翼の末裔

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 エフェ=メンタールは高貴なる存在。
 地上に生まれた、月の民の末裔。
 その姿は美しく、背の翼は地上の重力の枷から解き放たれた証。
 …彼等は祈る。
 月からの祈りを受け止めて、自らの祈りを紡ぐ。そして…癒しの奇跡を起こすのだ。
 けれど、いつしか彼等は地上ではなく、かつての故郷とも呼べる月から祈るようになった。一年で成長し、彼等は月へと昇り、そこで祈りを紡ぐようになったのだ。
 …その理由を知る者は、一人としていない。
 月が失われて、すでに幾星霜。翼を持つ稀なる存在もまた、滅多に生まれなくなってしまったからだ。
 元々、数年に一人、という割合でしか生まれなかった彼等が、十数年に一人、数十年に一人、百年に一人と生まれなくなってゆく。
 それはまるで、月からの加護を地上が失った事を意味しているようだった。
 ──だからこそ。
 その存在は、ある時から存在を秘されるようになった。生まれたとしても隠され、死ぬまで周辺に知られる事のないように。
 

 祈りの力── 癒しの奇跡を、他者に奪われる事のないように。

+ + +

(やめて)
 弓矢が引き絞られる。あれが解き放たれたら、無防備なリュナンは命を落とす。
 リュナンは死にたがっている。死ぬ事を望んでいる。
 ならば、自分はそれを助けなければならない。彼が自分を助けてくれたように、彼の望みが果たされるよう、ここで止めてはならないのだ。
 そう、思うのに。
(死なないで……)
 獣宿持ちが死なねばならないのだとしても、…納得は出来ないが、それが逃れられない運命なのだとしても、今この時に死んで欲しくはなかった。
 まだ、自分はちゃんと言えていないのだ。
 彼に、ここまで助けてくれた事に対して、お礼の言葉をちゃんと言えていないのだ。
(お願い、死なないで……!)
 自分には何の力もない事を、ティアーレは自覚している。
 村人達の言うような、癒しの力など持っているはずもない。だけど、祈る事が唯一彼女の出来る事なのは確かだった。
 だから、祈った。
 射手の手が、ほんの少しでも狂う事を。
 リュナンが、その矢を避けてくれる事を。
 …少しでもいいから、『死』を厭ってくれる事を。

 ── しかして、その祈りは聞き届けられる。
 だが、皮肉にもそれは獣宿というものがどういうものかを、ティアーレに知らしめるものだった……。

+ + +

 ザシュッ、と肉が切り裂かれる音。
 衝撃と痛みが走り、それと同時にかっと熱がそこに集まる。全身の血が、そこ一点に集まったかのようだ。
 そこ── 心臓よりも少し下、わき腹を抉るように切り裂いて、矢は崖の方へと飛んでいった。ほんの一刹那、時間が止まったような瞬間の後、そこから勢い良く血が吹き出る。
 熱い液体が飛び散り、大地を染め、腕や身体、顔にまで飛んだ。
 ── 真紅の、血。生命の…色。
 そして、狂気の引き金。
「……」
 最後の最後で、矢は外れた。
 男の手元が狂ったのか、それともリュナンの身体が無意識に反応してしまったのか、それはもうわからない。
 どくんどくん、と血が駆け巡る音が聞こえる。
 視界が血の色に染まって行く。
 世界が、あらゆる音が、遠ざかる。
 自分の中の── 《獣》がゆっくりと目覚め、そして……。

+ + +

 どん、と激しく突き飛ばされ、ティアーレは為す術もなく頭から繁みに飛び込んでしまう。葉が肌を傷つけ、枝に引っかかってショールが破れる音がした。
 全身を打ちつけて気が遠くなる。地面と違い、それなりに衝撃は弱まっていたものの、心の準備もなく倒れた為に受身らしいものも取れなかったせいだ。
 くらりと眩暈がするのを、ぐっと歯を食いしばって耐える。
 すぐに立ちあがらねばと思ったものの、何故かそうしてはならない気がして、しばらくそのままそうしていた。
 それは突き飛ばされる瞬間に、自分を捕らえていた村人が『危ない』と叫んだからかもしれないし、今、すぐ背後で恐ろしい悲鳴が上がったからかもしれなかった。
 そして、何かが自分の身体にもかかった。熱い── 生臭いような、独特の匂いを放つ何か。それが何なのか、考えないようにする。
(…怖い……)
 一体、何が起こったのかわからない。
 矢がリュナンの身体を傷つけたものの、命を絶つまでには至らなかったとわかった瞬間、周りの村人達に動揺が走った。
 リュナンは噴出した自らの血で、すぐに真っ赤に染まった。
 止血をしなければ、と思った時には、もう村人によって突き飛ばされていたので、それから何が起こったのかわからない。
 リュナンは一撃で仕留めろ、と言っていた。そう出来なかった場合、一体何が起こるのだろう?
 聞こえてくるのは次々に上がるくぐもった断末魔の声と、応戦しようとしているのか、弓が鳴る音だけ。
 いたのは全部で七人程。それぞれがそれなりに腕に覚えのある者のはずだった。…なのに、すぐにその場は静寂に包まれる。
 そして…代わりに漂うのは、考えないようにしていたのにどうしてもわかってしまう、濃密な血の匂い……。
 しばらく待って、そろそろと身を起こし── ティアーレはそこに広がる凄惨な場面に身体を強張らせ、目を見開いた。悲鳴すらも、出てこない。
 先程まで生きて動いていた村人達は、みな事切れて大地に転がっていた。確かめた訳ではないが、首と胴とが引き離されて生きていられる人間がいるはずもない。
 一面が彼等の血で真っ赤だった。大地も周辺の繁みも、そしてよく見るとティアーレ自身にもその赤はあった。
 それが先程浴びた何か── 返り血なのだと理解し、目を反らしたいと思うのに反らす事も出来ない。
 このままこの場面を見続けたら何かが壊れてしまう、そう思うのに、完全に身体が固まってしまって動けなかった。
 転がる死体の中に、一人立つ姿── リュナンだ。
(…わたしも、ここで死ぬの?)
 そこに人ならぬ気配を感じて、ティアーレは思う。
 獣宿とは、その名の通り獣を宿すものの事なのだ、と理解する。獣でなければ── 人の心を持たない存在でなければ、こんな惨たらしい殺し方は、きっと出来ない。
 腕や首を、素手で引き千切るような殺し方など──。
 リュナンが気配を感じ取ったようにティアーレの方を見る。
 その赤い目に、感情らしいものはない。あるとしたら、それは狂気と呼べるものだったのかもしれないが、ティアーレにはわからなかった。
「…リュナン」
 呼びかけたのは、もしかしたらリュナンが正気に返るのではないかと思ったからか、それとも別に理由があったからか。
 それすらもわからないままに、彼の名が口から零れ出ていた。
 リュナンがティアーレに向かって、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。それは何だか、昨夜出会った時の事をティアーレに思い出させた。
 あの時も、彼は繁みの中に蹲る彼女の元へ、迷う素振りもなく歩み寄ってきたのだ。そして、迷子扱いをして、村へ送ってやろうか、と言った。
 …その時には確かにあった、人らしい感情が、その瞳にはない。
 闇の中で金に輝いた赤い瞳は、無表情に繁みの中のティアーレを映している。その事が、無性に悲しかった。
「リュナン……」
 血塗れの手が動き、迷う素振りもなくティアーレの首に伸びる。
 逃げなければこのまま殺されると思うのに、ティアーレは動けなかった。ただ、ひたすらリュナンの名を紡ぐ。そうする事しか、思いつかなかった。
「リュナン」
「……」
 村人達の血か、生臭い臭いが鼻をつく。ぬるり、とした感触と共に、リュナンの指がティアーレの細い喉に絡みついた。
 すぐには締めつけず、まるで反応を見るようにじっとティアーレの顔を見つめている。
 その目を真っ直ぐに見返して、ティアーレはせめて最後に、と言葉を投げかけた。
「リュナン、ごめんなさい…だから、死にたがっていたのね」
 こんな風に自分が自分でなくなると、わかっていたから。
 だから、リュナンは自分を殺せ、と言ったのだ。誰かを殺すくらいなら、自分を殺そうと思う── それは、一体どんな気持ちだったのだろうか。
「…だから本当に死にたがっていたのに…わたしは、あなたが生きてくれる事を祈り…願ってしまった。ごめんなさい……」
 まるで言い終わるのを待っていたかのように、ぐ、とリュナンの指に力がこもった。
 途端に呼吸をせき止められ、ティアーレは苦しさに喘ぐ。無意識にリュナンの手首を掴んで── まだ言い残した事がある事を思い出す。
 果たして、リュナンに届くのかわからない。けれど、これだけは伝えておきたかった。
「リュ…ナ…、…っ、わたし、は……あな…に、かんしゃ……て」
 喉を締められ、言葉はまともに出てこない。苦しくて苦しくて、目からは生理的な涙が零れた。ガンガン、と頭が痛む。息が出来ない。目が、眩む。気が…遠のく……。
 みしり、と首の骨が軋む音が聞こえた気がした。
「…あり…と……あな…と、あえて…よか……っ」
 ──ありがとう。あなたと、会えて良かった。
 言えた、と思った瞬間、急に喉が解放され、一気に肺へ入ってきた空気で激しく咳き込む。
 しばらく何も考えられないまま咳き込んでいると、上から感情の抜け落ちたような声が落ちてきた。
「…オレは、また生き延びたのか」
 咳が治まらないまま、目だけをそちらに向けると、涙で滲んだ視界にリュナンの顔が見えた。
 呆然とした顔には、先程までの獣の気配はなく、彼が正気に戻った事をティアーレに知らしめる。
「リュ…ゴホッ……ッ」
 良かった、正気に戻ってくれた── そう思ったものの、まともな言葉は出てこない。発作のように咳き込むティアーレを、リュナンはただ見下ろしている。
 そしてそろそろと自分の両手を持ち上げ、そこが血の赤に染まっている事を確かめると、ぎり、と唇を噛み締めた。
「オレは…また、獣になったのか……」
 その言葉にあるのは、深い絶望…そして悲しみ。
 ティアーレはその心の痛みを思い、自分の胸もまた痛むのを感じた。それは── こうなる事を止める事が出来なかった事への、罪悪感だったのかもしれない。
「…ティアーレ…お前は、生きてるんだな」
 ようやく咳が止まったものの、まだうまく言葉の出ないティアーレにリュナンが問い掛ける。せめてと思って頷けば、リュナンは少しだけほっとした顔を見せた。
「そうか…悪かったな、怖い目に遭わせた……」
 紡がれる言葉はぎこちない。
 リュナンは助け起こそうと思ったのか、まだ繁みの中に座り込んでいるティアーレに手を差し伸べかけ── しかし、すぐに弾かれたように手を引っ込めると、くるりと背を向けてしまった。
「…リュ…ナン……?」
「…もうわかっただろう、オレは人殺しだ。見境のない…殺人鬼だ」
「……」
「だから、もう…オレと一緒にはいない方がいい」
「…!」
 リュナンはこのまま去ってしまおうとしている。
 直感的に悟ったティアーレは、慌てて立ちあがる。その弾みで肩に引っかかっている程度だったショールが完全に破れて取れてしまったが、気にもならなかった。
「…待って下さい、リュナン……!」
 ここで引きとめるのは、普通なら間違いなのに違いない。
 何故なら、その現場こそ目の当たりにはしなかったものの、リュナンは確かに村人達を惨殺したのだ。
 人の所業とは思えない、惨い殺し方で人の命を奪い── ティアーレ自身も、もう少しで殺される所だったのだ。
 リュナンの言葉通り、彼は殺人者で── そして、このような事は今回が初めてではないのだ。
 そう、わかっているのに。
「行かないで下さい、どうか……っ」
 まだ、言葉を話そうとすると喉が痛む。それでも必死にティアーレは言葉を投げかける。
 くらり、と眩暈が起こり、すうっと血の気が引くのを知覚する。極度の緊張状態の後で、急に立ちあがったせいだろう。
(…だめ、ここで倒れたら……)
 必死に意識を保とうと努力するが、それは失敗に終わる。
 急激に暗くなって行く視界の中、ティアーレはリュナンの背中だけを見つめた。孤独と絶望に満ちたその背中だけを。
「…おねが……」
 ── どうか、行ってしまわないで。
 それが最後に思った事。そしてそのまま、ティアーレの意識は闇に閉ざされた……。

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