永久

序章(2)

 …何かが、追いかけて来る。
 決して慌てる様子もなく、追い詰めようとする気配もないが、確かに彼女は自身が『追われている』、という意識があった。
 ── 深い、泥のように纏わりつく闇が、彼女の心と挙動から余裕を奪って行く。
 立ち止まっては駄目だ、と思う。
 けれど彼女は知っている。歩き続けるその道の先には、袋小路が待っている事を。
 しかし、その途中でいくつも分かれてある横道へ入る事は、彼女の矜持(きょうじ)に反していた。
 何者にも屈する事ない…否、屈するという事自体が有り得ない── それがそれまでの彼女にとって、至極当たり前の事だった。
 何故なら、彼女はその地を統べる王よりも、また神を奉る神官よりも尊ばれるべき存在であったのだから。
 …だのに今、彼女は明らかに逃げている。そして何者かに、追う事すら許している。
(…この、わたくしが!)
 足を留める事もなく、心の中で忌々しい思いを吐露(とろ)する。
 立ち止まり、追いかけて来る何者かに命ずればよいはずなのだ。

『ただちに、この地より去ね』

 ── と。
 その一言、たったそれだけの言葉で、どのような人間も従うはずだった。
 相手によれば、その言葉だけで死すら与える事が可能なはずなのに── それが出来ない。
 一歩一歩、彼女を追ってくる気配を、感じては足を進めるばかりだ。
 だが…その逃亡も、ついに終わる時が訪れる。
 かつては地下へと続く通路であったそれが、地震が起こった為に塞がれて出来た袋小路── 逃亡の終着地点が彼女の視界に入ったのだ。
 …彼女の身の内に、未だ嘗て味わった事のない戦慄(せんりつ)が駆け抜ける。

 ── 終わる。

 ふと、そんな言葉が彼女の脳裏を掠めたが、彼女自身、一体何が『終わる』と思うのか理解出来なかった。
 ただその直感は、今までを鑑(かんが)みるに外れた事が一度としてなかったのは確かだ。
 彼女は諦め半分、ようやくその足を止め、ありったけの勇気を振り絞って来し方に身体を向ける。
 淀んだ闇の向こう、彼女が今やってきた方向からは足音すら聞こえてこない。なのに、何者かが近付いてくる気配だけが確かにする。
 ぴりぴりと、その白い肌が緊張で強張って行くのを知覚する。喉が干上がり、生唾が湧く。
 しかし、それでも彼女は内心どんなに怯えていても、自らの誇りをかけて本来の傲慢にも見える態度を表し、やってくる何かを迎えようとした。
 そう出来る程に、彼女の自尊心は並々ならぬものだったと言えるだろう。だが── やがてようやく姿を現した、その気配の正体を目の当たりにしたその時。
 彼女の誇りも威厳も、何もかもが一瞬で消し飛んでいた。
「あ、ああ、あああ……!」
 意味のない悲鳴を紡ぎ、彼女は後ずさる。もし、その姿を常日頃の彼女を知る者が見れば、おそらくその目と耳を疑ったに違いない。
 それ程に、彼女の顔には恐怖以外の何物でもない感情が、色濃く浮かんでいたのだ。
 だが、彼女が瞬きする事も出来ないまま凝視していたのは、恐ろしげな外見をしたものでもなければ、危険な武器を持っていた訳でもない── むしろ逆に、非力そうな上にひどく地味な顔立ちをした、痩せっぽっちの少年だったのである。
 彼女は妙齢の、十人に尋ねればそのほとんどが美女だと認める程の美貌を有していたが、それ以前に存在自体が力の塊のような、強い存在感と覇気とを有していた。
 だが、対してその少年は、むしろ彼女とは正反対のものを形にしたかのようだった。
 そんな存在感も希薄なら、生命力すら乏しそうな少年に、この地で最も尊ばれていた彼女が激しく怯えている。
 自らを抱き締めるようにして、後ろへと下がって行く彼女に、少年は無表情な顔を向け、その無機質な瞳に怯えきった顔を映した。
 そして── 口を開く。
「…そんなに怖がらなくてもいいじゃないか」
 …それはやはり感情のようなものを感じさせない、起伏に乏しい平坦な声音だった。
 しかし、その事を差し引いても、その言葉があまりに砕けた口調だった事自体、知る者が聞けば驚嘆の事実である。
 そうでなくても、彼女と少年は兄弟と言うよりはいっそ、親子と言ってしまっても不思議でない程年齢が離れている。なのに、少年はまるで同世代の知人に話しかけるような口調で言葉を紡ぐのだった。
「ぼくは別に、恐ろしい目に遭わせに来た訳ではないんだよ」
 だが、少年が言葉を紡げば紡ぐ程、彼女の顔は血の気を失い、唇は戦慄(わなな)く。実際、彼女の身体は小刻みに震えていた。
 そんな彼女を見つめ、少年は軽く小首を傾げる。
 なんでそんなに自分を恐れるのだろう、という様子だ。だが、その時彼女の思考を支配していたのは、たった一つの単語だった。
(死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ死神だ…っ)
 嵐のように駆け巡る言葉。もはや、彼女は正気すら失いかけていた。
 ずりずりと後ずさり、ついにその背が袋小路の壁に突き当たった瞬間。彼女は恥も外聞もなく絶叫した。
「い、いやあああああ!! 来ないで、来ないでええええ!!!」」
 …少年は姿を見せた位置から一歩も動いていないにも関わらず、彼女はついに豪奢な服の裾が汚れるのも構わずに、みっともなくそこに座り込む。そして必死に背後の壁に縋るのだった。
 ── そこに逃げ場もなければ、彼女を守るものなど、何一つないというのに。
「ゆ、許して……っ!」
 ── それは、彼女が生まれて初めて口にした懇願の言葉。だが、それが変化のきっかけとなった。
 それまで存在感すらなかった少年の顔に、表情が生まれる。
 それは── 嘲笑。
 そして実際に声に出して少年は笑い始める。
「はっ、はははははは! 命乞いかい、トーティ=ファリアンサの『地神』?」
「…!!!」
 自身の身分を口にされた瞬間、端で見て分かる程に彼女の身体がびくり、と反応した。血走った目を少年に向け、いやいやをするように首を横に振る。
「── この地上で最も力ある柱の神の現し身であるお前を、唯一滅ぼせるぼくが殺しに来たよ」
「っ!!!」
 先程までとは打って変わった、聞き分けのない子供に対するような優しげな口調で話しかけてくる。
 だが、その内容は彼女にとっては正に死刑執行の宣言にも等しかった。

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