約束の

後祭 〜約束が果たされる時〜(1)

 周囲が熱に浮かされたような中、イオは一人正気を保っていた。
 視線の先、遠い舞台の上に、この間知り合ったばかりの少女がいる。その姿に、少しばかりの淋しさを覚えて、イオは自分が情けなくなる。
 理由は不明だが、少女── フルールが自分の手の届かない存在のように感じる事が、どうしようもなく淋しく思えたのだ。
 どうしてそんな風に感じるのかわからないまま、周囲に目を走らせる。
 隣でストシアがうっとりとフルールの紡ぐ歌声聞き惚れていた。ストシアだけではない。おそらくこの場所にいる全ての人が、フルールに夢中になっている。
 …それは奇跡と呼ぶには、何処か異様な光景だった。
 伝説の歌姫の再来── そんな表現では追いつかない。まるでかの歌姫その人がいるかのように。
(フルールは、フルールなのにな)
 当たり前の事を考えて、でもその事をちゃんと認識しているのは、ひょっとしたら自分だけかもしれない、とちらりと思う。
 確かにその姿も、歌声も、伝え聞く歌姫に重ねたくもなるだろう。
 けれど、イオには初めて出会った時の、何処となくおどおどした、でも真っ直ぐに目を向けてきたフルールこそが、本来のフルールのように思えるのだ。
 だから。
 たとえ間違っていると言われても、フルールを『女神の御使い』だなんて、言いたくない。
「…けれど、あれが神の御使いである事は変わりない」
 不意に耳元でそんな声がした。どきりとする。まるで心の中を見透かされたようだった。
 驚きながらも、視線を声のした方に向けると、そこにはこの場にはひどく場違いな格好をした人物が立っていた。
 ほっそりとした姿と、その声から、どうやら女であるらしかった── と言うのも、その人物は頭からすっぽりと厚手の黒いフードを被り、その下に身に着けた服もまた、周囲の華やかな色彩の中、まるで一滴の墨のような丈の長い黒い服で、性別がはっきりしない姿だったのだ。
 見下ろす視線を感じながら、けれどもその人物の口元しかイオは見る事が出来なかった。
「…あんた……?」
 ただならぬ様子に、イオは気色ばみ誰何する。だが、女はそれには答えなかった。
「だが、あれは魔物でもあるのだよ」
 諭すような言葉が、代わりのように与えられた。
「何だって……?」
「あれは我々とは相容れぬ、天の神の愛み児。その歌声は人々を魅了し、その姿は人々を惑わす。そして──」
 女はそこで、冷たく笑った。
「人々を、狂わせるのだよ」
「!!」
 余りに予想外の出来事で絶句するイオへ追い討ちをかけるように、女は愉快そうに言葉を重ねる。
「覚えておくといいよ。いつか、遠くない未来で、あの娘は真の自分に気付く。…地の神の愛み児。その時こそ、あの日の決着をつける時」
「一体、何を言って……」
 イオの困惑などお構いなしに女は言い募る。
「天は大地を憎み、今も呪いを紡いでいる。その呪いの最たるものが、あの」
 すっと、白い指が歌い続けるフルールを示す。
「あの、歌う魔物なのだよ……」
「っ、勝手な事を……!!」
 言うな、と続けようとした時、突然周囲から大歓声が上がり、イオはその機会を失った。
 歌の奉納が終わったのだ。一瞬、その事実に気を取られ、慌てて女の方に顔を向ける。しかし、そこにはもう女の姿はなかった。
 きょろきょろと辺りを見回すが、あの目立つ姿は何処にも見当たらない。
 よもや幻覚か、白昼夢かと首を傾げたイオの耳に、姿なき女の声が届いた。
「…安心なさい、大地の子。あれはまだ何も知らない。だからこそ、大事には至らなかった。…そんな事は私がさせない」
「っ!? 何処だ! 何処に隠れた!? 出てこいっ、卑怯だぞ!!」
 叫んだと同時に、ぐいっと後ろ髪が引っ張られて、イオは悲鳴を上げた。
 そのせいで、イオはそれ以上の言葉をなくした。
「ちょっと、イオ! 何をぎゃあぎゃあ騒いでるのよ!!」
 犯人に怒りの視線を向けると、その犯人も怒っていた。
「こんな所で大声出さないでよ、恥ずかしい! ほら、周りの人が睨んでるでしょ!? 折角余韻に浸ってたのに」
 ぎろりと睨み返されて、イオは首を竦めた。これはどうも分が悪い。
 この分では、ストシアには女の声が届いていなかったのか、聞こえていなかったのだろう。それを納得させるなど、至難である事は間違いがなかった。
 イオは結局素直に謝る事にした。
 イオの耳に、女の声はまだ残されている。それこそ、正しく呪いのように。それは不吉さを連れてくる。

 あれは魔物。
 人を魅了し、惑わせ、そして狂わせる天の呪い──。

+ + +

 歌の奉納を無事に終え、再び控え室に戻ったフルールを待っていたのは、全く思いがけない事態だった。
「えっ……?」
 一瞬、言われた事が理解出来ず、フルールは思わず首を傾げた。
「あの、それは一体、どういう事なんですか?」
 繰り返し問うと、先程呼び出しに来たのと同じ神官は、最初の言葉よりはいくらか言葉を補って説明してくれた。
「ですから、今になって神官長様の容体が悪化なさったのです。本来なら、この後、神官長様から聖杖を賜るのですが、この分では無理かと……」
「神官長様に、会えないんですか!?」
 ほとんど遮るようなフルールの声に、神官は目を丸くし、その反応に不思議そうな顔で頷く。
 フルールの目的を知らない彼にしてみれば、聖杖を賜わる人物が多少変更した位でそこまで動揺する理由がわからなかったのだ。
「そんな……」
 へたり込みこそしなかったものの、あまりの衝撃に目の前が暗くなった気がした。
 神官を束ね、この大神殿でもっとも権威を持つ神官長に会えれば、自分の探す人物を見つけ出せると思っていたのだ。
 それだけを心の支えにしていたフルールは、別の神官に尋ねるという事すら思いつかずに、ただ呆然とそこに立ち尽くした。
(ここまで、来たのに……!)
 祖母から母へ、母から自分へと受け継がれた想いは、このまま行き場を失ってしまうのだろうか。
 ひょっとしたら、もうこれから先、それが果たされる事はないのではないか?
(…どうしたらいいの? お母さん──!!)
 その時だった。
「歌姫殿は、こちらかな」
 不意に第三者の声が飛び込んできた。
 反射的に目を向けると、見た所六十歳前後の身なりの良い男が、そこに立っていた。
「祭事長様!」

 若い神官が驚いた声をあげる。どうやら、男の訪問は彼の予想を超えた事だったらしい。
「一体、どうしてこのような所に……」
「歌姫殿に用がある。…少しばかり、外してくれないか?」
 男── 祭事長の言葉に、彼は首を傾げたが、結局その言葉に従った。
 逆らう理由もない。彼が退出してしまうと、部屋には祭事長とフルールだけが残された。
 祭事長はしばらく黙ったまま、じっとフルールを見つめ──やがてその目を細めて微笑んだ。
「近くで見ると、本当にそっくりだな。髪の色と年さえ同じだったら、同一人物にしか思えない」
「?」
 その言葉の意味がよくわからない。
 けれどそこには懐かしげな色がある事は感じ取れた。
「あの……」
 恐る恐る声をかけると、祭事長は優しい笑顔と共に手を差し伸べた。
「私の古くからの友人が君に会いたいと言っている。どうだろう、会ってくれないだろうか?」
「友、人?」
「そう。医師から面会謝絶とまで言われたのに、職権濫用する困った奴でね」
 口元に苦笑を浮かべて、けれども口ほどには困っていない様子で肩を竦める。その目は明らかに面白がっていた。
 その時。フルールは不意に閃いた。
「もしかして…それって、その人って……」
 フルールの中途半端な問いに、祭事長はゆっくりと頷いた。
「…名は、グルード。肩書きは神官長。伝説の歌姫に生き写しの君に会いたいが故に、生霊にまでになったくたばり損ないだ」
 その言葉に、フルールの目は一瞬大きく見開かれたが、やがてその表情が目に見えて明るくなる。そして力いっぱい頷いた。

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