Bless You All The Time
封印 〜閉じられた記憶(2)〜
「お姉様…? こちらにいらっしゃる?」
執務室を後にしたものの、そのすぐ後に西方の動向に深刻な打撃を受ける知らせが届き、結局クナルがメイラの私室を訪れたのはそれから数刻が過ぎた後の事だった。
南方だけでも頭の痛い事態だというのに、追い討ちをかけるような報告が続き、クナルは疲れ果てていた。
それでも、メイラの顔を見て話をすれば心は休まる。その思いだけを支えに可能な限りの事後処理を終わらせてきたのだ。
── が、クナルの訪いの声に返って来るのは、待ち望んだ姉の声ではなく、不吉さすら感じさせる静寂だった。
「いらっしゃらないの……?」
胸騒ぎを感じて念の為にもう一度声をかける。しかしやはり返る声はない。
盲目となってから、メイラが私室以外の場所へ出歩く事は格段に減っていた。
当初よりは行動範囲が広くなったとは言え、広大な王宮内を全て身体で覚え切るのは至難の技だろう。
時は夕刻── だが夕餉には多少早く、先に食堂へ向かったとも考えられなかった。
(一体何処に……)
試しに部屋を覗いて見たが、やはり求める姿はそこには見当たらない。
メイラがいない…ただそれだけなのに心は凍え、不安に怯える。まるで覚める事のない悪夢の中にいるような気持ちになる。
精神的な疲労が益々募り、クナルは縋るものを求めるようにふらりといつも姉が腰掛けている椅子へと歩み寄った。
そっと、触れる。
そこに温もりはなく、メイラがそこを離れて相応の時間が過ぎている事を示していた。
(…どうして、こんなに不安なんだろう。お姉様がいないなんて、今までまったくなかった事でもないのに……)
少なくともこの王宮にいるはずなのだ。ここでしばらく待っていれば、きっとすぐに戻って来る。…そのはずなのに。
胸騒ぎも、治まる気配はない。こんな感覚をごく最近も感じた。
メイラがいなくなるような気がして、シェイを伴ってこの部屋へと急いだ。その時は何事もなく、単なる気のせいだと自分でも納得したのだが──。
「…まさか?」
閃いた瞬間に、クナルの身体は弾かれたように動いていた。
乱暴に扉を開き、廊下に飛び出す。メイラがその場にいたなら一言注意が飛んだに違いないが、メイラは今この場にはいないし、飛び出した先の廊下に人影はない。
そのままクナルは足元が乱れるのも気にせずに走り出した。
(もしかしたら、あの場所にいるかもしれない……!)
いくつもの角を曲がり、物陰に巧妙に隠された急な階段を滑り落ちるような勢いで降りる。元々は緊急時の避難路として作られた道のその奥に、目指す場所はある。
地下深く、一般の人間の立ち入りを禁じられているその場所は、かつては王家に連なる身でありながらも犯罪を犯した者を幽閉していた所── 牢であったという。
降りるにつれ、次第に空気は湿り気と黴臭さを伴うものに変わってゆく。
すでに使用されなくなってから長い時が経っていたが、決して居心地の良い場所ではない。
「……っ」
呼吸をするのももどかしく、最後の一段を降りるとそこには薄暗い空間が広がっていた。
── その場所にクナルが足を踏み入れたのは、これで三度目になる。
一度目は子供の時。メイラと一緒に過ごすようになった頃、城内を探検していた時に。
二度目は二年前。最初にメイラが姿を消した時に。
そして…三度目。
「…お姉様!」
かつて牢として使われていた割りに、高さも奥行きもあるその場所の中央に、求めるその姿はあった。
背をこちらに向けていても、確かな光源がなくても、その姿を見間違うはずがない。
「お姉様、こんな所にいたの?」
安堵感も手伝って、クナルはその背に駆け寄ろうとした。
── が。
「…クナルなの?」
背を向けたまま問いかけられた言葉の鋭さに、足が止まった。
「…お姉様?」
「どうして…来てしまったの」
ゆっくりとメイラが振り返る。
その白い顔に浮かんでいたのは明らかに驚愕と── 恐怖、だった。
「…お姉、様……?」
ただならぬ様子にクナルは混乱に陥った。
今までメイラにこんな顔を向けられた事など一度もなかったのだ。いつも穏やかで、毅然としていて── 優しい笑顔で。
何故こんな所にいるのか、問い詰めようと思った気持ちがたちまち萎える。変わって湧き上がったのは、先程まで身の内にあった胸騒ぎだった。
何かが、起こっている。
そう思ったのは、単なる直感だったのか、それとも以前からそれを感じ取っていたからか──。
「…クナル、ごめんなさい……」
やがてメイラの口から零れ落ちた謝罪の言葉に、クナルは反射的に耳を塞いだ。
「ど、どうして謝るの? お姉様が謝るような事なんて、一つも……」
笑って流そうと思うのに、何故か言葉が震える。
メイラは闇の向こうから静かな視線を向けてくる。その姿はまるで断罪を待つ罪人を彷彿とさせた。
精彩を欠くその顔に浮かんだ自嘲的な笑みに、嫌な予感は更に高まる。
「わたしは、取り返しのつかない罪を犯した。二年前…この場所で」
「……!」
でも、それは失敗したはず。
そう口にしようとしたものの、それはクナルの咽喉の奥で凝り固まり、言葉にはならなかった。
それ以前に何故メイラがこの場所に来たのか、何をしようとしているのかを問い詰めるべきなのに、それも口には出来ず、ただメイラの言葉を受け止めるしか出来ない。
否── それを聞いてしまったら、何かが終わってしまうような気がしてならなかった。
「…許されるなんて思っていないわ。実際、こんな事で事態が変わるのかわからない。でも…可能性が皆無でない限り、わたしはやらなくてはならない」
「お姉様? 何を言ってるの……?」
メイラの言葉は耳に届くのに、言っている内容を理解出来ない。
いや、理解出来ないのではない。理解したくないのだ。
「…クナル、わたしの最愛の妹。あなたはわたしにとって、かけがえのない存在だった。これは本当よ。最後にあなたの顔を見る事が出来て…驚いたし、正直困ったけれど…嬉しかったわ」
「……え?」
その言葉にひっかかりを感じて、クナルはまじまじと闇の向こうのメイラを見つめた。
今、メイラは何と言った?
『かけがえのない存在』? …それは自分にとってもそうだ。
『これは本当』? …姉は今まで何か自分に嘘でもついていたというのだろうか?
『最後に』? …最後? つまりそれは──…!
「お姉様!?」
「ごめんなさい、クナル」
クナルがメイラの言葉に隠された意図に気付いて声を上げるのと、メイラが片手を持ち上げるのは同時だった。
薄闇の中、浮かび上がったのは鋭利な輝き。それが意味する事がわからないクナルではなかった。
「…っ、やめて、お姉様!!」
「これで最悪の事態は起こらない。わたしは、…──決して『わたし』を喪う訳には行かないのだから……!」
空を切る音がした。
次で肉を断つような鈍い音。
迷いの欠片もなかったメイラの一振りは、引きとめようと駆け寄りかけたクナルの目の前でその胸へと収まっていた。
その場所は心臓。
そこを傷つけて、命が助かる可能性など限りなく低い。
「い…っ、〜〜〜〜っ!!」
時が、凍りつく。
目を張り裂けんばかりに見開いたクナルは、悲鳴すら上げる事も出来ずにその場に立ち尽くした。
メイラの胸元がたちまち黒く染まって行くのを呼吸も忘れて見入る。
目が、反らせなかった。
広がる黒い染みは、やがてクナルの心にも広がり、絶望という名の毒で冒して行く。
(見たくない)
こんなのは夢だ。
こんな事があっていいはずがない。
早く目を覚まさなくては。そしてメイラに相談するのだ、いつものように今後の事を。
…未来の事を。
(信じたくない)
メイラが自分一人を置いて、死んでしまうなどあってはならない事。
メイラはこれから女王となって、自分はそれを補佐する。
子供の頃からずっと信じていた未来が、こんな裏切りで消えてなくなっていいはずがない……!
(嘘だ)
『じゃあ、忘れてしまえばいい』
不意に何処からともなく声が聞こえ始めた。
(お姉様が死んでしまうなんて)
『じゃあ、最初からいなかった事にすればいい』
それはクナルの心の中からでもあったし、すぐ側からのようでもあった。
しかし、半分自失状態にあるクナルはその事を疑問にも感じずに受け入れる。…分別のつかない、幼い子供のように。
(── 夢?)
『そう…これは夢だよ。お前は何からも裏切られてはいないんだ』
(これは、夢…だから目を覚せば──)
『全部、消えてなくなる』
嫌な事も、悲しい事も。
それが現実となったらどんなに嬉しい事だろう。
ふと見ると、目の前に白い手が見えた。男のようにも女のようにも見える、そしてそのどちらでもない、性別を感じさせない手。
それが、手首から先だけが闇の中に浮かんでいる。まるでその手を取れ、と言わんばかりに。
正気であれば恐怖すら覚えそうな状況ながら、クナルは驚きも怯えもしなかった。
逆に嬉しそうな笑みすら浮かべると、その手を持ち上げ躊躇なく差し出された手を取る。
その、瞬間。
闇の中にまた別の何かが浮かび上がる。
それは── 一対の目。
「……あ」
その眼差しを受け止め、クナルは一瞬目を見張った。
燃えるような黄金。その色を、何処かで見た気がして──。
しかしそんな事を思ったのは僅かな間。
『…おやすみ』
やはり何処からともなく聞こえてきた声を耳にした途端、視界が闇に閉ざされ、クナルは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていた。
『…さて、どうしたものだか……』
無音の空間に何処か楽しげな呟きが響いたが、その呟きを耳にする者は誰一人いなかった。+ + +
「…ですから…クナル様? 聞いておられますか?」
「え……?」
はた、と我に返ると目の前に苦笑を浮かべた政務長官の顔があった。
「お疲れですか?」
「…今、私は寝ていた?」
「一瞬ですが」
否定も出来るのに、あっさりと言いにくい事を肯定してくれる。害意がないとわかっているから不快ではないが、普通なら事実でも認めないだろう。
流石に一癖も二癖もある政務官を束ねる長だけあると言うべきか。飄々とした口調と言い、常に絶やす事のない笑顔といい、掴みにくい人間である。
「…そう。ごめんなさい」
自覚がなかったが、明らかに自分の失態だ。
素直に非を認めると、政務長官は軽く眉を持ち上げ「おやおや」というような顔になる。
「あなたが非を認めるとは。…まあ、最近いろいろあって大変でしたからねえ……」
言いながらも手持ちの書類をクナルの執務机の端の乗せる。
そういう彼の方も、目の下に隈が出来ているのは隠せない。
事実、西方と南方で起こった異変の対応で、政務官達は不眠不休で情報収集とその分析に当たっているのだ。
「でも、弱音は吐けませんよ。今は疲れていてもしっかりして頂かねば。まだ公表はしていなくても、実質的にあなたは我々の要── 女王なのですから」
「…女、王……」
それは妙に遠い響きで、クナルは困惑した。
前女王亡き今、次代の王は一人娘の自分以外に存在しないのに。
「で、最初の話に戻りますが。この異動案に異存はないのですね?」
自分の中の違和感に困惑しつつも、政務長官の示す書類に目を走らせる。
それは今回の緊急事態に対する臨時の人事異動に関するものだった。
「…そうね。こうするのが妥当じゃないかしら。今の所、一番状況が安定しているのは北方でしょう」
「南方は…宜しいのですか?」
政務長官の声に、僅かに気遣うような色が混じる。
それが自分の身を案じてくれているからだと気付き、クナルはようやく口元に微笑を浮かべた。
「シェイの事を言ってるのね。…大丈夫よ、私はそこまで子供じゃないわ」
言いながら認可の印を押す。
幼馴染であり、長く側にいたシェイを南方に配置するのは、実際の所辛い。だが、そんな甘えが許される程事態は楽観視出来る状況にないのだ。
「あの一族はシェイ以外にまとめる事は出来ないでしょう? …それに、きっとシェイもそれを望んでいるはずよ」
今も生死の知れない妹の生存を、シェイは頑なに信じている。きっと、心の内で自ら捜したいと思っているはずだ。
そして自分は…それを利用する。
「戦いに私情は禁物── だけど、理由がなければ戦えない人もいるわ」
「…なるほど?」
何か言いたげな顔をしつつ、政務長官は言葉をそれだけに留めた。そのまま印を押されたばかりの書類を受け取り、後は軽く一礼して黙って退出して行く。
その後姿を眺めながらクナルは自嘲気味に微笑んだ。
(…結局、私はあんなにも憎んだ『女王』と同じ道を歩いて行くんだわ)
誰よりも女王に相応しくないと思う、この自分が。
(あの人のように…再び喪う事を恐れて、何も愛せないまま……──?)
そこまで考えて、クナルはまるで夢から覚めたような顔になった。
先程自身が実質的な『女王』であると言われた時に感じた違和感を思い出す。
(再び? …違うわ。私はまだ、何一つ喪ってはいないはずよ)
そう思いながらも、長い事自分の中に絶対的な存在がいたような気もするのも確かだった。
今まで誰にも心から打ち解けた事などない。この心を支配した人間などいない。
そのはずなのに──。
『…それは夢だよ』
「…?」
誰かが囁いた気がした瞬間、クナルは思考の迷宮から引きずり出されていた。もう、何を思い悩んでいたのかさえ、あやふやになっている。
(…疲れているのかしら)
そう結論づけると、クナルは小さく首を振り、先程追加されていった書類に手を伸ばす。
問題は山積みで、やらなくてはならない事も考えなければならない事もいくらだってあるのだ。時間を無駄にしている場合ではない。
…そして一度開きかけた扉は再び閉ざされる。
一人の人間の存在と、その存在したはずの時間を封じ込めた何かは、今はただ傍観する。
── 時が満ちる、その時まで。〜終〜
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After Writing
ふーふーふー(T▽T)ようやっとvol.1が完結しました!
長かったなあ、本当に…何でこんなに時間がかかったのか自分でもよくわかりません(汗)
打ち直しなのに……。これは何処ぞでも書いた気がしますが、一度vol.2まで書きあがっています。
ただし、手描きで(^^;)
vol.1が書きあがったのは98年の1月23日らしいです。
うーわー、もう笑うしかないですねv
しかも修論そっちのけで書いたらしいです…ばかですね。この話はDate of Birthの『Bless you all the time』というタイトルと同名の曲からイメージして書かれた話で、キャラクターストック消費話その1でした。
なので、この話は主人公はいないくせにやたらめったらと登場人物がいます(^^;)
まだ半分も出ておりません(多分)
何しろ完全に出尽くすのが最終話のvol.4前半ですんで(マテ)
外伝でも書けばそれ以前に出るかなーという気もしますが、そこまでする予定は今の所ないので、覚えるのが大変かもしれませんが頑張って読んでやってください(おい)vol.1はまだ種まきの状態なので、何が何だかさっぱりーな感じも強いかと。
(最初からお亡くなりになっていたり、いきなり自殺を図ったりする人もいますしね…)
vol.2以降少しずつ謎も明らかになりますんで(汗)
少々お待ちくださいねvBack←