彼女は、彼の手が好きだとよく言っていた。
大きくて温かくて、とても安心出来るのだと。
…だから、自分の生命もその手で断って欲しいのだと、満足に話せなくなった口で彼女は告げた。
+ + +
「…私には、昔…結婚を約束した者がいました」
「……」
「もう、三年も前の話です。彼女は…死の病に罹っていました」
…それは半ば嘘だった。
病などではなく、寿命で死にかけていたと言うべきだろう。何も知らないファムルーにそう言う事に躊躇いを感じたので、そのように言ったけれども。
人が暮らすにはあまりに過酷な世界。
大気と大地に含まれた生命を縮める毒は、ゆっくりゆっくり時間をかけて人の寿命を削ってゆく。
身体があまり丈夫でない人間は、二十歳を前に衰弱し、そのまま死んでゆく事がほとんどであり、彼女もそういう者だっただけの事。
ただ彼女が他の者と違ったのは、自分の意識がある内に、最愛の者の手で最後を迎えたいと願った事だった。
「…その病は、人にこれ以上とない苦痛を与えるものでした。彼女は日毎夜毎に襲ってくる痛みに耐える事が出来ず、このままでは狂ってしまうと…そう言っていました」
オネガイ! モウ、コロシテ!!
イタイノ、クルシイノヨ!!
オネガイダカラ、モウ…オワラセテ……!!
「私は彼女を愛していた。だからこそ…最後まで生きていて欲しかった。でも、それは彼女を苦しめるだけなのだと気付いた時…私のこの手は……」
手をかけた首は、すっかり細くなっていた。
痩せこけた身体に似つかわしく、ほんの少し力を入れれば折れるのではないかと、そう思える程に。
彼女は苦痛に喘ぎながら、それでも口元に微笑を浮かべていた。
そして、最後の言葉を彼に遺した。
ありがとう…ごめんなさい……。
それは、願いを聞き届けてくれた彼への感謝の気持ちと愛情、そしてその結果、彼が辿る行く末に対する謝罪の言葉。
その言葉を聞いた後の事は、もうよく覚えていない……。
「…私は罪人です。アジェ=メンタールの中でも最も罪重き、殺人を行った者です。人の命を奪う事で汚れたこの身は、あなたには相応しくない……」
「……」
ついに過去の罪を告白した。今まで誰にも語らなかった、思い出すだけで痛みを伴う記憶を。
けれど、心の何処かが軽くなるのをディスパーは感じていた。
ファムルーは最後まで神妙な顔をして、彼を見つめていた。その吸い込まれるような瞳に、彼の姿が映っている事が何だか不思議に思える。
背に翼を持つ、至高の存在。彼にとって最も大切に想う人が彼を見ている。
そこには蔑むものも、哀しみも怒りもなかった。
やがて、ファムルーは一度瞬きすると、涙の気配の消えた瞳を彼に真っ直ぐ向けたまま、そっと微笑んだ。
「ファムルー、様……?」
思いがけない反応に、ディスパーの方が混乱する。そんな彼を余所に、ファムルーは口を開いた。
「ディスパー、あなたの何処が罪人なの?」
「…え?」
驚いて目を見開く彼に、ファムルーは静かな笑顔のままで言う。
「私には、あなたがやっぱりとても優しい人のようにしか思えないわ。確かにあなたは人の命を奪ったのかもしれない。でも、あなたの…大事な人の心は守られたと思うの。自分が罪人になってまでその願いを叶えてあげたのは…きっと間違いじゃなかったのよ」
「それは…綺麗事です。私が人を、彼女を殺した事は事実です。これは、優しさなんかじゃない……」
彼の手を受け入れた、彼女の死に顔が忘れられない。
二度と開かなくなった目も、二度と言葉を語らなかった唇も、その全てが今も心の奥底に焼きついたまま。
ファムルーを想えば想う程に、自分の罪深さを思い知るのだ。
彼女は翼を持つ者── すべての呪縛から解き放たれる、選ばれた者。
この呪われた大地の上で、かつて愛した人間をこの手で殺した苦しみを背負って生きる事が彼に課せられた罰ならば、甘んじて受けなければならないだろう。
救われて…よいはずがない。この命で贖っても足りない事を行った身で。
彼のそんな物思いを断ち切るように、ファムルーは言う。
「…ディスパー、あなたがそうなれないと言うのなら、私は《片翼》を得ずに月へ昇るわ」
その言葉に、ディスパーは思わずファムルーに目を向けた。
彼女の口調は静かで、ただ事実を述べているようだった。けれど、それは彼女の存在意義すらも否定する。
エフェ=メンタールは、《片翼》なしには祈りをこの地へ届かせる事が出来ないといわれているのだから──。
「…そんな……!!」
とてもそんな事を許容する事が出来ず、思わず彼が否定の言葉を口走るのを、ファムルーはやんわりと遮った。
「ディスパー。── 私は…エフェ=メンタールなの」
真っ直ぐに彼に向けられる、青い瞳には強い意志の光。彼女は自身の誇りを失ってはいなかった。
「翼を持つ者」である事を、ファムルーは初めて本当に誇らしく思えた。
今までの女官達によって植え付けられたエフェ=メンタールとしての自覚と義務感から解き放たれ、彼女は自分のすべき事をようやく見つけたのだ。
「自分の大切な人の幸せを願い、祈る事がこの世界へ生まれた来た意味なら…私は、あなたの幸せを祈る為に生まれてきたのよ」
そう、たとえそれが決して届かない一方通行のものであったとしても。
彼の為に祈り、彼の為に夢を紡ぐ。
昔、彼は言っていた。祈りには…その祈る先に辿り着ける力があるのだと──。
「ディスパー…あなたの苦しみが、出来る限り軽くなるように。あなたがたとえ《片翼》でなくてもいいの。私があなたの為に祈りたいのだもの。この気持ちが間違っているのなら、私にはエフェ=メンタールとして認められなくても構わないわ」
「ファムルー様……」
「一つだけ教えて? …ディスパーは、私の事…少しは好き?」
心の奥まで見通すような、深い瞳に自分が映っている。その瞳にどうして嘘がつけるだろう。
── 最初から拒み通す事など出来るはずもなかった。彼は彼女に出会った時から、すでに救われていたのだから。
「嫌いな訳が、ないでしょう」
それでも、そう答える事が精一杯だった。
この期に及んで往生際が悪いとは思う。けれど彼女を愛しく思う、その気持ちを認めてしまったら、彼女自身をも彼の罪に引き摺りこんでしまう気がするのだ。
ファムルーは彼の言葉に満足したのか、その目を嬉しそうに細めた。その視線に何だか落ち着けずに、ディスパーは思わずまた目を反らせてしまう。
「けれど…ファムルー様、まだ時間はあります。ですから……」
「わかってるわ。女官達の手前、《片翼》はいらないなんて言えないものね。最後まで探しはするわよ」
言い訳のように紡がれた彼の諭すような言葉に、彼女はくすくすと笑いながら頷きはする。しかし、その言葉はそのまま「でも」という逆説に繋がった。
「でも…私の気持ちは変わらないから」
「ファムルー様!」
焦るディスパーの言葉を聞きながら、先に立って宮殿に向かって歩き出す。
彼が慌てて追いかけてくる事が嬉しい。益々愉快な気持ちになって、ファムルーは笑い声を零す。
ファムルーは知っているのだ。彼が罪人の身である限り、簡単に好意を口にしないだろう事を。言葉にはしない代わりに、彼の目とそして態度が口程に物を言う事を。
物心ついてからずっと、側で彼を見てきたから知っている。
『嫌いな訳が、ないでしょう』
そう言った時の彼の目は、今まで彼が自分に向けたどんな目とも違っていた。何処か迷ったような、困ったような…けれど限りなく優しい瞳。
きっと彼が命を絶ったかつての恋人にも、こんな目を向けたのだと思うと、少し妬けたけれども。
それだけで十分だと思った。
それだけで── きっと、月で彼を想う夢を紡ぐ事が出来る。たとえ、それが世界中の誰からも許されない事であろうとも。
彼に嫌われていない── 少なくとも好意を持って貰えているという、その事実だけで…こんなにも幸せな気持ちになれるのだから。