約束の

主祭 〜歌姫再来〜(2)

 間もなく『語り』が終わる。
 男はちらりと隣席に目を向けた。そこは空席となっていて、その事実を思って彼は重くため息をつく。
 その席の主は、ついに語りの間、その姿を見せなかった訳だ。体調が思わしくないのだろう。
 ここ数月というもの、その人物── 神官長は床に伏しがちだった。
 男は彼の上司であり、また友人でもある彼の事を純粋に案じた。
 同世代の神官の内、未だこの大神殿に在籍する者は、彼自身を除いても片手で足りる程度だ。
 多くはある程度階位を上げた後、各地の神殿へ散っていった。そう── 伝説の歌姫を実際に知っている者は、ここにはもう彼等しかいないのだ。
 あの奇跡の日から、三十五年。
 七度目の大祭が巡ってきたというのに、未だにその日の出来事を鮮やかに思い出せる。
 覚えているから、五年毎の大祭が味気ないものに感じてしまう。
 罰当たりだと、彼も思う。この大祭は、地母神を讃える為のもの。歌姫はあくまでも、それを彩るものであるはずなのに。
 麗しき女神の御使い。
 この世のものとは思えない、その妙なる歌声は、まだ自分を魅了している。あれから幾人もの歌姫達の歌声を耳にしたが、心を動かされたものは一つもなかった。
 その時だ。彼の思考を引き戻すように、大きな歓声が上がった。
 『語り』が終わったのだ、と彼は思う。そして── その歓声は彼が思った通りにすぐに静寂に取って変わった。
 水を打ったような静けさは、しかし緊張に満ちている。人々の今回の歌姫に対する期待を物語るかのように。

『今年の歌姫は素晴らしいですよ!! まさに、伝説の歌姫のようでした』

 昨晩、彼の部下から聞いた事を思い出す。審査を終えたばかりの、興奮冷めやらぬ様子で、部下は実に慌ただしく語った。
 その感極まった顔を思い出して、彼は苦笑する。
 羨ましい、とも思う。もし、部下が彼のように『彼女』の声を耳にしていたら、きっとあそこまで感動する事はなかっただろうから。
 そういう類の声だったのだ。かの歌姫の声は。
 シャラン…と、微かに鈴の音がした。人々の緊張が高まる。
 歌姫の、登場だ。
 今では祭事長を務める彼も、人々同様に歌姫が現れる舞台奥の扉に目を向ける。そしてそれを確認したかのように、ゆっくりと扉は開き始めた。

+ + +

 おそらく、その瞬間。彼等はそこに幻を見た。
 三十五年の年月を超えて、伝説の歌姫が── 『女神の御使い』が再来する。
 幼いと言って過言でないその姿は、最初に彼等が思ったように全くの別人であるはずなのに、その少女がそれまで俯いていた顔をあげた途端、昔を知る者も、そうでない者も、確かに彼女こそかの佳人であると思った。
 言葉を失い、ただ呆然と見入る人々を前に、歌姫は優雅に一礼し、そして。
 奇跡を、起こした。

+ + +

「…これは……」
 そう言ったきり、祭事長は絶句した。そのこの世のものとは思えない歌声が、彼に過去を鮮やかに甦らせる。
 あの細い、華奢な身体の何処から、こんな声が生まれてくるのか。
 神に与えられた才能などと表わすのもはばかられる。それはまさに奇跡の声。
 ああ、やはりあの娘は女神の御使いであったのだ、と彼は思った。だからこそ、こうして姿を変えても、以前と同じ声で歌えるのだ、と。
 その時、ふと隣に何者かの気配を感じた。祭事長は歌姫から目を離さず、けれども彼だ、と確信した。
 隣に座れる者は一人しかいないのだ。彼と同様、三十五年前の奇跡を目の当りにした、生き証人。
「…時間が、逆戻りしたみたいだな」
 口調が自然とくだけたものになる。ここにいるのは、神官長と祭事長ではない。
 まだ若く、自分の将来など予想もしていなかった、神官見習いだった友人同士だ。
「女神が…そこにいらっしゃる」
 無意識の内に漏らした言葉。それを隣の人物が苦笑混じりに正した。
「いいや…あれはそんな大層なものじゃない。ただの…田舎娘だよ」
 返った声に、祭事長はぎょっと目を見開いた。一気に現実に返る。
 そんなばかな、と自分に言い聞かせた。幻聴なのだ、と。そうでなければ、どうして同様に齢を重ねた友人の声がこんなに若いというのか……!?
「あれは昔から約束を破らない。だが、今回は随分と待たされたな……」
「…っ、神官長!?」
 顔を向けて、祭事長は硬直する。
 隣の席に彼が座っていた。懐かしげな表情で、歌姫を見ている。しかし、その姿は。
 息を呑んだ古い友人に目を向けて、彼はふと笑った。三十五年前の、青年の姿で。そして──。
「…グルード!?」
 思わず彼の名を叫んだその、刹那。
 青年の姿は、まるで初めからそこになかったかのように掻き消えていた。
 祭事長は呆然と空席になった椅子を見つめ── やがて我に返ると、慌ただしく部屋を飛び出した。
 外ではまだ歌声が紡がれている。歌の終盤を迎え、人々はその声に支配され、他の事など考えられない。ほんの僅かな例外を除いて。
 それ故に、人々はその小さな異変に気付く事はなかった。

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