翼の末裔
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…地上に降りた月の民は、次々に死んで行きました。
元々、月という穢れと関わりのない場所で暮らしていた彼等にとって、地上の毒は命を縮めるものでしかなかったのです。
月の民には、地上の民にはない力がありました。
それは、祈りの力。
彼等は祈る事で、『癒し』という奇跡を起こすのでした。
しかし、その癒しの力でもっても、地上の毒はなかなか清まらず、そして彼等の力にも限界が存在したのです。
祈りとは── 受け止める対象があって初めて、奇跡を起こすもの。
月の民の祈りに対して、その対象となる地上は、あまりに広く、そして彼等の祈りをなかなか受け止めようとはしなかったのです。
気がつくと、月の民はほんの僅かな数だけになっていました。
地上の民は月の民の献身を感謝しつつ、彼等に月へと戻るように説得を始めました。
確かに地上の毒が少しでも薄まれば、どんなにか彼等は助かる事でしょう。しかし、だからといって同胞とも言える月の民を犠牲にする事は、とても出来る事ではありませんでした。
月の民は考えました。
地上の民の言葉通り、このままでは彼等の方が滅んでしまう。しかし、ここで清める事をやめてしまったら、毒はまた再び地上の民を苦しめる。
── そして、月の民は決断したのです。
彼等は地上の民との間に子をもうけ、自らの祈りを受け止める存在を地上に残す事にしました。
地上の民の血を受けた月の民の子は、月の民よりも毒に強く、そして同時に背の翼と祈りの力を受け継いでいました。
月の民は月から我が子と、我が夫もしくは我が妻を思い、祈りを紡ぐ。そして、月の民の子はその祈りを受け止めて、《癒し》の奇跡を起こしたのです。
地上の毒はなかなか薄まりはしませんでしたが、それでも少しずつ少しずつ、清められて行きました。
月の民の子はまた子を産み、世界中にその子孫は散らばって行きました。
そして長い長い年月が経ち── やがて月の民の血は地上の民の中へと紛れ、翼を背に持つ者は自然と生まれなくなって行ったのです……。+ + +
何だか泣きそうな顔だ、と思ったものの、目の前の少女はそれでも涙を流しはしなかった。何処か挑むような目で、じっとリュナンの目を見上げてくる。
今まで、彼の目をそうやって真っ直ぐに見つめてきた人間はいなかった。
夜、輝く瞳は人外の証。不気味がられる事はあっても、こんな風に真正面から睨みつけられる事はなかったのだ。
だからかもしれない。
この、初対面の少女に興味を抱いたのは……。
「…何故、死ぬ事があなたを、あなたたるものにするのですか?」
真っ直ぐに見上げる瞳は、零れそうに大きい。濡れて輝くそれは、夜の闇と同じ色。
肩の辺りで切りそろえられた髪ははっきりと色こそわからないものの、まっすぐに流れて曲一つない。
白っぽい服に、同色のショールを肩にかけ、荷物という荷物は見当たらない。
これで家出(本人は違うと言っていたが、結局はそういう事だろう)してきた辺り、いかに世間知らずかわかろうと言うものだった。
…事実、彼の異常さを目の当たりにして、なおかつそんな事を尋ねてくる辺りが、物を知らない証明でもあろう。
「生きてこそ、あなたはあなたであれるのではないのですか?」
紡がれる言葉はまったくもって正論だった。
それは、リュナンとてそう思う事。けれど、彼の場合はその正論が通じない。
── 何故なら、リュナンはこの世界においては『人』であっても、『人』として認められていないのだから。
「オレは、人じゃないんだよ。だからその理屈は当てはまらない」
事実を口にすると、少女はその目を丸くした。そして、からかわれたとでも思ったのか、いっそう力のこもった視線をぶつけてくる。
「あなたはどう見ても、人ではないですか!」
やがて少女の口から飛び出したのは、あまりにも常識を無視した言葉だった。
…普通の人間は、夜に目が光ったりしないという事を、知らないわけではないだろうに。
その食って掛かるような言葉が何だか愉快で、彼は知らず笑みを浮かべていた。笑う事など、すっかり忘れていたと思っていたのに、こうして笑える自分が不思議だった。
「人の姿はしているが、外見だけだ。…あんた、《獣宿》って言葉を知ってるか?」
「獣…宿? いいえ、それは一体何の事です?」
もしや、とは思ったものの、その予想通りの返答に、リュナンも流石に考えた。
いくら何でも、物を知らなすぎる。実際の獣宿持ちを見た事はなくても、言葉くらいは知っているはずだ…普通なら。
知らない振りでもしているのかとも思ったが、そのようには感じられないし、そしてそんな必要は何処にもない。
明らかに異常なリュナンを全く恐れない事といい、一体どういう育てられ方をしたというのだろう。
「…あんた、一体何者だ?」
「え? 何者と言われましても……あ、名前でしたら、ティアーレと言いますけど」
質問の答えをはぐらかした訳でもないのだろうが、その答えは益々リュナンの疑問を募らせるものだった。
ティアーレと名乗ったこの少女は、何処かおかしい。
現実の厳しさすら、ろくに知らないで育ったかのように、不自然なほどに純真で無知すぎるのだ。
これがもし都のような場所であれば、貴族か裕福な商人辺りの娘で通るのだろうが、今二人がいるのは辺境も辺境、しかも山奥である。
生活は貧困を極めているに違いないし、そしてその厳しさ故に、その価値観は必要以上に現実的なもののはずだ。
…それなのに。
「…普通の人間は、《獣宿》という言葉を聞くだけで、祓いの呪(まじな)いをするもんだぞ」
無意識の内にティアーレへの不信が言葉に表れる。
するとそれが伝わったのか、ティアーレは途端におろおろとうろたえ、困ったような目を彼を向けるのだった。
「あ、あの…わたし、変、ですか?」
やがてティアーレが口にした言葉は、あまりにも自分というものを自覚していなくて、かえって毒気を抜かれるものだった。
「す、済みません…田舎育ちですし、わたしは何処か、人より疎いところがあるので…その……っ」
「……」
田舎育ちと口で言いながら、その丁寧な口調といい、素直過ぎる感情表現といい、とても田舎で育った人間には見えない。
たとえ村長の娘であろうと、こういう風には育たないだろう。
それこそ── ずっと、世俗と隔離された場所で、限られた知識だけを与えて育てるような事をしない限りは。
(…それとも、そういう育てられ方をしたっていうのか?)
そう思った瞬間に、一つの記憶が甦った。
── 窓一つない、石の壁。蝋燭(ろうそく)の薄明かり、浮かび上がる狭い部屋。
冬になると底冷えがひどく、夏は空気の通りが悪かった。…それでも、願えばいつでも暖かな腕が、暖かな声が差し伸べられた、場所。
(思い出すな。もう、…覚えていたってしょうがないんだから)
振り払うように心の中で呟き、そして不安そうに見上げるティアーレに再び目を向けた。
もう一度確認するように見てみても、やはり見た目はどうという事はない、普通の少女だ。何処にも異質な徴候は見られない。
…自分とは違うのだ。
(…まあいい。どういう事情があろうと、オレの知った事じゃない)
そう── ティアーレの手助けをするのは、単に成り行きだ。
交換条件として口にした、『自分を死なせてくれるもの』についての情報など、実際は当てにもしていなかった。
今までずっと探してきた。それでも、見つからなかった── 自分が自分である内に死ねる場所。殺してくれる誰か。
十年近くの年月をかけて探し続けたそれが、そう簡単に得られるはずもない。
「…あの?」
困惑を隠さない声で我に帰り、リュナンはふう、と重い吐息を漏らす。そして生じた間を誤魔化すように、自分の名を口にした。
「オレは、リュナンだ」
「…! リュナンさんとおっしゃるんですね」
名乗ればやたらと嬉しそうな笑顔になる。この風変わりな少女のちょっとした冒険に付き合うくらい、大した手間にはならないだろう。
自身のいた村に戻りたくないと言うのなら、少し離れた別の村まで連れて行けばいい。
この様子なら、どうせそこまでの道中で根を上げるに決まっている。そうしたら、そこで別れればいいのだ。
(そう…それだけだ)
自分を恐れない瞳に、興味を抱いたからではない。その不可解さに興味を抱いたからでもない。
単なる── 気まぐれ。そう思った方が、きっと楽だ。
自分にとっても、おそらく彼女にとっても。
「…まだ、その分だと体力はあるよな?」
「ええ!」
リュナンが提示した条件を冗談だと思ったのか、それとも手助けしてくれるとわかったからだろうか、ティアーレの顔がぱっと輝いた。
その単純明快さに、リュナンは苦笑する。こんな調子じゃ、いつか悪党に騙されてひどい目に遭うに違いない。
…もっとも、自分も世間一般的な目で見れば、世間を騒がす悪党と何ら変わらないのだけれども。
「なら、着いて来い。こんな場所じゃすぐに見つかるし…それ以前にこんな所で寝たら、明日には身体中が痛んで動けやしないぞ」
「はい、リュナンさん」
「リュナン、だ。…『さん』付けは鬱陶しい」
「はい、リュナン!」
先に立って歩き始めたリュナンの後を、驚く程体重を感じさせない足音が続く。
静かな静かな夜の闇の中、二人の旅人はそれぞれの思惑を抱え、行く先の定まらない道のりを歩き始めたのだった。