翼の末裔
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とても暖かい何かを抱き締めて、ティアーレは夢の中にいた。
それはいつか見た、知らない誰かが嘆くそれと同じようであったし、違うようでもあった。
ただ、わかるのは自分の声はまだ、相手には届いていないのだということ。その事がとても淋しくて、心細くて、凍えるような気持ちになる。
気付いて欲しかった。自分の存在を知って欲しかった。── 自分の方を、見て欲しかった。
腕の中の温もりは、そんなティアーレを確かに暖め、慰めてくれるのだが、それが何なのかはわからない。
けれど、それが何か確かめる為に手放すのが惜しくて、ティアーレは益々その腕の中の温もりをしっかりと抱き締め──。
「…アーレ、ティアーレ! おい、起きろ!!」
「── え?」
…至近距離からの耳に馴染みのない男の声に驚いて目を開くと、そこには夜の闇のような真っ黒な髪と、金色を帯びた赤い瞳の青年がいて、ティアーレの眠気は一遍に吹き飛んだ。
一瞬、自分の置かれた状況がわからずに混乱に陥ったものの、ティアーレはすぐに自分を取り戻し、まずはその場で一番相応しいと思われる言葉を口にした。
「おはようございます、リュナン」
「……」
しかし、返ってきたのは朝の挨拶ではなく、心底呆れ果てた視線と表情だった。
出会ったのが夜の闇の中で、ずっと彼の夜光る目ばかりを見ていたせいか、表情がわかるだけで何だか居心地の悪さが倍増したような気がして、ティアーレは思わず視線を外してしまった。
朝、目が覚めたら「おはよう」と挨拶するのは、ひょっとして一般的な事ではなかったのだろうか、それとも何か別にリュナンを呆れさせるような事を自分は無意識にやってしまったのだろうか?
そんな事をぐるぐると考えていると、はあ、と疲れたようなため息がリュナンの方から聞こえてきた。
「…リュナン?」
おそるおそる顔を再び上げると、至近距離にいた青年は苛立たしげに頭を掻きながら、ぽつりと一言漏らした。
「お前…本当にどういう奴なんだ……?」
「え、あの……?」
「…わからないなら、いい。取りあえずどいてくれ…動けないだろうが」
「?」
何がわからないというのだろう、そう思ったのは一瞬のこと。
次の瞬間、彼の言葉の意味を理解したティアーレは即座に彼の言葉に従った。…その顔を、真っ赤にして。
「ご、ご、ごめんなさい!!」
「…いいけどな、別に」
やはり何処か呆れたような口調だったが、怒りのようなものはそこには感じられず、ティアーレはほっとした。
ほっとしたのだが…顔の火照りはすぐには戻らない。
(わたしったら…初対面も同然の、しかも男の人に…だ、抱きついて寝てたなんて……!!)
リュナンでなくても、呆れるだろう。いや、場合によってはとんでもない勘違いをされていた可能性だってある。
一応、年頃の娘として、それはあまりにもはしたない行為に違いなかった。
気をつけなければ、と思っていたのに、旅立った翌日にこれではあんまりと言うものである。
穴があったら入りたい気持ちでぎゅっと身を固めるティアーレを、リュナンはやれやれ、といった顔で見つめたが、ティアーレは気付かない。
恥ずかしくて恥ずかしくて、死にそうだった。
「…昨日の夜は、ちょっと冷えたからな。寒かったのか?」
やがてリュナンのそんな言葉が聞こえてきて、ティアーレはえ、と顔を上げる。
思い返してみたが、寒かったかと問われてもあまり覚えていなかった。
何しろ、あの後リュナンの導きの元、何処をどう歩いたのかもよくわからないままに歩いて、リュナンが手慣れた様子で落ち葉を集めて作ってくれた即席の寝床に横になった瞬間から、記憶が曖昧になっているのだ。
本当は旅慣れた様子のリュナンに色々と話を聞いてみたいと思っていたのだが、あんなに長時間歩き通しだったのは初めてだっただけに、疲労の方が強かった。
「寒くはなかったと思うのだけど…でも、そうだったのかも」
「…はっきりしねえな」
「そんな事言われても…覚えてないんですもの」
寒かった、という記憶がないという事は、寝て間もなく身体が冷え切る前にはもう、リュナンに抱きついていたのだろうか。
そう思うと益々顔の火照りはひどくなってしまった。
だがそう思う反面、じゃあリュナンは目を覚ますまで、ティアーレが抱きついている事に気付かなかったのだろうか、という疑問も頭をもたげた。
もたげたが── 面と向かって聞くのは何だか躊躇(ためら)われた。
何となく無意識にリュナンの瞳を見上げると、その思いに気付いたのか、リュナンは何処か憮然とした顔で言い放った。
「…まあ、オレもお前がいつから抱きついてきてたのか、気付かなかったけどな」
リュナンのその言葉はティアーレを少し安堵させたものの、リュナンにとってはそれは不名誉な事だったらしく、それきりその事は話題にはならなかった。
もっとも── それどころではない事態が、すぐそこまで来ていたからでもあったが。
「…人の声がする」
やがて居心地の悪い沈黙の後、ふと我に返ったようにリュナンが呟き、その場は緊張に支配された。
「声…まさか」
「二人…三人、四人…結構な数だな。ティアーレ、お前…一体どういう奴なんだ?」
言いながら立ちあがり、今までとは違う緊張に満ちた表情で、リュナンは口癖になりかけている質問をティアーレに尋ねる。
対するティアーレといえば、人の声など聞こえないばかりか、人数などわかるはずもなく、リュナンの耳の良さに驚くばかりだ。
「…追手が、もう……?」
夜が明けてどれだけの時間が過ぎたのか判断できないが、木々の間から見える空の様子からでは決して遅い時間ではなさそうだ。
という事は、ティアーレがいなくなった事は予想したよりもずっと早く、村人に気付かれてしまったのだろう。
「これは昨日の夜の間にはお前が家出したって事がバレてるな。夜明けと共に動けば、ここまで来てもおかしくはない。第一、この辺りに不案内なオレと違って、向こうは庭も同然な場所だろうからな」
「…家出じゃありません」
「お前はそう思ってても、向こうはそう思ってないと思うぜ?」
連れ戻されるかもしれない、そう思った瞬間、ティアーレは目の前が真っ暗になった気がした。
家出だと思われているのなら── そう思うのが自然だけれど── 自分は彼等の『裏切り者』なのだ。彼等の信頼を裏切った、彼等の期待を裏切った…裏切り者。
連れ戻された所で、殺されるような事はおそらくない。
けれど…きっと、今まで仮初(かりそめ)ながらも与えられていた自由は、もう二度と与えられる事がないに違いなかった。
「…おい、ティアーレ!」
「…え?」
「何を呆けてやがる。…捕まりたくないんだったら、さっさと立て。ようは捕まらなきゃいいんだろうが」
赤い瞳に泣きそうな顔の自分が映っている。なんて情けない顔だろう。── 自分は、こんなにも力がない。
「ティアーレ?」
「ご…めんな、さい……。ごめんなさい、リュナン」
村を出る時に、決して泣くまいと心に誓った。なのに、自分の無力さを思い知る事で、その誓いが早くも破られてしまいそうだ。
申し訳なくてしようがなかった。折角リュナンが助けてくれたのに、もうこんな迷惑を彼にかけている。
「あ?」
「手伝ってくれ、なんて言わなければ…リュナンにこんな迷惑は……」
「ばかか、お前」
どう詫びればよいのだろう、それだけしか考えられないティアーレの腕を掴んで立たせると、僅かに上から心底呆れた言葉が投げつけられる。
「迷惑をかけて悪いって思うんなら、ともかく動け。手伝えと言ったのはお前だが、手伝ってやると引き受けたのはオレだろう? …村に戻りたくないんだろう、だったら自分の最善を尽くせ」
リュナンの言葉には優しさなど欠片もなかった。あくまでも事実だけを口にしている、そんな様子だった。
なのに、ティアーレは確かに強張った心が少しだけ解れるのを自覚する。浮かびかけた涙が、止まった。
「はい…はい、リュナン。出来る限りの、努力をします」
…そう、自分は決めたのだ。生まれて初めて、自分で考えて決めたのだ。村を出て、この世界の何処かにある、自分が生きる場所を見つけるのだと。
「それでいい」
やはりぶっきらぼうなリュナンの言葉。けれど、ティアーレは感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。
いつまでリュナンが手を貸してくれるかはわからない。それでも、もし…この先、彼の役に立てる場面があったら、どんな事でも手を貸そう、そう心に決める。
自分一人では出来ない事も、誰かが手助けしてくれたら可能になる── その事を、今ここで知ったから。
「行くぞ」
寝床にしていた落ち葉を軽く散らし、そこにいた痕跡を簡単に消すと、リュナンは先に立って動き出す。その後を追って、ティアーレもまた動く。
その背に思い出すのは、昨日の会話。
『── オレは、自分の死ぬ場所を探している』
あの言葉が、何処まで本気だったのか今は知る術がない。けれど、もし…もし、本当にそれこそが彼の本当の望みだったら。
自分はそれを手助けするだろう。自分がそれを望んでいなくても。
そうする事だけが、彼の助けとなる手段になるのならば──。+ + +
面倒な事になった、と内心では思った。
ちらりと後に目を向ければ、必死な様子で彼の後をついてくるティアーレの姿がある。
出来る限りの努力をする── 自分で言った決意を実行に移すべく、明らかに歩き慣れていないくせに、黙って彼の後を着いて来ている。
(…少し、歩調を落としてやりたいけどな)
しかし、そうする余裕はあまりない。
実際、追手は確実に後からやって来ている。微かに聞こえてくる声の様子だと、あの野宿した跡を発見したのだろう。
簡単に始末をしたものの、見る者が見れば一目でそこで人が休んだ事がわかっただろう。── しかも、二人の人間が。
ティアーレには伝えなかったが、リュナンがこの逃亡に協力的なのは、別に理由があったからだ。
追手の声はこう言っていた。
── 早く取り戻さなくては。
ティアーレは自分で出てきたはずなのに、何者かがティアーレを連れ去ったのだと彼等は考えているようだった。
その状況で自分とティアーレがいる所を見ようものなら、リュナンがその盗人と思われるに決まっている。
だったら、今ここでティアーレを一人置いて行けばいいのに── ティアーレを見捨てる事は、何故だか出来なかった。
それは、昨日の夜は久しぶりに夢も見ずに眠れたからかもしれない。
自分を包み込むように抱き締めてくれる温もりは、確かに彼に幸福だった頃の記憶を呼び覚まし、いつものように訪れる悪夢を退けてくれた。
…まさか、目が覚めたら本当にティアーレが抱きついているとは思わなかったが。
思い返せば、人の温もりを身近で感じたのはおよそ十年ぶりの事だった。そう、最後に温もりを与えてくれた人── 母親が死んでから、自分にあのように触れる人間は誰もいない。
《獣宿》という呪いが、自らの身にかかるのを恐れ、ただその死を願うばかり。
もっとも、ティアーレは獣宿を知らないからこそ、平気なのに違いない。もし、それがどのようなものであるのかわかれば、きっと彼女も自分から去って行くだろう。…きっと、必ず。
可能ならば、知られるのは別れてからがいい。身勝手だと思いながらも、リュナンは思う。
真っ直ぐに自分を見てくれるティアーレ。彼女が自分を恐れる姿は、出来る事なら見たくはなかった。
(その為にも、何とかこの場を切り抜けないとな……)
地の利は向こうにある。
本来ならティアーレこそが、先に立って進むべきだろう。この地で生まれ育ったのなら、彼より地理に明るいはずなのだから。
しかし、リュナンはそうはしなかった。
獣宿、というこの世界で最も不浄であり、異端とされるものを知らないティアーレが、普通の村人のように生活をしていたとは到底思えなかったからだ。
そして事実、ティアーレはリュナンの後を着いて来るばかりで、道案内をする気配はない。
少しでもこの辺りを知っていたら、道を知っていてもおかしくはないのに、それをしない。つまり── 知らないのだ。
(…本当に、一体こいつは何者なんだろう)
何度も口にするものの、それに対する答えは与えられてはいない。ティアーレ自身が、自分の事をよくわかっていないからだろうが、それでも疑問は募る。
獣宿持ちの場合は、生まれてすぐに殺されるか、一生幽閉される。リュナンは後者── もっとも、かつては、という言葉がつくけれども。
しかし、ティアーレの場合は何なのだろう。ただの村人ではない事と、獣宿持ちでないのは確かだ。
明るい場所で見た姿は見目麗しいと呼べるものだが、だからと言ってそれを理由に閉じ込める事もないだろう。
ティアーレはその辺りの村娘と片付けるには、何処か高貴な雰囲気があるが、けれど決して、絶世の、とか傾城の、と形容のつくような美貌ともまた違うのだ。
そう── ティアーレから感じるのは『清らかさ』だ。何処か、人間臭さを感じさせない、その雰囲気が、世間知らずな内面と合いまって、『ティアーレ』という少女を形成している。
光の下であらわになった姿は、何もかもが白かった。
髪も肌も、服までも白く── けれど、不思議と冷たさも潔癖さも感じさせない『白』だ。濃紺の瞳と薄紅の唇と爪先だけが、その白を彩る。
…白い髪。銀の髪なら幾度か目にしたが、本当に白い髪を目にしたのは初めてだ。もしかすると、その稀な髪が理由なのだろうか……?
── 考えても考えても、答えは見えない。その間も休みなく足を動かす。
「…!」
そして、いきなり視界が開けた。
「…くそっ、こっちは駄目か」
「…リュナン?」
追い着いたティアーレが立ち止まったリュナンを不思議そうに見上げ、そして彼の視線を辿ると息を飲んだ。
「…崖……」
そこには抉れたように大地がなかった。
巨人がその部分を削り取ったかのようなその場所は、村人が『大山狗の爪跡』と呼ぶ場所だった。
大山狗とは、かつてこの周辺に棲んでいたとされる伝説の生き物で、生物を何でも食らい尽くす怪物だったと伝えられている。
人を食らう度に肥え太り、その足音は大地を震わせたが、最後は自重で動けなくなり、そこを勇敢な戦士達によって鎖で山肌へと縛り付けられた。
大山狗はそのまま山の一部になったが、捕獲される際に暴れて大地を深く削ったという。
それが、『大山狗の爪跡』。深い断崖は、谷と呼ぶにはあまりに深く、大地の底にまで続いているとも言われている。
だが、リュナンもティアーレもそんな伝説など知りもせず、ただ突如現れた断崖絶壁に呆然となるばかりだった。
迂回するには、かなり遠回りを覚悟せねばならないし、恐らくこの場所を知る村人は迂回路を押さえている事だろう。かと言って、この崖を降りるなど、たとえそうした装備があったとしても無理に決まっていた。
(…どうする……?)
ふと考え込んだ、その時。ティアーレが静かに口を開いた。
「…わたし、戻ります」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからず、まじまじとティアーレの顔を見ると、ティアーレは真剣な目で見返してくる。
濃紺の瞳が光を受け、一瞬透き通った。
「わたしが村に戻れば、きっとリュナンは見逃してくれると思います」
「…何言ってるんだ、お前は?」
ほんのちょっと前に、努力すると言ったばかりなのに。村から逃げる為に、出来る努力をすると言ったばかりなのに。
どうして今になってそれを覆そうとするのか、リュナンにはわからなかった。
「お前、村には戻りたくないんだろう」
生きて行く場所を見つけたいと言っていたはずだ。
もしかしたら── リュナンが死ぬ場所を見つけようとするのと、同じだけの切望をもって。
「…ええ。でも、もしこんな所で追手に捕まったら…リュナンに迷惑をかけます。それは嫌なんです。リュナンは物を知らないわたしを、助けようとしてくれました。だから」
そこで一度ティアーレは言葉を切り、そしてまるで祈るように続きの言葉を口にした。
「わたしにも、リュナンを助けさせてください」