Bless You All The Time
別離 〜炎に消えた夜〜
空気を求めて開いた口に流れ込んだ煙に、激しく咽(むせ)る。
熱い。
焼けた空気が肌を焼き、目は生理的な涙が溢れて視界を滲(にじ)ませる。
…それは真夜中に突如起こった異変。
大半の者が眠りに就いている最中、一瞬にして燃え広がった炎が何処から来たのか、考える暇すらなかった。
ふと鼻先を掠めた異臭に目を覚ました時には、すでにその炎は部屋の中にまで侵入していた。
(早く、逃げなきゃ)
本能的にそう思った後は、夜着のまま部屋を飛び出す。
飛び出した先── 通路はすでに炎の海に変わり始めていて、遠くから悲鳴や怒声らしきものが聞こえるものの、周囲に人がいる気配はない。
選ぶ余地もなく、炎がまだ及んでいない方角へと足を進めたのだが──。
(外に出なければ…!)
そう思うのに、涙と煙に視界を遮られて思うように進めない。
記憶が確かならば、その辺りに階下へ続く階段があるはずだった。
息苦しさと熱さが思考を奪う。本当にその方向で正しいのか、不安なまま進めば、記憶の通り、確かに階段はあったものの、そこはすでに炎によって塞がれていた。
(…駄目だ)
他にも外へ出る方法はあるはずなのに── 恐怖と絶望は簡単に諦めを許した。
自分は、ここで死ぬのだ。
床にへたり込み、煙に咳き込み涙を流しながら、ぼんやりとそう思う。
自分の身を守ろうという、本能的な意志も浮かばなかった。代わりに思い浮かんだのは 、数少ない友人とそして──。
身の程知らずに、恋した人。
(最後に、会いたかったな…)
会話を交わすだけで満足していた。それだけでも十分、幸せになれる恋だった。
過去形なのは、最初からすべてを諦めているから。
── だから、いきなり腕を掴んで強引に立たされた時、見上げたそこに彼の顔を見て、これは夢なのだと思った。
「ルーナ、しっかりしろ!」
叱り飛ばすように呼ばれた名前に、はっと我に返る。
「逃げるんだ…案内する。走れるか?」
気遣うような表情で問われ、簡単に全てを諦めようとした自分を恥じる。
煙と高ぶった感情で声にならなかったから、代わりにしっかりと頷くと、彼は安心したように微笑み、そのまま自分の手を引いて逆の方へと走り始める。
炎の中を駆ける。ただ、ひたすらに外を目指して。
その間も熱や煙は容赦なく襲ってきていたはずなのに、不思議と熱さも恐怖も感じなかった。
右手に繋がれた手の感触は確かで、たとえ先を行く持ち主の背が時折煙に霞んでも、不安にはならなかった。
勢いよく燃え盛る炎は、時として壁となり行く手を阻む。しかし、先を行く彼には妨害物にもなり得なかった。
振り払うように手を動かすだけで、彼の魔力によって炎は沈黙し、彼等に道を明け渡す。
「あと少し…平気か?」
彼がこちらも見ずに尋ねる。
着いて行くのに必死で、言葉で返す余裕がなかったから、代わりにぎゅっと握った手に力を込めた。
意図は通じてくれたらしく、彼も握り返してくれる。
互いに無言で走って、走って── 走るにつれ、確かに炎の支配は薄れていった── どれ程に走った頃だろう。
不意に周囲から熱が消え、涼しく清浄な空気に包まれる。
「外だ…!」
そこには同じように炎から逃れてきたと思われる人々がいた。
焼き出されてきたせいで、皆、着るもの取りあえずといった姿だが、炎のお陰で夜でも顔の判別はつく。
無意識に視線を走らせ、知人がいるかどうかを確認し、見知った顔をその中に幾人か見つけてほっと安堵の息をついた時、ふっと視界が暗転した。
緊張の糸が緩んだのだろう。
── 思えば、それが間違いだったのだ。
その時繋いでいた手を離さずにいたなら…否、せめて意識を手放してさえいなければ。
…全くとは行かずとも、少しは迎えた結末が変わっていただろう。
目覚めた時、彼の姿は何処にもなかった。
あの後、まだ炎の中にいた可能性のある妹を救助すべく、彼が再び燃え盛る建物の中に消えた事を、自分同様に炎の中から逃げ出せた養父から聞いた。
炎は鎮まったものの、彼もその妹の姿も見えず、生きているのか死んでいるのかさえわからない、とも。
その日から、長い、長い、月日が流れて。
あの別れこそが、全てを決定付けていた事に気付く。
喪ったものがあまりに大きくて、どんなものでも代わりにはならず、耐える為にはそこから目を背けるしかなかった。
気付けばかつて、大事な人達と語った未来とは正反対の自分がそこにいて。
たとえ彼等が再び生きて自分の前に現れたとしても── もう二度と、あの頃には帰れないと思う。
あの日流した涙に、嘘はないけれど──。→Next