約束の歌姫
後祭 〜約束が果たされる時〜(2)
「ほら、わたし、嘘はつかなかったわよ?」
得意気に彼女は言う。
何故だろう、夢だと言うのに(いや、夢だからだろうか?)その姿は最後に別れた時よりもいくらか年を経たものだった。
二十歳そこそこといった辺りか。けれどもその空を映した瞳に宿る輝きは変わらない。
「それにしたって、遅すぎないか? 三十五年も待たせるなんて」
文句を言ってやると、彼女は軽く肩を竦めた。
「仕方ないでしょ? わたしはわたしで、大変だったのよ。女手一つで子供産んで、育てて。それに……」
そこで言葉を切ってにやりと笑うと、彼女は茶化すように言い放つ。
「わたし、方向音痴だもの」
彼は何と言ったものかと頭を抱えた。
そう、そうだったのだ。彼女は本当に救いようのない方向音痴で。小さい頃から、そのせいで色々と面倒事を起こしたものである。
神官となるまで、何度となくその尻拭いをやってきた彼は、反論する気力すらなくした。
もう一度会えたなら、あれもこれも言ってやろうと思っていたのだけど。
「…幸せだったか?」
結局口にしたのは、そんな言葉だった。無意識の内に過去形にして、そして自分で納得する。
待ち続けていた彼女は、もうこの世の人ではないのだ。
「当ったり前でしょ? このわたしが不幸になる訳ないじゃないの」
ふふんと笑って、彼女が高飛車に答える。その瞳が、少しだけ翳ったのを彼は見逃さなかったけれども。
「そりゃ、若い身空で死んじゃったけど。でも、あなたに会えたし、自分の存在意義も見つかったわ。満足よ。…あの子を、早くに亡くした事だけが悲しかったけど」
「あの子?」
「そう。わたしと、わたしの命より大切だった人の娘。二十歳にもならずに死んでしまったわ。そしてもう、何処にもいない。…まあ、その時にはわたしもとっくに死んでたし、どうする事も出来なかったんだけど」
薄く笑ったその顔は、彼の知らない母親の顔だった。その事に、少しだけ驚く。
「享年、二十八歳。太く短く生きたから、こんなもんでしょ」
あっけらかんと言ってくれる。昔からそうだ。彼女はいつだって前向きで、自分は度々それに学ばされた。
「…ちょっと待て? 二十八で死んで、その外見は詐欺じゃないのか?」
昔のように絡むと、彼女は子供のようにむくれた。
「何よっ! 出血大サービスでこの姿で来てやってのに」
「大サービス?」
「そうよ。…私が、一番きれいだった時の姿なんだから。感謝して欲しいわね。本当だったら、あの人以外に見せたくないんだから」
「…なるほど」
合点がいって彼は頷く。だが、すぐに思い浮かんだ疑問がまた彼の口を開かせた。
「それで? その、お前の『命より大切だった人』とやらは何処にいるんだ?」
その瞬間、彼女の顔から笑顔が消えた。
「…エレン?」
「いないの。…ずっと、捜しているのに、見つからない」
ぽっかりと穴の空いたような、空虚な顔。絶望とは、こういうものかもしれないと思える顔だ。
だが、それはすぐに払拭したように消え去った。
「まあ、ともかく目を覚まして。わたしはもう歌えないけれど、あの子が代わりに歌ってくれるわ。それを聞いて元気を出して。…長生きしてよ、わたしの分まで」
「待ってくれ…お前は、わたしを迎えに来てくれたのではないのか?」
「…何、寝惚けた事言ってるの?」
心底呆れた口調で彼女は言う。
「あなたにはまだ、する事があるでしょう。…大丈夫だって。もし、あなたとわたしの還る場所が同じなら、きっとわたしが迎えに来るから」
その言葉に、彼は心底苦笑した。
「また三十五年も待たされちゃかなわないな」
それでも、その約束は嬉しかったから彼は微笑む。
「わかった、それまでせいぜい長生きするよ。…エレン、俺の大切な『妹』君」
「きっとね。わたしが保障する。あの子は本当に特別なの。きっと長生きしてやろうって気になるから。…じゃあね。さよなら、わたしの大好きな『兄』様」
彼女の姿が不意に遠のいて。
気が付くと、彼女に良く似た少女が心配そうに覗き込んでいた。
「…やあ」
彼は少女に笑いかける。
「ずっと、君に会いたかったよ」
「…グルード、さん?」
「ああ、そうだ。…本当にそっくりだ。外見だけだが、私の大切な幼馴染に」
少女はほっとしたような笑顔になると、小さな声で言った。
「わたし、お祖母様の心を届けにきました。でも…本当は、違うの」
その笑顔が、少しずつ違うものに変わってゆく。
「わたし、心の何処かでは思ってたの。こんな約束、絶対に忘れられてるって。そんな事、きっと不可能なんだろうって」
潤んだ瞳は、彼の懐かしい人と同じ、真っ直ぐな目を向けてくる。すっかり泣き笑いになったその幼い顔は、けれども幸せそうだった。
「私達は…何処にも還れない。お母さんが、いつも言ってた。でも、お祖母様には還る場所があったんだ。…嬉しい」
もはや、ちゃんとした言葉ではなくなっていたが、それでも少女は涙を零しながら言葉を紡ぐ。
「いつか…わたしも、見つけられる気がするの。わたしの、還る場所……」
「そうか。…エレンは、あの場所に帰ったんだな……」
彼と、彼女が生まれ育った場所。そしてそれを覚えている、彼の記憶の中へ。
「もう、泣かないでおくれ。…彼女の代わりに、歌ってくれないか? いや、代わりなんかではなく、…君の歌を聴かせておくれ」
「わたしの……」
「そう。…彼女がね、夢の中で言っていたよ。君の歌を聞いたら、きっと長生きしたくなるってね」
その言葉に少女は目を丸くし、やがてくすくすと笑い出す。涙は止まってくれたようだ。
「お祖母様って、変な人」
「ああ、あれは変わり者だったよ。黙っていれば美人だったのに、中身はとんでもなくがさつだった。…そこが、気に入っていたんだがね」
本当に、血を分けた妹のように愛していた。決して恋ではなかったけれど、大切に思っていた。
彼女はもう、この世にはいない。
「そう言えば…まだ君の名前を聞いていなかったね。…何と言うんだい、エレンの自慢の孫娘殿……」
やがて神官長の私室から、囁くような優しい子守歌が流れ出した。