永久楽土
第一部 闇(くら)き導き神の祈り
極彩の庭(1)
あらゆる規律が厳しいザイン=エルダの中心であるだけ、王宮は大抵喧騒から切り離された静寂に包まれている。
夕暮れ時ともなれば更に静けさは増し、使用人達が住まう北の宮と呼ばれる場所以外は、ひっそりと人気すら感じさせなくなるのだった。
── その、静寂に包まれた場所の一つで。
「最近の王妃の行いは、限度を超えています」
凛と、感情を抑えているが故に硬質な女性の声が静寂を退けた。
ただでさえ薄暗い時分だというのに、その部屋には灯りとなるものが何一つなく、彼女の影だけがかろうじて窓辺から射す光にうっすらと浮かび上がる。
背筋を真っ直ぐに正し地面に直接座るその姿は、見る者が見れば、遥か南方の異国における下位の者が高位の者に対するそれだとわかる。
彼女がザイン=エルダの生まれではない事が、それだけでも窺い知れた。
「先日も庭で作業していた少年を一人、その場で処刑し…罪のない者の命を奪う行為を今までに何度重ねてきた事か。仮にもこのザイン=エルダにおいて、第三位の位に座する方の行いではありません」
夕闇に沈む室内に、彼女の声はよく通る。
声自体は低過ぎず高過ぎず、耳障りの良いものだったが、内容と言えばこれ以上にないくらいに過激だった。
その訴えと視線を受けとめる人物は、部屋の奥…蟠(わだかま)る闇の中でくすり、と小さな笑い声を漏らす。
「…ナナイ。口が過ぎるよ」
返る声は若い。透明感のある少年のものだ。
そこにあるのは決してばかにするようなものでなく、昂ぶった彼女の感情を和らげようとする心遣いが込められていた。
が── 今まで抑え続けていた激情はそう簡単には鎮火しない。彼女は口早に自らの意見を述べる。
「構うものですか。あの方が与えられた位に相応しくない事は、明白な事実。不敬罪でわたしを殺したければ殺せばいいんです。その代わり、簡単には死んでやりませんが」
少年の忠告に、声の主── ナナイは更に語調を強める。
やれるものならやってみるがいい。そんな何処となく投げ遣りな感じさえ受ける言葉だったが、彼女は真剣そのものだった。
「…シディン様。わたしにはどうしても許す事は出来ません。あんな…自分で自分の身すら守れない子供が、すぐそこで殺されているのに手も出せないなんて……!」
「ナナイ…君の気持ちはわかる」
次第に感情的になるナナイの言葉に、シディンと呼ばれたその部屋の主は、やはり荒れる感情を宥めるような穏やかな声で受け答える。
その言葉には何処となく自嘲めいたものが漂っていたが、自身の感情の昂ぶりに囚われているナナイはその事に気付かなかった。
「では……!」
何処か期待の篭ったナナイの声に、けれど彼は淡々と彼女の希望を否定する言葉を重ねた。
「でも…駄目だ。私が何かすれば、逆にあの人は益々残虐の限りを尽くすだろうからね」
「…それは……」
シディンの言葉にはナナイの興奮を冷ます効果があった。
『益々残虐の限りを尽くす』── その結果が現実になり得る事を、事実として知っていたからだ。
そう…今までに何度か、彼女の主は王妃の、その非道の行いに対して意見をしてきていた。
けれど、その言葉はしばらく彼女の行いを留める程度の効力しか持たず、半月もする頃にはまた何処かで血が流される…その繰り返し。
「ですが…他に、どんな手があると言うのですか」
先程までの勢いなどなかったかのように呟く。
ナナイ自身は他国民の身ではあるものの奴隷の身分ではない。
しかし、それでも決して高い身分ではない。この身分の上下に厳しいザイン=エルダで、それなりに辛酸を舐めてきた記憶が甦る。
「あの女が王妃の座にいる限り、わたし達は死の恐怖から逃れる事が出来ない。あの、人を人だと思わない女がいる限り──!」
「ナナイ……」
普段ならば主人の困惑に気付き、それ以上の発言は控えるナナイだったが、今日は止められそうになかった。
見て、しまったのだ。
あの不運な少年が、王妃とその取り巻きによって幼い命を奪われたその現場を。
あれから数日。
何度も何度も、その光景はナナイの脳裏に甦り、彼女を苦しめる。
鐘が鳴る度に、周囲に散ったあの鮮やかな赤と、少年の骸をまるで汚物であるかのように見ていたいくつもの目を思い出す。
…自分が止められなかった。
「お願いです、シディン様! わたし達を…わたし達の仲間を助けて下さい。この王宮には、貴方以外に縋れる方はいないんです……!」
「…ナナイ……」
「貴方が御決断なさるのなら、このナナイだけでなく、シディン様を慕う者達全てが従います。だから……!」
そしてナナイは今までずっと心の内だけに留めていた言葉── 彼に対して禁句である言葉を口にしていた。
「どうか…── 現国王と王妃を廃し、御即位を……!」+ + +
「…うわあ……!」
サマナに教えられた通りに回廊を抜けると、開けた視界いっぱいに色彩が広がった。
秋だというのに、そこには春や夏にしか咲かないような極彩の花々が咲き誇っていたのだ。
それはここにいたるまでの道を細かく仕切る事で外気の侵入を減らし、地面を暖めたり、出来るだけ長く陽光が当たるよう工夫を凝らすといった、正に血の滲むような努力を行った結果だったが、アウラにそれがわかるはずもない。
さながら楽園にでも迷い込んだ気持ちになって、しばらくその場から動けないまま美しい花々に見入っていた。
今まで草むしりをしてきた場所でも庭園は見てきたが、それとはまったく規模も次元も違うものである事はアウラにもわかった。
(…きれい……)
もし本当に存在するというのなら、死んだ魂が迎えられるという花園がこんな感じかもしれない。それ程に現実離れした美しさだった。
葉の緑を基調として、黄、橙、桃、白などの淡い色調の花々が散らばり、その要所要所には鮮やかな赤い花が集められている。
明らかに意図的な配置だったが、その不自然ささえ払拭させる見事な出来映えだった。ふと思いついて見まわしてみると、案の定、目に付く雑草など存在しない。
(…こんな所で、何をしたらいいんだろう?)
アウラに出来る事は雑草を取り除く事くらいだ。
でもそんなものが見当たらないとなると、する事が何もなくなってしまう。アウラは途方に暮れてしまった。
「どうしよう……」
水撒きや咲き終わった花を摘み取るといった仕事がある事は知っているが、どうすればいいのかまでは教わっていない。
これだけ見事な庭園なのだ、勝手な事をして良いはずもない。アウラは思わず小さくため息をついていた。
(やっぱりサマナにどんな事をすればいいのか、聞けば良かった)
サマナに話を持ちかけられた時に疑問に思ったのだ。
普段でもアウラとサマナでは与えられた仕事は当然違っていたはずなのに、アウラでその代わりが本当に務まるのかどうか、と──。
サマナは特に気にした様子もなかったけれど、正直不安だったのだ。失敗して怒られる事はいつもの事だけれど、そうされたい訳ではない。
他に同じように仕事を申し付けられた者がいないかと探すものの、目に付く所にいる様子はなく、アウラはさらに落胆した。
これだけ広い場所なら、他にも当然作業を申し付けられた人がいるだろうと微かな希望を抱いていたからだ。
(…どうしたらいいのかな…何もしないでいたら、やっぱり駄目だよね……)
これだけの庭園だ、通りかかる人間がいないはずもない。
そこに何もしないで突っ立っている姿などを見られようものなら── 想像するだけでも怖い。
(何か…何か、仕事……)
心許なさも手伝って、アウラは周囲を見回して自分にでも出来そうな事がないか探した。
だが、予想通りと言うべきか、完璧に整えられた庭園はアウラの手など必要のない姿でそこにあり、益々アウラを途方に暮れさせるだけだ。
このまま帰ってしまおうか、そんな風にアウラが思った…その時。
何処からか複数の人間の笑い声がアウラの耳朶を打った。
いかにも和やかな談笑といった感じのそれは、庭の奥の方から聞こえてくる。ふとそちらへ目を向ければ、庭の奥には高く聳え立つ建物が見えた。
様式などはアウラ達が生活する北の宮とほぼ同じながら、何処か華やかな空気を感じさせる。── そここそが王妃の住まう場所であり、南の庭と対になる南の宮と呼ばれる場所だった。
もしそれを知っていたら、アウラももっと慎重に動いただろう。けれどアウラは事実を知らず、そして年相応の好奇心を持っていた。
その声が、この王宮に来て久しぶりに聞く楽しそうな声だったからかもしれない。
アウラは誘われるように声のする方へと足を向けた。