永久楽土
序章(3)
「…わ、わたくしは…何もしてないわ……っ! 何も、何も…っ!!」
彼女は必死に言い募る。
言い訳のようなその言葉は、しかし少年にとっては見苦しいものでしかなかったのだろう。
心底醜いものを見るような目を彼女に向け、皮肉な笑みを口元に浮かべる。
「── 何も、ね」
「そうよッ! なのに、ど、どうして死なないとならないの!!」
もはや彼女に、かつての威厳も面影もない。
恐怖に歪んだ顔に美しさはなく、恐怖のあまりに割れてしわがれた声は耳障りですらある。むしろ、迫力すらあった美貌の持ち主だけに、その様は醜悪であった。
「…あなたは確かに、何もやっていないのかもしれない」
少年は彼女の言い分を認めるような事を言葉に乗せる。
だが、次の瞬間には、少年は新たな変貌を遂げていた。
「だが── 貴様がこの世に生まれてきた事こそが、罪悪だ」
「……!!」
凶悪な形相になった少年は嘲笑うように言い放つと、その片手をすっと差し出すようにして持ち上げ、そのままゆったりとした足取りで彼女の方へと近付いて行く。
「ひ…っ」
喉で引きつった悲鳴をあげ、彼女は更に背後に縋る。
硬い岩盤に爪を立てたせいで、長く整えられた爪が折れ、もしくは剥がれすらしたものの、彼女は痛みなど感じていないのか、その行為をやめようとしなかった。
元々それ程距離があった訳でもなく、少年は手を伸ばせば彼女に触れる事すら出来そうな位置まですぐに移動してしまう。その気配を間近に感じて、彼女は完全に狂乱状態に陥った。
「いやいやいやいやいやあっ!! 死にたくないっ、死にたくない……っ!!」
まるで子供が駄々でもこねるように口走るものの、少年には何の感慨も与えない。
必死に背後の壁を掻く、彼女の頭へ後ろから無造作に手をかける。そしてその耳元で囁いた。
「ばかだな、お前は。…今まで見てきた中でも、一番くだらない『器』だ」
「── っ!!」
「安心する事だ、お前が死んだ後は俺も死ぬ。…今までに何度も繰り返してきた事だろう? お前は痛みすら感じずに死ねるって言うのに、俺はいつもあいつに切り刻まれ、苦しみの中で死んで行くんだ。…むしろ感謝して欲しいくらいだね」
彼女は少年の言葉など聞こえていないのだろう、呼吸すらも忘れたかのように硬直している。
ただ、見開いた目だけが落ち着きなくきょろきょろと彷徨うばかり。
少年のまだ成長しきっていない手が、彼女の結い上げていた髪を乱暴に掴み、ぐい、と力任せに引っ張る。
引き攣れる痛みに悲鳴をあげながら、彼女はその涙と剥げかけた化粧でぼろぼろの顔を、少年の方に向かされた。
右手で掴んだ髪をまじまじと見つめ、少年はすっと目を細める。
「── 赤い、髪」
「……っ、や、あ……っ」
「青い瞳── 『神』の色、か……」
対する少年の容姿と言えば、艶のない黒髪に何処かくすんだような銀の瞳だ。
知る人が見れば、それだけで何者かがわかる、特別の色──。
「…お前ごとき卑小な者が、その『色』を持つだけでも許されざる事だ」
やがて吐き捨てるように、少年は彼女に言い放つと、どん、とその身体を突き放した。
「── っ!!」
背中から石造りの壁にぶつかり、彼女は苦痛の為かそれとも恐れの為か、悲鳴にならない声をあげる。
その衝撃で結わえていた紐が切れ、ばさり、と豊かな巻き毛が彼女の顔に覆い被さり、その表情を隠した。
「…お休み、アウサーラの現し身」
再び最初の穏やかさすら感じさせる声音で呟くと、少年は一体何処に持っていたのか、一振りの剣を持ち上げる。
その刃は鋭く、さながら月光のように涼やかな光を帯びていた。
もはや彼女は動かない。垂れ下がった髪の向こうから、魅入られるようにその剣の輝きをじっと見つめるばかりだ。
そして。
シュン!
風を切る音が一度、その場に響き── まず何か小さなものが落ちる音、続いてどさり、と重みのある物が倒れる音がする。
輝く刀身を紅に染めながら、少年は足元に転がる、たった今生命を無くした女の首を見下ろした。
何の感慨も見せずに、しばらくそれを少年は眺める。人一人の命を奪い去った後にはまったく見えない平然とした様子だ。
だが…その無表情だったそこに、やがて驚きが広がった。
「──…何故、だ?」
見つめる先に、女の死に顔がある。
乱れた髪によって表情の大部分は隠されていたものの、かろうじて口元と右の頬の辺りだけが見えていた。
涙の跡が生々しく、まだ生気すら感じさせるそこに、先程までの恐慌はない。むしろ──。
「…何故、微笑う?」
かつて神の現し身として扱われ、享楽と奢侈(しゃし)の限りを尽くしていた女は、その死の直前に何を思ったと言うのか。
その死に顔には、いっそ神々しい程の穏やかさと慈愛のこもった微笑があった。それは以前の彼女ならば、決して浮かべるはずのなかった表情。
「何故だ……?」
死人は答えない。少年に困惑を残したまま、かつて大地と生命を生み出したとされる地神の現し身はその命を失った。
からん、と軽い音と共に手から剣が滑り落ちる。しかし、少年はそれに頓着しなかった。そのまま魅入られたように女の首を見つめ続けるばかり。
やがて、遠くから国王の首級を上げた鬨の声が響いてきても、微動だにしない。凍りついた表情の中、唇だけが微かに動いた。
「…まさか……」
零れ落ちた声はあまりにか細く、他に聞く者のないままに薄闇に紛れて消える。
少年は何を思ったのか、まるで思いついた考えを振り払うように数度頭を振ると、転がったままの女の首を拾い上げ、そして来た道をゆっくりと歩き始めた……。+ + +
トーティ=ファリアンサ陥落── 大陸の大部分を支配した大帝国が、それまで隷属に屈してきた周辺諸国の連合軍に敗れ去るという、史上嘗てなかった劇的な最後を迎えた出来事は、その後も史書を介して、あるいは口伝によって長く語り継がれる事になる。
だが、それは一つの大国が滅び、群雄割拠の時代になった発端としてだけでなく、もう一つ人々にとっては重要な結末をも有していた。
帝国の繁栄の背後にあった、『地神』の力を有する存在。王の愛妾ですらあったと言う、正確な名すらわからない女性を最後に、それが生まれなくなったのだ。
それはトーティ=ファリアンサが滅んで、実に数十年を経る頃になってようやくわかった事だったが、それは人々、特に大陸制覇を目論む権力者達に衝撃を与えた。
地神とは、世界のあらゆる物の創造主であり、同時にその全ての支配者である。
すなわち、一部とは言え地神の力を持つ者を手にすれば、世界の覇権を手にする事は夢ではなくなるのだ。
トーティ=ファリアンサが数百年の繁栄を誇ったのも、そうした存在を他国より一早く見出し、手中に収めた為だと真しやかに言われていた程である。
繁栄を約束する女神── しかし、結局その存在が見出される事のないまま、更に数百年の時が流れる事になる。
何者も害する事の出来ないはずの地神の力を持つ者が、確かに何者かによって葬り去られたという事実、そして神の力を受け継ぐ者達の間に存在する、隠れた因縁に気付かないままに──。