気がつくと、すっかり空は夕暮れの色に染まっていた。
ちょっと翼を休めようと、高い木の枝に腰を降ろして、そのまま転寝をしていたらしい。
「帰らなきゃ……」
結局、今日も見つからなかったけれど、日が落ちてしまう前に戻らなくてはならない。
地上へと降りるようになって、ずっと言い含められていた事だ。
その理由は知らないけれど、夜になってしまったら地上は完全に闇に閉ざされてしまう。そうなったら《片翼》も捜せもしない。
でも、何だか戻りたくはなかった。戻ればディスパーと顔を合わせる。きっと困らせたから謝らなくてはならないけれど、でも何だか謝ってしまうのは嫌だった。
彼は笑って許すに決まっている。あの優しい大好きな笑顔と声で、ファムルーの事を許してしまう。
それが嫌だった。嫌われたい訳じゃないのだし、どうしてそう思うのかファムルーにはわからない。でも、そう思う。
…ちょっと眠っている間に、嫌な夢を見たからかもしれない。あの、春先の彼がどうして《片翼》になれないのか知った時の。
『ファムルー様もそろそろですわね』
日に日に育つファムルーに新しく服を作るべく、あちらこちらの寸法を測っている時だった。
ある時女官の一人が言い、そこにいた女官達が本当に、とにこにこ嬉しそうだったので尋ねたのだ。
『何がそろそろなの?』
すると、女官はファムルーの背に育った翼を眺めて、《片翼》の事を話してくれた。
以前にも聞いてはいたけれど、実際どういうものかまでは知らなかったので、聞いていて何だかどきどきした。
けれどまだ何も知らないファムルーが、無邪気にディスパーの名を出して彼がいいと言った時、女官達は眉を顰めていけません、と否定したのだ。
そんな事は初めてで、訳がわからなかった。どうして駄目なのか、理由が思いつけなかった。
女官達はファムルーの想いを、最も身近な異性への憧れ程度にしか思っていなかったからか、彼がどうして《片翼》になれないのか事細かに教えてくれた。
── 曰く。
『あの者は、罪人なのです。エフェ=メンタールの祈りを受ける価値もないのですよ。だからこそ、エフェ=メンタールをお守りするのに役立つのですが』
…その時の衝撃は、今思い出しても涙が出そうだ。
あの優しいディスパーが罪人だという事、そしてそれ故にファムルーの《片翼》にはならない事。
あまりに悲しくてそのまま部屋に閉じこもって泣いていたから、そう言えば彼がどのような罪を犯したのかまでは聞いていない。
(…でも、聞きたくもない)
彼の罪を知って、それでも変わらずに想えるかと問われれば、もちろんと胸を張って答える事ができるだろう。
あの後、騒動を聞きつけてやってきたディスパーが、『私がいなくなればここから出て来て下さいますか?』と扉越しに言った時、その声がとても淋しそうに聞こえて慌てて姿を見せた。
あの時だ。自分が彼が罪人であろうと、好きなのだと自覚したのは。
だから…聞かずにいようと思った。自分は変わらないと思うけれど、それによってディスパーの自分に対しての態度が変わってしまうのではないか、突然いなくなってしまうのではないか、と不安に感じたから。
(いっそ、時間が止まってしまったらいいのに)
そんな事を考える。
視線を向けた先には、宵闇に浮び始める月の姿があった。昔はあんな綺麗な月へ行くのかと心が躍ったものだけれど、今ではただ憎らしい。
せめてあんな遠くではなくて、地上の何処かに聖殿があれば良かった。そうすれば、ディスパーの側にはいられなくても、彼と同じ空の下で生きてゆけるのに。エフェ=メンタールであるファムルーには、そんな事すら許されない。
── エフェ=メンタールでなかったなら。
そんな風にも、もちろん考えた。それでも、エフェ=メンタールであったからこそ、ファムルーはディスパーと出会えたのだ。そうでなかったら、出会えたかも怪しい。
もしくは、もっと早く生まれていたら。ディスパーが罪を犯す前に見出せていたら、彼を《片翼》とする事が出来ただろうか?
…そういう事ばかり、つい考えてしまう。今はそれよりも一刻も早く《片翼》を見出す事が大事なはずなのに。
結局行き着くのは、彼以外は選べないという事。まるで刷り込まれたかのように、彼以外が《片翼》になるなんて考えられないというのが本音だった。
…決して、彼を選ぶ事は出来ないのに──。
堂々巡りの物思いを打ち切って、ファムルーは空へ舞い上がった。もう空の端は夜の色に染まっている。どんなに嫌でも戻らなくてはならなかった。
結局、この地上でファムルーが帰れる場所は浄育宮しかないのだ。この背に翼がある限り、人に紛れて地上に生きる事も出来はしない。
ファムルーは一度大きく羽ばたくと、迷いを断つように勢いよく闇が広がる方角へと翼を進めた──。
+ + +
もう日没だと言うのに、ファムルーが戻ってこない。そのせいで、浄育宮は右往左往の大騒ぎになっていた。
女官達は最後に彼女と一緒だったディスパーに詰め寄り、声高に責め立てる。
実際、彼に非があるかどうかはどうでも良く、彼女達は自身の不安の捌け口が欲しかっただけなのだ。
それがわかるから、彼は黙ってその声を受け止めた。
それに…原因が自分にあるような気がしないでもなかったので。
(…ファムルー様……)
彼の後をちょろちょろと付き纏っていた幼い少女。
エフェ=メンタールにしては感情豊かなその表情。成長してからもその朗らかさは変わりなかった。
その彼女があれ程に泣き、彼を詰ったのはきっと彼に何か非があったからに違いない。どのような非なのかは、ファムルー自身に尋ねなければはっきりとはわからないが。
月へと昇る日が近付くにつれて、彼女の顔から笑顔が消えたのを彼は知っている。女官が話し掛ければ微笑んで答えるけれど、それは明らかに作り物だとわかる笑顔だった。
ずっと側近くで彼女を見守ってきた彼にはわかってしまう。
きっと、《片翼》が何時までも見つからない事を気に病んでいるのだと思った。
だから何とか慰めたくて焦る事はないと言ったものの、本当はファムルーが《片翼》を見出さなければいいとすら思っていた事は事実だった。
…口が裂けても絶対に認める事は出来ないけれど。
この罪を負った身で、至高の者に想いを寄せるなどあってはならない事。それだけで罪の上塗りになるだろう。
(…やはりあの時、離れてしまえば良かった)
彼がアジェ=メンタールだと彼女が知ってしまった時に。
あの時から何かと理由をつけて彼から距離を置いたけれど、確かにあの時からファムルーの彼に対する目が何処か変わったような気がしてならなかった。
何がどう変わったのか、彼自身よくわからない。ただの気のせいなのかもしれない。けれどそう思えた。
女官達がたまに見せる蔑むようなそれとは違う。けれど、それまでの無心に好意を寄せてくれた目とは違う。
それが少し淋しく思ったけれど、彼がいなくては嫌だと言ってくれた、あの言葉は本物だと思いたかった。
そう── 離れられなかったのは、彼の方なのだ。
一度は死を覚悟したこの身なのに、今はもう彼女の為以外には死ねないだろう。せめて、彼女が無事に月へと昇るのを見届けるまでは。
女官達が彼を責めるのに飽きてきた頃合いを見計って、彼はその場から抜け出した。
もし彼女が戻ってくるなら、正面の入り口ではなく飛び出していった中庭のように思えたからだ。それに、夜の闇に沈んだこの宮殿を、ファムルーが見つけ出せるとは思えなかった。
彼は灯りとなる松明を用意し、庭の中程で火をつけたそれを持って立った。
空の上からこれを見つけ出せるかわからなかったが、せめて目印になればとそれだけしか思えなかったのだ。
幸運にも、彼は夜通し起きて動く事には慣れていた。まだ、アジェ=メンタールとなる前、彼はよく松明を片手に夜道を進んだものだ。
…もう、あれから三年にはなる。そう思うと、ディスパーは不思議な気持ちがした。
罪を犯したあの時、もう自分の心は死んでしまったとばかり思ったのに、今もこうして生きて、笑えて、誰かの事を想っている。
忘れがたい罪の記憶も、今は目を背けずに見つめる事が出来る。
その全ては、ファムルーが彼に与えてくれたもの。
(…どうか、無事に……)
祈りには、その祈る先に辿り着ける力があるのだと、かつて彼自身が語った事。
ならば今のこの祈りも彼女に届くといい。そうして、もし彼女が迷っているのなら導きとなるといいと思う。
空には、かつてファムルーと見上げた時のような見事な星空。そして今日も美しい月。
あの輝きにはとても敵わないけれど、彼の灯火が彼女の目に映る事を願わずにはいられなかった。