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(どうしよう)
 ファムルーは途方に暮れた。身体で覚えているとばかり思っていたのに、浄育宮らしき建物が見つからない。
 周囲の欝蒼とした木々に紛れてしまっているのか、それとも見落としてしまったのか。
 今更ながら、何故つまらない意地を張ったのだろうかと後悔する。
 どちらにせよ戻らなければならなかったのなら、何故もっと早く行動に出なかったんだろうか。
 …そんな事を思っても後の祭りだ。
 いっそ、何処かで夜が明けるのを待つべきだろうかとも考えた。けれど、今まで浄育宮で大事に育てられてきたファムルーは、その辺で野宿などする必要もない生活をずっと送っている。そんな彼女に、夜露を凌げる場所もなしにそのような事が出来ようはずもなかった。
(…どうしよう)
 引き返して、村々の民に助けを求めるべきだろうか。
 きっと彼等はエフェ=メンタールである彼女を追い返しはしないだろう。おそらく、最大限のもてなしをしようとするに違いなかった。
 でも、そうするのは何だか気がひける。ずっと、女官達だけに囲まれて育ったファムルーには見知らぬ人々の中に入るのは何だか怖いようにも思えた。
 秋の夜は、急激に冷える。
 すっかり身体は冷え切り、翼も疲れてきた。そのせいかわからないが、身体が何だか重い。
(ディスパー…助けて)
 まだ子供だった頃、そう願えば何時も彼が助けに来てくれた。
 飛べるようになってすぐ、夢中になって中庭の一番大きな木の天辺まで昇って── そしていざ降りようと下を見た瞬間、あまりに高くて身が竦んで動けなくなった事があった。
 あの時も、一番に彼が気付いてくれて、怯える彼女を優しく宥めてくれた。落ちても必ず自分が受け止めるから、と。
 でも今、ここに彼はいない。
 励ましてくれる言葉も、安心させてくれる眼差しも何処にも見えない。
(怖いよ……)
 こんなに、世界が広いなんて感じたのは生まれて初めてだった。
 何処までも闇が広がる。月はあんなに明るいのに、星はあんなに輝いているのに、何故こんなに地上は暗いのだろう。
 たった一人きりで、こんな所にはいたくなかった。
 でも、仮にファムルーが助けを求めた声が届いたとしても、彼にはどうする事も出来ないに違いない。彼には翼はないし、ここは浄育宮でもない。
 何処であるのかさえも、わからない。怖くて心細くて、涙が出そうだ。泣いたって何にもならないと思うから、必死に堪えてはいあるけれど、時間の問題だろう。
(怖い──!!)
 もう、前に進んでいいのか、引き返すべきなのかもわからない。
 宙で動けなくなったファムルーが、ついに涙を流しかけたその時だった。

 …サマ……

(え……?)

 …ふぁむるーサマ・ドウカ・ゴブジデ……

(…声?)
 確かに、微かながら声が聞こえたような気がした。それも、錯覚でなければ今ファムルーが一番側にいて欲しい人の。
(ディスパー?)
 慌てて周囲を見回す。眼下に広がるのは、当然ながら先程と変わらぬ夜の森。彼らしき姿など、何処にも見えはしない。
 けれど、空耳だと片付けてしまう事は出来なかった。
 たとえそれが限りなく幻に近いものであったとしても、彼の声が聞こえるのならそれだけで心が救われる。頑張ろうという気になれる。
 そうだ、ここで挫けてはいけない。浄育宮で、きっと彼はファムルーを待っている。
 一刻も早く戻って、彼を安心させなければ。そして── 謝らなければ。
 彼はこの空の下で、自分の無事を思い、祈ってくれているに違いないのだから──。
 ファムルーは気を奮い立たせ、声が聞こえてきた気がした方向へ身体を向けると、再び翼を広げて羽ばたいた。
 もう彼の声は聞こえなかったが、不思議と先程までの迷いは消えていた。
 黒々とした夜の森を眼下に見ながら、ファムルーは飛ぶ。
 銀の月光をその背の翼に受けて空を駆けるその姿は、もし地上から見る者がいれば、おそらく目を奪われたに違いないほど美しい。
 それはまさに、エフェ=メンタール── 「翼を持つ者」に相応しい姿だった。

+ + +

 どれ程飛んだ事だろう。
 ファムルーの目は、闇に瞬く弱々しい光を捉えた。
 闇ばかりが広がる中、その光は今にも紛れて見失ってしまいそうだったが、見間違いではないようだ。
(あれは)
 それを見出した事が、肉体的にも精神的にも疲労したファムルーにさらなる力を与えた。
 確信ではない。予感でもない。
 ただ、そうであればいいと思った。あの光の元に、自分が一番会いたい人がいるのだと──。
(ディスパー…!!)
 祈るような気持ちで、空を駆ける。少しずつ確かになってゆく光。それと同時に、闇に沈んだ見慣れた建物が見えてくる。
 ── 浄育宮だ。
 生まれた時から暮らしていて、一日も満たない時間しか離れていないのに、こんなに懐かしく慕わしいと思ったのは初めてだった。
 やがて、光の正体が中庭で誰かが持つ松明の灯りである事が知れる。そこに求める人の姿を見つけて、ファムルーはほとんど飛び掛る勢いで地上を目指した。
 地上で沈痛な面持ちで空を見上げていた青年の目が、彼女を見つけて大きく見開かれる。その唇が確かに彼女の名を紡いだのを、ファムルーは見逃さなかった。
「ディスパー!!」
 翼を畳むのももどかしく、彼に抱きつく。
 青年は驚き、慌てて松明を出来るだけ遠くに離した。
「…ファムルー様!危ないですよ!!」
「あ、ああ、ごめんなさい……」
 ようやく我に返り、ファムルーは慌てて身を離した。
 いくら何でも、松明を持っている人間に抱きつくなんて危険この上ない。それに、下手に自分が怪我しようものなら、彼が女官達に責められてしまう。
「あ、あの……」
 しかし、我に返ってしまうと、今度はまともに言葉が出て来ないのだった。確かに彼には言いたい事がたくさん、あったはずなのに。
 するとそれを見透かしたかのように、ディスパーは普段と同じ穏やかな笑顔を浮かべた。
「ご無事で何よりです、ファムルー様。…お帰りなさいませ」
「……」
 何だかその言葉で、これまでの心細さやら何やらが一気に押し寄せてきた。腰が砕けたようにペタリと座り込むんでしまう。
 そんなファムルーに驚いたようなディスパーの顔を見ながら、ファムルーはぽろぽろと涙を零した。
「こ…怖かった……っ」
 ようやく安心出来る場所に辿り着いたせいで、心の箍が外れてしまったのかもしれない。
 今日はよく泣く日だと、ファムルーは頭の片隅で思ったけれど、涙はどうにも止まりそうになかった。
「も…戻れないかと…思……っ」
「…ファムルー様……」
 座り込んでしまったファムルーを、ディスパーは困惑したような表情で見つめる。
 余計に困らせてしまったのかもしれない、そう思っていると、ディスパーは松明の火を消して地面に置き、ファムルーの元へ歩み寄ってきた。そしてそのまま、ファムルーの視線の高さに合わせるかのように膝をつく。
「一人で心細かったのですね」
「う、うん……」
「もう、大丈夫ですよ。あなた様はちゃんと戻ってこれたのです」
「うん……」
 あやすような言葉に、ファムルーは涙を零しながら、ただ頷く事しか出来なかった。まるで子供の頃みたいに。
 でも、昔とは違う事が一つ。ファムルーは腕を伸ばし、自分を覗き込むディスパーの首に回した。
「……!」
 先程とは別の意味で驚いて、ディスパーが息を飲む。
 咄嗟に声も出せなくなった彼に、ファムルーはしっかりと抱きつく。── 抱き締める。
「…私、ディスパーが好き」
 ついに口にした。自分の腕に感じる、彼の温もりは一年前の星空を見た時と同じ。感じるだけで嬉しくて、安心出来る。
「一人でいる時、ディスパーの事ばっかり考えてたの」
「…ファムルー…様……」
「私は…あなた以外の人はいらない」
 彼の目を真っ直ぐに見つめ、断言した。途方に暮れたような、彼の表情が胸に痛かったけれど、もう止められない。もう…譲れなかった。
 自分の《片翼》は、彼以外に考えられない。
「── なりません」
 やがて、ディスパーの口から零れたのは、弱い苦痛に満ちた言葉だった。
 半ば予想していた言葉だったのに、やはり彼本人から告げられると身を切られるように辛い一言だ。
 ディスパーは、まるで彼女の視線に耐えられない様子で目を反らす。
「…あなたも知っているでしょう。私は罪人…アジェ=メンタールなのです。あなたの祈りを受ける価値もない存在です」
「関係ないわ」
 彼の告白を、ファムルーは一言で否定した。ここで引き下がる訳にはゆかない。  
「あなたが罪人だろうと、何であろうと…私はあなたの事が好きなんだもの」
「…ファムルー様。それは違います。あなたはただ…一番身近にいた私を特別であるように思ってしまっただけです。私は…この世で最も高貴な…エフェ=メンタールであるあなたが想って下さるだけの人間ではないのです」
「…どうして? 私があなたを好きになる事がどうしていけない事なの? 一番身近だったから…特別に思って何がいけないの!」
 相手が罪人であろうとなかろうと、共に過ごした時間に偽りはなかったとファムルーは信じていた。
 一番側にいたから、というのは確かに理由の一つかもしれない。けれど、やはりこの気持ちを決定付けたのはそれだけではないのだ。
 しかし、ディスパーは痛みを堪えるように頭を振った。そして今まで誰も明らかにしなかった彼の罪を口にする。

「それは── 私が、人殺しだからです」

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