翼の末裔

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 翼を背に持つ者は、何十年かに一人生まれるか生まれないかという程、稀なものになりました。
 地上の民とは異なり、一年という短い期間で成人の姿へと成長し、背に翼を持ったその存在を、人々はいつしかこう呼ぶようになりました。

 この地上で最も高貴なる存在── エフェ=メンタール…『翼を持つ者』と。

+ + +

 ティアーレ様、と村人達は彼女の事を呼んだ。
 特別な方です、と敬意を払い、農作業を手伝おうとするとそんな事はしなくてもいい、と断られた。
 村の少し奥まった場所に家を与えられ、何もしなくても食事は届き、何もしなくても衣類が整えられ、何もしなくても生きて行けた。
 恵まれた生活。親切な村人達。
 けれど…その代わりに、自由と呼べるものはほとんどなかった。
 彼等は彼女に知識を与えず、彼等は彼女に生きて行く術を教えなかった。一人では何も出来ないように。
 確かに身の回りの事は自分で出来るようにはしてくれたものの、与えられた家から一歩外へ出ようものなら、必ず誰かがお供に着いて来た。
 一人になりたかったら、家を出ずに閉じ篭るしかない。
 それでも、ティアーレは村人達を嫌いにはなれなかった。
 貧しい村で、人一人養う事は大変だったに違いない。しかも、まったく働き手にならない人間をだ。
 感謝の気持ちをどうして感じずにいられるだろう。毎年のように、幼い子供や老人が死んで行くのを知っているのに。
 そう…彼女が彼等の役に立つのは、村人が怪我したり、病気になったり、死んだりした時だけだったから。C  特別な何かをする訳ではない。ただ、彼等の為に祈りを捧げるだけ。
 元気になりますように。怪我が癒えますように。…安らかに眠れますように。
 それだけで、何故か村人は喜んでくれた。
 確かに祈った後、怪我の直りが早まったり、病気の症状が軽くなった、という話は聞いたけれど、それが自分が祈った結果だなんて、到底思えなかった。
 それでも、それしか返せるものがなかったから、祈る時は心を込めて祈った。
 ティアーレ、という存在を必要とされていない事が、悲しくて淋しくて仕方がなかったけれど、そこまで望むのは我が侭だと思って──ずっと、生きてきた。
 彼等は何故、自分をそんなにも特別視していたのか、今でもわからない。誰も教えてくれなかったから。
 でも、あの夢を見た時、思い知ったのだ。
 自分は「ティアーレ様」ではなく、ただの「ティアーレ」として生きたいのだ。誰かの為に祈るだけではなくて、誰かの為に直接力になりたい。
 自分の手と足で、生きて行きたい。そう、思ったのに──。

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「…駄目だ」
 決死の覚悟で戻る事を決めたのに、リュナンは一言でそれを否定した。
「でも……!」
「でも、も何もないだろ。戻ってみろ、もう二度と逃げられないんじゃねえのか?」
「……」
 見透かされたような言葉に唇を噛む。
 確かに── 恐らく、村人達は今まで以上にティアーレを監視するようになるだろう。二度と裏切る事のないように、完全に閉じ込めてしまうかもしれない。
 優しくて親切な村人達── けれど、そうする事が出来る人々である事も、ティアーレは理解していた。今回の逃亡は、おそらく最初で最後の機会なのだ。
「それに…もう、オレも他人事じゃない」
 そこでようやく、リュナンは追手がティアーレだけを追ってはいない事を告げた。途端にティアーレの顔色が変わる。
「そんな……! わたし、やっぱり戻って、話します! リュナンは何も悪くないって!」
 まさかそんな事になっているとは、夢にも思っていなかった。
 この逃亡を手伝って貰っているだけでも、十分迷惑をかけているのに、更に盗人の嫌疑までかけさせてしまうとは──!
「わたしが一人、勝手にしたんだって……!」
 その疑いだけはあってはならないものだ。
 リュナンは、恩人なのだから。物を知らず、世間を知らない自分を、たとえ気まぐれだとしても助けようとしてくれた。
 しかし、当のリュナンはティアーレの言葉に軽く肩を竦めて見せるのだった。
「…まあ、実際そうだけどな。でも、向こうはそれを信じてくれるかだな…── どうだよ?」
「!?」
 リュナンの言葉と視線で、弾かれるようにして背後を振り返る。
 そしてそこに立つ数人の見覚えのある人々を見つけ、ティアーレは息を飲んだ。
(…もう、追手が……!?)
「貴様が、ティアーレ様を攫った、そうに決まっている」
 低く言い放ったのは、村の若者の中でもリーダー格の人物だった。
 がっしりとした体格は、農作業や狩猟などで鍛えられたもの。どちらかというと細身のリュナンと見比べると、明らかに力強そうである。
「…違います! リュナンは、そんな事……っ」
「ティアーレ様は黙っていてください」
 ぴしゃりと言い放ち、ティアーレの言葉を封じると、その両手を持ち上げた。
 やはり鍛えられた太い両腕がすっと、伸ばされる。その先にあるのは──。
「…弓矢で射殺す、か?」
「当然だ。我が村の宝、ティアーレ様をかどわかした以上、生かしてはおけない」
 リュナンの問いに、男は冷えた視線を投げかける。そして、リュナンの瞳を凝視したかと思うと、ぎょっと目を見開いた。
「貴様、獣宿持ちか…!?」
「何……!?」
「どうして生きて、こんな所に……!」
 男の言葉で、側にいた青年達に動揺が走る。
 中にはかつてリュナンが言っていたように、空に呪(まじな)い言葉を書きつける祓いの呪いをする者もいて、ティアーレを驚かせた。
(獣宿って…何なの?)
 まるで不浄のものでも見るかのような視線が、ティアーレには辛い。
 もちろん、それはティアーレに向かってはいないのだが、リュナンがそんな視線を受ける事が辛かった。
 リュナンの一体何処が、村人達と違うというのだろう?
「…獣宿持ちめ、ティアーレ様の祈りの力を欲したか!?」
 男の言葉に、ティアーレは反射的に叫ぶ。
「違います! リュナンはそんなもの、望んじゃ……!!」
 確かに自分は村では祈るばかりの存在だった。けれど、リュナンはそんなものを必要とはしなかった。第一、彼は自分の事を何も知らない。
 何も知らないのに、何も出来ないちっぽけな自分を気の毒に思って助けてくれただけ。それなのに──。
 しかし、村人達はティアーレの言葉に耳を傾けようとはしなかった。…今までのように。
「ティアーレ様、こちらにおいで下さい。その男は呪われた存在、御身が汚れます」
「…呪われた……?」
 男の言葉に思わず振り返ると、リュナンは何故か口元に微笑を浮かべていた。そして、傲然と言い放つ。
「殺るなら、さっさと殺れ」
「!!」
「…リュナン!?」
 リュナンはわざとのように腕を広げ、身体の前面を無防備に曝した。
 挑発なのか、それとも他に意図があるのか。普通に考えれば、正気の沙汰とは思えない行動に、ティアーレは激しく動揺する。
 まさか。
 どくん、と心臓が跳ねたのがわかる。
 リュナンは── あの時の言葉通り、本当に己の死を望んでいる……?
「わかっていると思うが、一撃で仕留めろよ」
「リュナン、何を……!」
 ただの挑発だと思いたかった。なのに、リュナンはティアーレに目を向けると、落ち着き払った顔で言うのだ。
「言っただろ、ティアーレ。オレは死ぬ場所を探している…確実にオレを殺してくれる相手がいるなら、願ってもない」
「そんな……!」
 理解出来なかった。リュナンは本当に死のうとしているのだ。それが、彼の本当の望み。
 でも── 何故、ここまで彼は自分の命を捨てようとするのだろうか? こんなに簡単に、捨て去れるのだろうか?
「…オレは、自分で自分を殺せない。だから、殺して貰うしかないのさ」
 ティアーレの心を見透かしたように、リュナンは自嘲するような笑みを浮かべてそう言った。

+ + +

 …そう、本来なら自分はとっくに死んでいたはずの人間。
 彼の両親が、殺す事を拒んだ為生き延びた。それでもずっと閉じ込められて、一生を終えるはずだったのに、今こうして生きている。
 それは偶然が重なった結果だったが、それが果たして良かったのか、今でもリュナンはわからない。
「獣宿持ちは、いつか人じゃなくなる。そうなる前に、獣になってしまう前に…人である内に殺す── それが、この世の決まりなんだ」
 その決まりを教えてくれたのは、彼を取り上げたという、村長の妻だった。
 その時の自分は幼く、それ故に今のティアーレより物を知らず、自分が恐れられる理由がわからなかった。
 産婆を務めたからか、シドリという名の老女もまた、リュナンを恐れない人間だった。いや…恐れる必要もなかったのかもしれない。
 何故なら、彼が他者から排斥されるその理由── 《獣宿》というものを教えてくれた時、彼女の命はもう尽きようとしていたのだから。
「そんな…リュナンは、人です。わたしに親切にしてくれた…優しい人です……!」
 ティアーレが泣きそうな顔で訴える。
 その顔が、今はもういない母親を思い出させる。母親も…最後まで自分の事を『人』だと言い続けてくれた。
 …命の終わるその時まで、言い続けてくれた。
「…オレを『人』だと言ったのは、親以外じゃお前が初めてだよ」
 くすり、とリュナンは笑いを漏らし、弓矢を構えて次の行動を考えあぐねている男達を一瞥した。
 彼等は獣宿というものを、噂話程度だろうが知っている。だからこそ、うかつに攻撃出来ないのだ。
 それに今、リュナンの側にはティアーレが控えている。おそらく、ティアーレを盾にされる事も恐れているに違いなかった。
 彼等は、知らない。
 獣宿を持って生まれるという事が、どんな事なのか。人でありながら、人としての生を否定される。あらゆる人に死を望まれる、その気持ちを。
「ほら、ここが心臓。…大丈夫、心臓の位置はお前等と一緒だ」
 わざわざ心臓の位置まで教えてやっているのに、男達は顔を見合わせるばかりで行動には移らない。
 下手に攻撃して、仕留めそこなう危険を考えているのかもしれないが、リュナンにしてみればじれったい以外の何物でもない。
(…もう、終わったっていいだろう)
 早く楽になりたかった。
 どちらにしても、もう自分は十七年間も生きてきた。獣宿の持ち主は皆、わかっている限りでは大人になりきらずに死んだという。ならば自分も程なくそうなるのだろう。
 でもその前に、自分が自分でなくなる可能性を考えれば、さっさと死んでしまった方が良い気がするのだ。
 多くを傷つけ、血を流して── 命を奪う、あの行為を繰り返さない為にも。
「…駄目です、リュナン……!」
 泣きそうな顔で、ティアーレが叫ぶ。
 そう言えば、結局彼女が何者なのかわからないままだったと思う。村人達が『様』付けするような立場だという事はわかったが、結局具体的な事は何もわからないままだ。
 …心残りがあるとしたら、それ位か。
「…ティアーレ様、離れてください」
 男がようやく口を開く。
 きり、と弓矢が引き絞られる音が聞こえた。
「駄目です、やめてください! どうしてこんな事…わたし、戻ります! 戻りますから!!」
 まるでリュナンを庇うように、ティアーレが彼等の間に立って訴える。
「リュナンは、何も関係ありません。わたしが一人でやった事です。ですから……!」
「ティアーレ様、こちらへ」
 だが、ティアーレの言葉などまったく無視して、男達の一人が彼女の元へと動く。誰も彼女の言葉に耳を貸す気はないらしい。
 そこでふと、リュナンはティアーレの言葉を思い出した。
『わたしには、帰る場所がない。家はありましたが、家族はいませんし、何より── わたしは、あの村では生きていなかった』
 あの時は聞き流していたが、その言葉が真実であった事を理解する。
 村人達はティアーレを敬ってはいるようだ。しかし、そこに意志がある事はまるで認めていない。
 その存在を必要とはしているが、彼等にとって『ティアーレ』という人格は不必要なものなのだ。
 ── だから、彼女は村を出たのだ。
「…いや、離して下さい!」
「我が侭をおっしゃいますな。あの男は危険なのです!」
 強引にティアーレをリュナンから引き離そうとしている。実際、その行動は正しい。正しいと思うのに…何故だか、無性に腹が立った。
 このまま死んでしまおうと思っていたのに、一言言わずにはいられず口を開く。
「嫌がっているのに、無理強いするんじゃねえ」
「…何?」
「そいつ、自分で村を出たんだぞ。それが折角戻るって言ってくれてるのに、よくそんな扱いが出来るな」
「黙れ! この方が自分で村を出ただなどと……!」
 男は怒りの為か顔を赤くして怒鳴る。リュナンの言葉もまた、彼等は歯牙にもかけようとはしないようだ。
「そんな事があるはずもない、貴様がかどわかしたのだろうが!」
「何の為にだよ。そんな物もよくわかってない女、攫って何の得が……」
「白々しい嘘を。大方、獣宿を祓って貰おうとでも思ったのだろうが……!」
 男は怒鳴り、さらに弓を引き絞る。一体、何が彼等をそこまで言い切らせるのだろう。
 だが、そんな事よりもリュナンは男の言葉に衝撃を受けていた。
「…獣宿を、祓う……?」
 そんな事は不可能なはずだ。今まで聞いた事もない。
 ティアーレの顔を見ると、彼女も目を丸くしている。そんな可能性など考えてもいなかった、という顔だ。
「は…そっちこそ、何を血迷った事を。獣宿が祓えるものか。死ぬ事でしか、終わりに出来るはずがない……!」
 そんな事が可能なら。
 もし、本当に可能なら── 自分も、人として生きて行けるのだろうか?
 ふとそんな事を考えて、すぐに自分でばかばかしい、と否定する。それは不可能な夢。この呪いは、死ぬまで解ける事はない…絶対に。
 第一── たとえそんな事が可能でも、もう引き返せない場所に自分はいる。人になれたとしても、今までの『獣』の生が消えてなくなる訳ではない。
 …しかし、そんな思いはたったの一言で崩される。
「この方は、死にかけた人間すらも癒す力をお持ちだ。ならば、と考える人間がいても不思議はない…貴様のようにな……!」
 あくまでも言いがかりをつける男は、自分の言葉がどんなにリュナンに動揺を与えたのか、おそらく理解出来ていないだろう。
 死に瀕した人間を癒す── それはまさに、奇跡の技。
 リュナンは改めてまじまじとティアーレの顔を見つめた。
 その視線に気付いたのか、引きずられるように男達の方へと連れて行かれるティアーレも、真っ直ぐに彼に目を向けてくる。そしてぶんぶん、と首を横に振った。
 ── 信じては駄目、そう言われた気がした。そして実際、ティアーレは叫ぶ。
「そんなの嘘です、リュナン…わたしには、そんな力は……!」
 しかしその言葉は、途中で途切れる。
 その言葉を遮るように、男はぎり、と最後まで弓を引き絞り、リュナンの心臓に狙いを定めた。
 ティアーレが悲鳴をあげる。やめてください、というその言葉はやはり周りの男達からは黙殺される。
「せめて、最後にエフェ=メンタールのお姿を見、声を聞けた幸運を喜ぶ事だ……!」
 男はまるで餞別のようにそう言い、その手に番えた矢を手放す。
(…エフェ=メンタール……?)
 それはいつか何処かで耳にした気がした。けれど、それを思い出す事は許されなかった。
 ひゅん、と空を切る音。
 十分に力を貯めていた矢は、ついにその目的を果たすべく、リュナンの胸を目指して飛び込んで来る。
 …彼の命を、終わらせる為に。 

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