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 その世界は、選ばれた者の《生命》と《祈り》で守られていた。
 彼等はその背に選ばれた証である翼を持ち、生後一年で成人する。その後、月にある《聖殿》へ昇り、死の間際まで夢を紡ぎ続ける。
 彼等が地上に残した《片翼》の幸福を祈りながら。

 彼等は「翼を持つ者」── エフェ=メンタール。
 月に抱かれ、夢に住む、世界を守護する高貴なる存在……。

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 生まれて初めてみた星空は本当に綺麗で、ファムルーはぽかんと口を開けてしばらく何も言えなかった。
 代わりのように、その小さな背に可愛らしく生えている、やっぱり小さな小さな翼が、その素直な驚きを表すかのようにぱたぱたと羽ばたく。
 ファムルーが生まれたのが秋の終わり頃だったので、今夜空を彩るのは冬の星々だ。他の季節の星は知らないけれど、今見ている星がこんなに綺麗なのはきっと凍っているからだ、とファムルーは思った。
 冴え冴えと輝く星は、触れるととても冷たそうだったので。
 その星が散りばめられた贅沢な天幕に、それ以上に冷たく輝く銀盤が縫い付けられている。
 月だ。
 あまりに晧々と光るものだから、ファムルーは思わず少し目を細めた。
「…眩しいのですか?」
 優しい声が降ってきて、ようやくファムルーは大きく一つ瞬きをすると、声の主にその目を向けた。
 身長差があるから、ほとんど見上げるような格好になる。ファムルーを、こちらは逆に見下ろす瞳は、声以上に優しくて安心する。
「…あれ、つき?」
 冷え切った大気に凍えないようにと、温かな毛で編まれた手袋に包まれた手で月を示すと、黒髪に黒い瞳の闇に溶けて消えてしまいそうな青年はそうですよ、と肯定してくれた。
 もう片方の手を、彼の大きくて暖かい手が握ってくれているので、あまり寒さは感じなかったけれど、月があまりに大きく吸い込まれるように美しくて、ファムルーは彼に抱き上げてくれるようにせがんだ。
 何だか、とても怖いように思えたから──。
 青年は軽々とファムルーを抱き上げる。二、三歳程のファムルーは青年の腕には軽く、すっぽりと収まった。
 否── たとえファムルーが成人間近の姿であっても、きっと人の何倍も軽いだろう。
 何故ならファムルーは「翼を持つ者」── エフェ=メンタールなのだから。
 元々、星の重力の束縛から自由である彼等が、幼児以上の重さになろうはずもない。
 今はまだその象徴たる翼も小さく、普通の子供と何ら変わりがないのだとしても、成長するにつれてすぐに自由に空を駆ける程になるだろう。
 その頃になれば、もはや青年が抱き上げるなんて到底有り得ない事だったが、きっと羽毛のように軽いに違いなかった。
 青年の腕に抱きかかえられ、ファムルーは思わず歓声をあげる。
 彼と同じ目の高さは、今のファムルーにはまだ珍しいものだし、触れ合う人の温もりが、何だか嬉しかったのだ。
 エフェ=メンタールの時間は、只人に過ぎない青年のものとはまったく違う。
 青年が一つ年を取る頃、ファムルーは成人し、天に浮ぶ月へと昇る。彼等が今見ている、あの月に。
 ファムルーの身の回りの世話は実にたくさんの女官によって行われていて、その御蔭でファムルーは言葉を覚えるよりも先に、エフェ=メンタールである自覚と意識を植え付けられていた。

 アナタサマハ・えふぇ=めんたーる
 コウキナル・オカタ
 スコヤカニ・オソダチナサレマセ
 イツカ・ツキヘノボル・ソノヒノタメニ

 繰り返し繰り返し語りかけられた言葉を、無垢な心は受け止めた。月へ昇る事が当然だと思う程に──。
「あそこに、いくの?」
 月を見ながら尋ねる。吐き出した息が白く染まって、何だか愉快な気持ちになった。
 そうですよ、と青年がまた肯定する。
 彼はファムルーが物心がつき、自身の足で動き回り始めた頃に女官達によって付けられた。
 万が一の際の護衛であり、好奇心旺盛な子供の遊び相手であり── ファムルーにとっては、一番身近な存在。
 引き合わされてまだ十日に満たないけれど、すっかりファムルーは彼に心を許していた。
「あなた様は、いつかご自身の《片翼》を見出し…あの月へ行くのですよ」
 淡々とした丁寧な言葉は女官達とも共通事項なのに、ファムルーは彼の言葉はとても好きだった。同じ事を言っていても、そう思う。
 「声美しき者」── リリュ=メンタールの子守唄よりも、彼の静かな声の方が安心出来た。
 生まれてすぐに実の両親から引き離され、父も母も知らずに育つエフェ=メンタール。生後一年で成人してしまう彼等にも、愛情を求める感情は存在する。
 だからファムルーは、青年に会った事もない父親の幻想を重ねていたのかもしれなかった。
「…でぃも、いっしょ?」
 だったらいいのに、と思いながら尋ねると、青年は微苦笑を浮かべた。
「いいえ…私は行けません。あなた様のように翼を持っていませんから」
 そう、背に翼を持つのはエフェ=メンタールだけ。
 ファムルーも心の底ではわかっていたけれど、何故だかその答えがとても悲しくて、青年にしがみ付いた。
「ファムルー様?」
「…や。でぃも、いくのー!」
 そんな我が儘を言ったのは、きっと生まれて初めてだった。
 女官達は理想のエフェ=メンタールを育てようと、日夜ファムルーに淑女たる教育を施していたし、ファムルーも女官達には困らせるような事を言ってはならないように思っていたから。
 対する青年は、困惑したのか途方に暮れたのか、しばらく黙り込んでしまう。困らせたかった訳でないファムルーは、その反応に泣きたい気分になった。
 青年に嫌われるのは、とても悲しいように思えて。
「…ファムルー様」
 けれど、ファムルーの目から涙が零れる前に、青年の口から普段の優しい声が零れてファムルーを安心させた。
「なあに?」
 しがみ付いていた身体を離し、ファムルーは青年の顔を視界に入れた。
 やっぱりその目は優しくて、怒っている様子はない。青年は少しだけ淋しそうに微笑んで、ファムルーに言う。
「私はあなた様と共に行く事は出来ません。ですが…私はあなた様が月に昇った後も、毎晩ここから月に向かって祈りましょう。あなたが幸せな夢を紡げるように」
「……?」
「エフェ=メンタールの祈りには程遠いですが、祈りはその祈る先に辿り着ける力があるのだそうです。私の身体は共には行けませんが、心はあなたの元へ行きますよ」
「ほんとう?」
「ええ、本当です」
 …それは青年の本心からのものだったのか、それとも幼い主人を慰める為に青年がついた嘘だったのか。
 けれどもその言葉はファムルーには嬉しいものだった。
 月に昇り、この世界を守る為に夢を紡ぐのがエフェ=メンタールに課せられた使命。幼いなりにそれはわかっていたけれど、やっぱり何だか怖れもあった。
 でも、青年が一緒なら大丈夫。そんな風にファムルーには思えた。


 青年が月へと行けない理由が別にある事を、ファムルーが知るのはそれから半年程後の事だった。

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