Bless You All The Time
邂逅 〜水の呼び声(1)〜
繰り返し、繰り返し。
子供の頃から事ある毎に語りかけられた言葉。
『お前はもう少し、何かに執着を持ちなさい』
それは孤児だった自分を拾い、育ててくれた人の口癖のようなものだった。
どんなに辛くても生きる事を諦めては駄目── 死ぬ間際まで、そう繰り返して。
けれど、私は思わずにはいられない。
もし…私が何かに執着する気持ちを持ってしまったら。…そして、もし、その対象を失ってしまったら。
私はきっと、その事に耐え切れずに、壊れてしまうだろう。
事実、私は一度、そのせいで大事な人を死に追いやった。
だから── 私は何も望まない、欲さない。何を失おうと恐れはしない。
たとえば、この── 自分の命すらも。+ + +
「兄さん。もう、戻りましょうよ。敵の気配もないし、ね?」
「じゃあ、お前だけ戻れ」
背後から言い募る言葉にそっけなく言い放ち、彼は黙々と緑の奥を目指す。
あまりの言い草に唖然とする妹の事など、明らかに眼中にない様子に、レアナの怒りは爆発した。
「…もうっ!! 戻れるならとっくにそうしてるってばっ!!」
噛み付くような言葉に、兄の足が止まる。
「わたしが方向音痴なの知ってるくせに! 意地悪っ!!」
「── うるさいぞ、レアナ。大体、最初から着いて来るなって言っただろうが」
いささかうんざりした気分で、彼── サフルはようやく妹に目を向けた。
「俺の言う事を無視して勝手に着いて来た挙句、今度は自力じゃ帰れない? 我侭を言うのもほどほどにしろよな」
「だ、だって…っ」
「着いて来た以上は少しは口を閉じてろ。集中が鈍る」
「だって、兄さん…敵に対する感応力ないじゃないの! だからわたしは心配して…っ」
今にも泣きそうな顔で言い募るレアナに、サフルは一つため息をつくと、
「ばーか」
呆れを隠さない口調で言い放つ。
本心からの心配にそんな言葉で返され、思わず絶句する妹に対し、兄はさらに容赦ない言葉を重ねた。
「お前、俺の妹やって何年だよ。俺は感応力がないんじゃなくて、逆にあり過ぎるんだ」
「で、でもでも、この間すぐ近くに敵がいたのにわからなかったじゃない!!」
「だからな? あまり近くだと感覚が麻痺してわからなくっちまうだけだって。たとえ囲まれても、余程の相手じゃない限りは俺でも何とか出来るから心配すんな」
最後の言葉でレアナもぐっと詰まる。
実際、生まれ持った能力の精度はレアナの方が若干上でも、こと戦闘能力に関しては兄の方がはるかにある事は自覚している。
…今まで、何度も二人で危機を潜り抜けてきたのだから。
「ほら、わかったならさっさと本営に戻れ。ここから真っ直ぐ南下して、大岩にぶつかったらすぐ右手だ。間違っても逆に進むなよ? お前も気付いてるだろうが、敵が…十人くらい動き回ってるからな」
しまいにシッシ、と虫か何かを追い払うような仕草までされて、レアナはふるふると怒りで肩を震わせた。
こういう人なのは知っている。口や態度の悪さはもはや生まれ持ったもので、ちょっとした気遣いが出来るような人ではないという事は。
── 長い付き合いなので、その裏側で自分を心配してここから遠ざけようとしている事はわかっても、もしやそれは単なる思い違いではないかと思ってしまう。
「ひ、人がせっかく…っ」
「レアナ、その表現は間違ってるぞ」
それでもまだ何か言い募ろうとする妹に、サフルはにやりと笑った。
「…?」
「俺達は── 『人』じゃないだろ?」
虚を突かれ、きょとんと目を丸くするレアナをそこに残し、この隙にとばかりにそのままサフルは緑の中に姿を消す。
はっ、とレアナが我に返った時には、すでに兄の気配は周囲から消え失せていた。
「…ひどいっ、お兄ちゃん!」
無意識に子供の頃の呼び名に戻って、声を張り上げる。
どうせ、あの兄の事だ。気配は断ってもまだ近くで自分の動向を見ているに違いないのだ。
「死んじゃえ、ばかあっ!!」
あえて挑発するように叫んでみるものの、やはり何の反応も返って来なかった。緑と同化した気配は、レアナにすらもう掴めない。
「…気をつけてね」
小さく諦めのため息をつくと、レアナは呟きを漏らす。小さな消え入りそうな声。けれど、兄になら届くだろう。
「わたし達は確かに『人』なんかじゃないけど…死ぬ時は死んじゃうんだからね…?」
たった一人の肉親── ずっと一緒に助け合って生きてきた。
喧嘩はいつもの事で、今みたいにひどい扱いをされる事もたまにあるけれど、それでも本心から嫌ったりは出来はしない。
結局、最後は無事を祈る。
「無事に帰ってきてね。やっと、逃げも隠れもしなくていい場所を手に入れたんだから……」
声は返らない。けれど少し離れた所から、まるで返事のように兄の気配が一瞬生じる。
その事に安堵して、レアナは周囲の気配を探りながら、元来た道を── ようやく得た『居場所』に向かって引き返し始めた。+ + +
レアナを置き去りにするような形で別れた後、サフルはさらに森の奥へと足を進めた。
日頃なら、妹に対してここまで邪険にはしない。からかい半分に暴言を吐く事はあるが、それも一種の愛情表現である(レアナにはいい迷惑だが)。
それほどに、今日の彼はレアナに構ってられるほどの余裕がなかった。詰まる所、苛立っていていたのだ。
(何処だ…?)
神経を尖らせ、周囲を探る。
鋭い感覚によって張り巡らされた感知の網に引っかかるものは、今はまだない。ない── のだが。
(何なんだ、一体!!)
二日程前から感じ始めた不可解な感覚。
一緒にいたレアナは感じておらず、自分だけがそれを受け止めているらしいと気付いたのは昨日のこと。
最初は気のせいだと思っていた。
それほどに…勘違いで片付けられそうな程に、それ自体の存在感は薄かった。
確かに存在はするようなのに、探ろうと手を伸ばせばするりと霧散する、そんな希薄さ。
正体がわからないまま二日も過ぎて、元々短気な所のあるサフルには苛立ちの限界が来ていた。
数日前から続いている戦闘も一旦落ち着いた事もあり、こうなったら自分から近づいて正体をはっきりさせてやろうと、本営を飛び出したのが数刻前のこと。
(…何でこんなに苛つくんだ)
ため息をつきつつ、自問する。
その感覚自体は、決して不快なものではない。いや、むしろ今まで感知してきたものに比べれば快いさえ言えるほど、触れる事に躊躇を感じないものだ。
ただ── 奇妙なだけだ。
他者の感情や、時として思考までも感じ取る能力を持って生まれ、今までに数え切れないほどの感情に接してきたが、ここまで変わったものは初めてだった。
…だから、無視出来ないのかもしれない。
たとえるのなら、それは『水』に似ていた。
掬(すく)う先からするりと逃げて、暖かいようでいて冷たい。包み込むような穏やかさと、全てを拒絶するような激しさが同居する。
細い、細い── 今にも消えてしまいそうな感情の糸。たぐり寄せた端から消えてゆく。
これが人のものならば、一体どんな人間なのだろうかと思う。
「…ばかみてえ」
自分の行動を顧みて、サフルは苦笑した。
気にしなければいいのだ。いつものように、選んだ対象── 自分達に敵意を持つ者以外を感じないようにすればいい。
…なのに。
「…ちっ」
しかし、呼ぶのだ。消えそうなのに、確かに『呼んでいる』のがわかるのだ。
ばかばかしいと舌打ちしつつ、しかしサフルの足はさらに奥へと進む。緑の迷路を進むその足に迷いはない。
『人』が畏怖をもって《魔の樹海》とまで呼ぶそこは、サフルにとっては庭のようなものだ。
ここで人目を避けて生きてきた。ここでしか、生きられなかった。…だから。
『その力、私に貸してくれないか?』
不意にその言葉を思い出す。
何故、今、昔の事を思い出すのかと思えば、その時と少し状況が似ているからだと思い至った。
あの時も── 自分を呼ぶ『声』に興味を引かれて、声の持ち主を探した。
『私があなた達に生きる場所を与えよう。逃げ場所ではなく── 本当の居場所を』
…その言葉に出会わなければ、自分とレアナは今もまだこの樹海の奥で、隠れるように生きていただろう。
自分達は呪われた『いらない子供』だと信じたまま。生まれた事を罪だと思い込んだまま。
「…!」
不意に視界が開けた。目前に現れたのは小さな泉。それを目にして、サフルは目を見開いた。
水の気配はとっくに感じ取っていた為、驚いたのは泉の存在に対してではない。
泉の中央── 本来ならば沈んでいても不思議ではない場所に、一人の人物が『立っていた』からだ。