翼の末裔

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 ── これは、今ではもう、誰も知らない物語。

 地上のずっと、奥深く。
 そこには昔、一匹の獣が棲んでいました。
 それはとても強い力を持っていましたが、普段はずっと眠っていて、余程の事がない限りは目覚める事はありませんでした。
 何故なら、獣は知っていたのです。
 自分が目覚めると、必ず何かが壊れて失われてしまうのだという事を。
 何故なら、獣は自覚していたのです。
 自分が自分以外の存在にとって、どんな存在であるのかを。
 獣はずっとずっと、独りきりで眠っていました。
 夢も見ずに、眠り続けました。
 このまま、目覚める事が二度となければいいと、願って眠り続けていました。
 というのも、獣はかつて目覚めた時に、その力を抑える事も出来ず、多くの生命を奪ってしまったからです。
 獣は孤独でしたから、身の回りの世界が失われる事をとても恐れていました。
 たとえ、自分の事を必要とされなくても…自分を恐れようとも、自分というものを認識してくれる存在を失いたくはなかったのです。
 何故なら、全てがなくなってしまったら、獣は本当に世界に独りきりになってしまうのですから。
 …しかし、あまりに長すぎる眠りは、いつしか獣から心を奪いました。
 心を失った獣は、形を失いました。
 ── そして、そこにはずっと獣が内で抱き続けていた「感情」だけが残されたのです。
 ずっとずっと、獣が心の奥底に抱え、見まいとしていた、『負』の感情だけが。

 悲しい── どうして、こんな淋しい場所にいなければならないのか。
 辛い── どうして、こんな場所で眠り続けねばならないのか。
 憎い── どうして、自分はこんな力を持ってしまったのか。
 羨ましい── どうして、自分以外の存在は幸せに生きる事を許されるのか。

 地上の奥深くで、そんな思いが坩堝(るつぼ)のように渦巻いて溶け合い、最後に一つのものだけが残ったのです。

 それは── 『淋しい』。

 意志を失った獣の心は、そしてその最後の願いを叶える為に動き出しました。
 孤独を癒してくれる何かを求めて── 地上へと。
 けれど。
 形すら失った獣は、それでもやはりあらゆる存在にとって、災厄でしかなかったのです……。

+ + +

 どさり、と何かが倒れる音。
 その音はどうしてこんなにも不吉に聞こえるのだろうか。…思わず振り返ってしまうほど。
 振り返ったその先には、かつて人であったものが流した血潮に染まった大地。そしてそこに横たわる、白い人。
 その姿は遠い昔を思い出させる。ずっと昔── まだ彼が子供だった頃の、彼が自由になった日の事を。…母親が死んでしまった時の事を。
「…ティアーレ?」
 不安に駆られるようにして呼びかける。
 けれど、ティアーレは返事をしなかった。完全に意識を手放してしまっているのだろう。
 命に別状がないのなら、このままこの場を後にすべきだと思うのに、リュナンは動く事が出来なかった。
 ただじっと、地に伏したティアーレを見つめる。
 他の村人がこちらにやって来る気配は今の所ないが、戻らない村人を怪訝に思って人が探しに来るのも時間の問題に違いない。
 この惨状を見た後自分を見れば、すぐに何が起こったのかわかる事だろう。
 …これ以上無駄な血を流さない為にも、出来るだけ早くここを去るのが得策に違いなかった。
 ── けれど。
 ティアーレ。彼女をこんな所に一人残して行くのは── しかも意識のない状態で── 気が咎めた。
 おそらく、これでティアーレも獣宿がいかなるものかわかったはずだ。
 それでもなお、『行かないで』と引き止めてくれたけれど、おそらく今後は彼女の自分を見る目も変わるに違いなかった。
 自分がティアーレの立場なら、これ以上関わりを持とうとしないと思う。
 …呪われた生。呪われた身体、呪われた血。
 それは── 自分を含めたあらゆる生き物にとって、忌むべきもの。そんな存在とこれ以上一緒にいた所で、ティアーレに何の利点もないに違いないのだ。
 それでも。ここから一人、立ち去る事が出来ない。
 …村へは戻りたくない、と彼女は言った。村には彼女の本当の居場所が存在しないであろう事も、リュナンは知った。
 このままここへ置いて行けば、おそらくティアーレは村へと連れ戻されるだろう。そして、今度はもう、村を出る事だって出来ないに違いない。
 誘われるように、そろそろと意識を手放したティアーレに歩み寄る。けれど血で汚れた手で抱き起こす事は出来なくて、そのままティアーレの身体を見下ろした。
 白い服が血で所々赤く染まっていた。ティアーレ自身のではなく、単なる返り血のようだったが、それでもやはり目に訴える。
 ショールが破れて、すぐ横の木の枝に絡まっていた。
 下に着ていた服は、ショールをかけていた時はまったく気付かなかったが、大胆とも言える程に背の部分が開いたもの。
 そこから、白い白い、背が覗く。滑らかなその背を、リュナンは我知らず凝視していた。
 白い背── そこに走る、無残な傷痕を……。
(…この傷は、なんだ?)
 まるで何かに引き裂かれた跡のような、醜く引き攣れた傷が、丁度左右の肩甲骨の辺りにあった。
 村人達に貴人のように扱われていたにしては、あまりにもひどい傷痕だ。
 見た所、それ程古い傷痕のようでもない。たった今ついたものではないが、少なくともここ数年でついたもののようだ。
 なまじ染み一つない白い背であるが故に、その傷はやたらと生々しく、そして痛々しく見えた。
 それ程の傷だと言うのに、まるでそれを見せびらかすような服装なのが奇妙に思えた。
 多少風変わりな感は否めないものの、ティアーレも年頃の娘だ。身体に傷があるなど、隠したいと思うのが普通ではないだろうか?
 それとも…ティアーレ自身は、この傷の事に気付いていないのだろうか。背に走る傷が、これ程にひどいものである事を?
 そんな事があるはずはない、と思いつつも、その可能性を否定しきれない自分がいた。
 村人達のティアーレに対する態度が、リュナンにそう思わせたのかもしれない。あの、『宝』と言いながらも、ティアーレの人格を無視するような、あの態度が。
(何だか…羽でも、もいだみたいだな)
 そんな事を思って、何か引っかかるものを感じる。
 そう言えば矢を受ける前に、村人達が言っていなかっただろうか。エフェ=メンタール── その言葉を。
 それは確か、今ではもう伝説になった存在のはず。
 子供の頃、寝物語に聞いただけの為、具体的な事はろくに覚えていないが、今はもういない、という事だけは覚えている。
 背に翼を持つ、佳人── ティアーレはそれなのだろうか。
(…まさかな)
 しっくり来ると言えば確かにそうなのだが、もしそうだとしても、その象徴たる翼を奪う理由がないし、第一、背に翼を持つ存在など── とてもではないが信じられない。
 リュナンは再び自らの手を見つめた。村人達の血に塗れたそれは、すでに赤黒く変色し始めている。
 そして、自らの傷を見ると、矢で切り裂かれたそこは、すでに再生した血肉によって傷痕すら見出せない。
 何度となく確認してきた事だ。自分は── 『人』ではない。
 どんな形であろうと、ティアーレは人に必要とされている。…自分とは違って。
 『獣』になった自分を見ても、行くなと引き留めてくれた優しい存在。ここに置き去りにして村へと連れ戻された時、果たして彼女は自分を恨むだろうか?
(…いや、恨む前に許しそうだよな、こいつ……)
 たった半日にも満たない間。その間だけしか一緒にいた訳ではないというのに── その想像は何故か簡単に出来た。
 置き去りにしたリュナンを『仕方ない』と許し、そして村から二度と出られなくなっても、それが運命なのだと諦める、その姿が思い浮かぶ。
 それは実際、とても有り得る想像のようにリュナンには思えた。
 何故なら、ティアーレは彼を助ける為に、自分の意志で飛び出したはずの村へ帰ると言った位なのだから……。
 リュナンは完全に破れてしまったティアーレのショールを枝から外すと、意識のないティアーレの背にそっとかける。そして、しばらく迷った後、その身体を抱き上げた。
 自分とそう変わらない身長なのに…しかも、意識のない状態でありながら、その身体は信じられない程に軽い。
 確かに元々華奢ではあるのだが、それでも小さな子供だってもっと重い気がするほどだ。
 その事に驚きながらも、リュナンは動き出す。
 これで本当に人攫いになってしまうな、と思いつつ、けれどその足取りは何処か軽い。
「…約束は、守らないと、な」
 助けてやる、と自分はティアーレに言った。
 抱き上げるこの腕も、手も、身体全体が数え切れない人の血で汚れてしまっているけれど。この身は呪われたものだけれど。
 …最初にティアーレが自分にくれた信頼を、裏切りたくはなかった。たとえ目覚めた後、ティアーレが自分を恐れても。
 世界中の誰もが自分を人だと認めてくれないとしても、心だけはまだ人でありたいとリュナンは思う。
 許されないのだとしても、生きている限りは人でありたかった。
「……?」
 ティアーレが身じろぎして、反射的にそちらを見ると、何処か安心したような顔でティアーレはリュナンに身を預けてくる。
 その白い手が、きゅ、とリュナンの血塗れの服を握りしめるのを、何だか不思議な気持ちで見つめた。
「ガキみてー……」
 呆れたように呟きながらも、心が少しだけ軽くなったのを自覚する。
 …目が覚めてもティアーレは今までと変わらない、そんな予感がする。
 期待などすべきではないと思うのに、今この時、リュナンは自分の選択が間違いではないのだと信じられた。
 そして、彼等はそのまま森の中へと姿を消した。

+ + +

 事切れた村人達の骸を他の村人達が発見するのは、彼等が姿を消してからおよそ半刻が過ぎる頃。
 そして、村人は知る。
 彼等の『翼』が、『獣』によって奪われた事を──。

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