
「…エレン」
 誰もいない部屋で、彼はその面影に呼びかけた。ばかげた事だという自覚はあったが、何故か言葉にせずにはいられなかった。
「私は…待ちくたびれてしまったよ」
 外でわあっと歓声があがる。
 おそらく、主祭の中心である『語り』が始まったのだろう。そして── それが終わった後、五年前と同じように…三十五年前と同じように、歌姫が姿を現わすのだ。
 彼は小さく笑った。
 そうだ、五年前にもイルーハ=トバは行なわれたのだ。なのに思い出すのは、遠い昔だなど──。
「未練、だな……」
 けれど、心は過去へと向かう。三十五年という年月を逆行し、彼の心は時を取り戻してゆく。
 その頃の── まだ、十九歳のしがない見習い神官であった頃の彼へと。

+ + +

「…── 『地の王、大地の母なる御神に…』……」
 祭壇で、三十代前半辺りの神官が、熱っぽく言葉を紡いでいる。
「『その御魂をも…』……」
 語られる内容は太古の戦いと地母神への忠誠。
 当時の言葉は現在と異なり、発音すらも違う。まるで呪文のようだ。けれども、人々は熱心に耳を傾け、欠伸をしている者などいない。
 イオはそんな光景を不思議に思う。かく言う自分もその一人だったりするのだが、それは純粋な疑問だった。
(どうしてなんだろう)
 全く意味もわからない。けれど、強く引きつける何かがそこにある。熱狂とまではいかなくても、それに近いものを人から引き出す何かが。
 例えるならば── それは懐かしさに似ていた。
 とは言っても、まだ十三年しか生きてないイオである。懐かしがる程も生きていない。
 だから、もしかしたら自分の、そして人々の中に流れる先祖の血がそう思わせるのかもしれない。
 太古の時代から連綿と受け継がれてきた血が──。
 そう思うと、それが正解のような気がした。
「もうすぐね」
 イオの耳元で声がした。ストシアである。今日は祭りだからか、華やかな紅の服を着ている。
 それは元々から艶やかなイメージのあるストシアに良く似合っていた。まるで大輪の花のようだ。
「これが終わったらフルールの出番よ」
 うっすらと薄化粧を施した顔を綻ばせて、そんな事を言う。
 まるで、自分の事のように浮き浮きとしたその様子に、イオはつい笑ってしまった。
「…何よ」
「いや、なんかストシア、フルールのハハオヤみたいだなあと思って」
「ちょっと待ってよ。あたしとフルールは二つしか違わないのよ。その言い方はないじゃない」
 むっと頬を膨らませるストシアに、イオは慌てて弁解する。
「違うって! そうじゃなくて、年の事じゃなくてさ…何か、まるで自慢の娘を持った母親みたいだって言いたかったんだよ」
「…何処がどう違うのよ」
 そう言うストシアの顔は、けれども先程の上機嫌なものに戻っている。そしてきっぱりと言い放った。
「ま、今日は気分いいから見逃してあげる。イオ、耳かっぽじいてよーく聴いてなさい。…『女神の御使い』の再臨よ」

+ + +

『フルール…わたしのかわいい子。ごめんね…わたしはお前を…一人に、してしまう……』
 それは、遠い昔の、悲しい記憶。
『お前に、一つだけ…お願いがあるの。東に…カハナという、都がある…そこの、地母神の大神殿にいる、…グルードという人に、母さんの…お祖母様の心を届けて頂戴……』
 死の床で、彼女は苦しい息の下、一人娘に願いを託す。
 かつて、自分が母親から託された『約束』を。
『わたしには…時間が、なかった。わたしの、母さんも。…でも、この想いを…消す訳にはいかない。だから』
 伸ばされた、白い手。
 触れた時のぞっとする不吉な冷たさは今でもこんなに鮮やかに思い出せる。
『…ばかばかしいわ。こんな約束…きっと、本人も忘れて…いるかもしれない』
 でも、それを成し遂げる事が大切なのだ。
『どうしてそんな風に、一生懸命に──』
 イオの言葉が重なる。昔の、今よりもっと幼かった自分に自身の言葉に。
 何故? どうして?
 自分とは異なる、翠玉の瞳を細めて、母親は答える。
『…たとえ、交わる事が出来ない存在同士であっても…何かを、大切な何かを大事に思う、この世の…純粋な何かを…信じる気持ちは…共有出来るのだと、信じたいからよ』
 その言葉は難しすぎて、よく意味がわからなかった。ただわかるのは、母親の命の灯火が間もなく消えてしまうであろう事だけ。
 救いは、それでも彼女が穏やかに終焉を迎える事だ。
 ようやく『天に還れる』と、今はもういない父母と、夫に再会出来るのだ、と彼女自身が語ったのだ。安らかな、見様によっては至福の表情で。
 独り残される孤独を、口にする事は何故だか出来なかった。
 何故、他の村人のように『死ぬ』事を『大地に還る』と言わないのか、その疑問も。
 交わる事の出来ない存在── 今なら、何となく理解出来る。
 でも、子供だった自分には何もかも闇も向こうだった。だからただ、頷いたのだけども。
「…絶対に、伝えるよ。お母さん」
 祖母も、母も、信じたくて果たせなかった『約束』を果たす事で、自分も何かを見つけ出せるような気がしたから。
「…見つけてみせるから」
 自分だけの、何かを。
「歌姫殿」
 唐突とも言えるタイミングで声がかけられる。その声でフルールは我に返った。
 振り返ると、まだ若い青年が緊張した面持ちで入り口に立っている。
「出番です」
「はい。…わかりました」
 頷いて、座っていた椅子から腰を上げる。薄手の布を重ねた、丈の長い白い衣装がさらりと涼やかな音を立てた。

Back← →Next