永久楽土
第一部 闇(くら)き導き神の祈り
極彩の庭(2)
「…それで? これがマナン=エーデンで売られていたものですの?」
庭を取り囲むように植えられた茂みの向こうには、また別に小さめの庭があった。
綺麗に整えられた芝生の上に、いくつかの華奢なデザインのテーブルと椅子が置かれ、そこにやはり豪奢な服装をした男女が腰掛けている。
それは遠目で見ると一枚の絵のような光景だったが、そこでの会話はあまりお世辞にも優雅とは言い切れないものだった。
「こんな粗悪品を我が国で作られたものと偽るなんて! なんて恥さらしな国なのでしょう」
いかにも汚らわしいといった様子で、美しく装った女性が摘み上げたのは、アウラの目には十分綺麗に思える織物だった。
鮮やかな緑に染められ、陽射しを受けて柔らかそうに光っている。きっと触ったらつるつると滑らかな感触がするに違いない。
なのに、そこにいる男女は皆、女の言葉に同意見らしかった。
「まったくです。…まあ、あちらの国は出来てそう間もない。歴史がないだけに、芸術などに対する目は養われていないんですよ」
鼻の頭に皺を寄せて言い切った男に、周囲の人々が頷いて同意を示す。
「武力に物を言わせる野蛮な国です。こういう手段でしか、我が国を貶める事が出来ないに違いない」
「あちらの国では、武功を立てれば他国民であろうと、田舎者だろうと、それなりの官位を与えるとか。…ザイン=エルダではとても考えられない事です」
「その通りですわ! 明確な上下があってこそ、国は平らかに治まるというもの。流石は一代で成り上がった国ですわね。秩序というものをわかっておりませんわ」
(……)
彼等が扱き下ろしているのは、アウラでも知っている国の事だった。
マナン=エーデン── ここからずっと南に下った所にある大国だ。規模はもしかするとこのザイン=エルダのそれよりも大きいかもしれない。
詳しい事は知らないけれど、『地図の作れない国』という噂話を聞く限りでは相当に大きい国らしい。
奴隷の間で実しやかに話される噂話に、どれほどの信憑性があるかわからないが、あながちそれが嘘ではないのも確かだ。
…少なくとも『地図が作れない』理由が、『毎日のように戦があり、その度に領土が広がる為、明確な国境が定まらない』というのは事実らしいから。
ザイン=エルダも侵略によって国土を広げているが(だからこそ、アウラもこの王宮に売られる事になったのだが)、それもここ数年の事で、それまでは表立って仕掛ける事はなかったという。
大陸の北と南を支配する大国同士、しかも掲げる政策が正反対であれば、友好的でいられるはずもない。
こうしてあからさまに貶す様を目撃したのは初めてだが、生粋のザイン=エルダ人程、マナン=エーデンに対して好感情を示さない事はアウラもすでに知っていた。
ザイン=エルダで生まれ育った訳でもないアウラには、そこまで毛嫌いする理由がさっぱりわからなかったけれども。
「マナン=エーデンの国王は非常に好戦的な性格をしているとか。なんて恐ろしい事でしょう、戦を自ら求めるなんて」
「本当に。…噂ですと、このザイン=エルダをも視野に入れているとか」
「それはあくまでも噂でしょう? いくらかの国が武力を持とうと、この国に手を出すなど……」
だんだんと話す内容がきな臭くなる。その場を離れるべきだと思うのに、何故だかアウラはそこから動けずにいた。
身なりからして貴族階級だとわかる彼らに見つかりでもしたら…しかも、盗み聞きしていると思われたら、きっと大変な事になるに違いない。
それがわかっているのに、不思議とその話から耳を離せないのだ。
(…また、戦争が始まるかもしれないの?)
そう思うと身体が恐怖で固まる。
戦場での記憶が鮮やかに甦った。いつ見つかって殺されるかわからない、あの恐怖。食べるものがなく、飢えて乾いた時の苦しさ。
…その恐怖がアウラをその場に縛り付ける。
ザイン=エルダのように大きな国が、アウラの故郷のようにあっさりと陥落する事はまずないだろう。そしてこの王宮が戦火に包まれる可能性はもっと低いはずなのだ。
──でも。
もう、アウラは知っている。死が何処にでもある事を。
(もういやだ…あんな怖いのは、もうやだ……!)
恐怖で動けないアウラを余所に、男女は会話を続ける。内容は次第にマナン=エーデンの国政や吸収された国々の扱いにまで及んだ。
途中からまったく内容もわからなくなってくるにあたって、ようやくアウラはその場を離れる事を決意した。
このままこの場にいても、何一ついい事はない。むしろ、怖い思いが増えるばかりな気がした。
息を殺し、そろそろと後ずさる。来た時同様、議論に夢中になっている彼等の目はアウラの方を見てはいない。
このままそっと立ち去れば見つからない── はずだった。
「お前、ここで何をしている」
「!!」
背後からの声に、悲鳴を上げかけるのを寸での所で飲み込む。
前ばかりを気にしていたばかりに、背後に誰かがいる可能性をすっかり忘れていたのだ。弾かれたように振り返ったそこに、中年に差し掛かった辺りの男が立っていた。
身なりはアウラよりはマシだが、先程まで見ていた貴族のそれに比べるとみずぼらしい。
庭師だとは、後に思い返して気付いた事で、その時はただ見つかった事への恐怖と混乱だけが先に立った。
「あ、あ、あの…」
ここへ作業しに来たのだと答えようと思うのに、声はひどく震え、今にも消えそうなか細いものしか出て来ない。
極度の緊張は庭師にも伝わったのだろう。彼も特に咎めようと思って声をかけた訳ではなかった為、アウラのその怯えように安心させようと口を開きかける。
── が、そうするにはあまりにも場所が悪かった。
「…まあ、こんな所に小汚い鼠(ねずみ)の子が」
庭師の声は茂みの向こうにいた人々の耳に、十分届いていた。
至近距離からした声に、再びそちらに顔を向けると、そこにいた男女が薄笑いを浮かべてアウラを見下ろしていた。
…まるで、新しい玩具でも見つけたような目。
「何処から入り込んだのかしら…── 汚らわしい」
「さては盗み聞きしていたな。もしや、何処ぞの間諜か? その容姿…少なくともわが国の民ではあるまい」
「このような子供が? 見るからに学がなさそうではありませんか。そのような能があるかどうか……」
「子供だからと言って油断はなりませんわ。それが我々の目を掻い潜る手かもしれませんもの」
「おお、もしそうならばそれは一大事ですぞ!」
口々に芝居がかった口調で言う彼等を、アウラは呆然と見上げた。
── 彼等は一体、何を言っているのだろう?
極度の緊張も手伝い、頭の中は真っ白だった。
一言も口が利けないまま、下がる事も平伏して立ち聞きしてしまった事を無礼を詫びる事も思いつけずに、ただ冷たく光る何対もの目から送られる視線を受け止めるばかりだ。
「── そこな、庭師」
中でも最も豪奢な服装をした女が、ふとアウラから目を離したかと思うと、事態を見守っていた庭師へ声をかける。
それは先程の言葉とは打って変わった、いっそ寒気が走るほどの猫撫で声だった。
「へ、へい」
「お前のお陰で、王妃様を嘆かせる鼠を一匹捕える事が出来ました。よくぞ見つけてくれましたね」
「は、はあ……」
慌てて居住まいを正した庭師を、女は薄い笑みを浮かべて褒め称える。
庭師はちらちらとアウラの方に目を向けながらも、その言葉を受け入れたが歯切れは悪い。
自分がしでかした事の重さに気付き、罪悪感に駆られているのが傍目にも明らかだった。
彼とて階級意識が殊更強いザイン=エルダの民である。奴隷よりはマシ、と言った程度の一般民の階級だが、日頃は他国民奴隷に対して友好的な感情は持っていない。
だが、年端も行かない子供に対する感情は人並みにはあった。
アウラはあまりにも幼く、しかも顔色も悪く痩せ細っており、見るからに恵まれていない事がわかる有様だった。
どう見ても、一人で働くには早い。そんな子供を、自分は生きるか死ぬかの境に追いやってしまったのだ。
落ち着かない様子の庭師に対して、アウラは女の言葉にあった一つの単語に震え上がっていた。
(『王妃様』…王妃様って言った……!?)
いくら幼くても、その言葉がどういう意味を持つのか理解は出来た。
── 耳に甦るのは、先日聞いたサマナの言葉。
『…イアクが、殺されたんだよ。あのばか、よりにもよって王妃様の庭に入り込んだんだってさ』
(…死んじゃうの……?)
ここで、自分は。
鉛を詰めたように、胸の奥が鈍く重い。思うように呼吸も出来ない。
恐怖の余りに身動き出来ないアウラの耳に、やがて楽しげな響きに包まれた恐ろしい宣告が届く。
「…さあ、皆様。我等が王妃様の御為に、この鼠を駆除しましょう」
その言葉に一斉に視線が注がれる。舌なめずりせんばかりのそれに、反射的に体が後ろに下がる。
唯一の味方とも言えた庭師は口も挟めずにただ事態を見守るばかりだ。
「…や、やだあ……っ!!」
逃げなければ── 本能の命令に従い、アウラはその場から逃げようと走り出す。
だが、まともな物も食べず労働に明け暮れる幼い少女に、そこから逃げ延びるだけの力があるはずもなかった。
「逃げるとは益々怪しい」
「これだから鼠は……」
呆れたような言葉が聞こえたと思うと、アウラは乱暴に引き戻され、そのまま地面に投げ出される。
「…あ、ぐう……っ」
倒れた瞬間に歯で口の中を切ったのか、血の味が広がった。
地面に転がるアウラを取り囲み、貴族達は含み笑いを漏らす。逃げ場はない── アウラはぎゅっとその目を閉じた。
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