リ ス


 美しさとかそういうものでなくても、印象に…心に残る何かがあるのだと、その時生まれて初めて知った。
 たとえばそれは、夢の中でみた風景。
 たとえばそれは、物語の中で語られた人物。


 ── たとえばそれは、記憶にすら残らない、出会いの残滓。

+ + +

 底がない、というのはこういうものかと思えるような、雲一つない空だった。
 透き通っているような、どんなに手を伸ばしてもすり抜けてしまうような、深い青。容赦なく照りつける陽光の下で見上げると、余計に遠く感じられた。

「…どうしたの、立ち止まって」

 先に立って歩いていた女が、突然立ち止まった彼に気付いて足を止める。
 灼けた大気が、びゅう、と二人の間を駆け抜けた。

「── 疲れた」

 やがて、ぼそりと彼の口から出てきた言葉に、女はその細い眉を心もち持ち上げた。
 ── 女はまだ若い。
 見た所十代後半、二十歳は超えているようには見えない。
 しかし、陽射しを遮る日除けの布の下に覗く鉛色の瞳は、その外見を裏切り、老成したような輝きを帯びていた。
 総括すれば、年齢不詳。だが、文句なしの美人である事はおそらく確かだった。
 長い銀髪を結わずに流し、肌を隠したその姿は、何処か禁欲的な高潔さすらも感じさせる。
 …つまり、近寄りがたい雰囲気がある訳なのだが。
 もうかなり長い事、陽射しの下を歩いているのに、汗一つかかいていない。その白い肌には、熱気に中(あて)てられた気配すら欠片もなかった。
 その涼しげにすら見える表情が、やたらと腹立たしい。

「何であんた、そんなに涼しい顔していられるんだよ!? もう、半日ずっとろくに日陰もない場所を歩いているってのに!!」

 怒るのはお門違いなのは重々承知していたものの、彼は噛みつかずにはいられない。
 どう見比べても、成長期真っ盛りの彼── ちなみに年は今年で十六だ── の方が体力があるに決まっている。
 彼はある意味、戦士系の職業なのだし、対する彼女は魔術士系の職業で、肉体労働には向いていないはずなのだ。
 …世の中にはどうみても歴戦の戦士もかくやという姿なのに、『非力』の代名詞とも言える魔術師だったりする人間がいない訳ではない。
 だが、それは例外的なもので、大体が頭脳派の人間は、肉体派人間より体力が劣ってしかるべきなはず。
 ついでに、男女の体力差というものだってある。
 やはり、世の中には男顔負けの体力を誇る戦士の女性が、いない訳ではない。というか、思いのほか結構いる。
 でも、彼の同行者はそうした女性達とは対極にあるような、細身でか弱そうで、守ってあげねばならない感じで── 今回のような強行軍では、始まって早々根を上げても不思議ではない様子なのだ。
 理不尽だ、と彼は思う。
 彼としては、普段お目にかかれないような美女である彼女の手前、弱音など吐くつもりはなかったのだ。
 でも── 蓋を空けてみれば、彼女は化け物並みの体力を見せ、彼の方が先に根を上げている。
 そんな彼の複雑な男心を知ってか知らずか、彼女は軽く首を傾げた。

「でも、急いで戻らなければならないでしょう? こんな暑い場所では、腐ってしまうわ」

 と、至極もっともな事を、そしてさりげなくえげつない事を、耳障りの良い涼しげな声で言い放ってくれる。

「ぐっ」

 そう言われてしまうと、まさにぐうの音くらいしか出ない。
 そして彼は自分の背にある、小さな皮袋の中身を思い浮かべる。それには彼には理解不可能な文字と紋様が描かれてあった。
 術である。それも── 腐敗防止の。
 沈黙した彼を面白そうに見つめて、女は微笑する。どきりとするくらい、綺麗な笑顔だ。
 ── これで、普通の人間であれば、きっと彼は彼女に惚れていたに違いない。
 そう、仕事の依頼内容を知って、それでも涼しい顔をして彼と同行し、『証拠』に腐敗防止の術を当たり前のように施すような女でなかったら。

「…でもさ、やっぱちょっと休憩しよう。半刻くらいなら、問題ないだろ?」

 それでも自分の疲労の度合いを鑑みて、彼はそう口にした。

「それとも、そんなに一刻を争う程、術の効力が弱いのか?」

 そんな訳はないだろう、と思いつつも言った言葉は、口にしてみると何だか嫌味のようだった。彼は内心慌てたが、彼女はくすりと笑って首を振る。

「いいえ、術自体はあと一年先でも腐らないようなものよ」
「……」

 返って来た言葉に絶句する。
 そうとわかっていたら、こんなに無茶な強行軍なんてしなかった。夏という季節、『証拠』の状態からそうしたのだ。
 何だか急に目の前が真っ暗になりそうな気分になった。

「── そういう事は先に言えよ!!」

 自分も確認しなかった事を棚に上げて、彼は爆発した。そのまま、どっかと地面に座り込む。

「あー、急いで損した!!」
「…でも、グリムス? 術自体はそうでも、急ぐ必要性はあるんじゃないかしら」
「あ?」

 もはや完全に休む気満々の彼に、彼女は困ったような顔で言う。

「だって── あなたが仕事をした相手、一応、一国のお偉いさんよ?」
「それが?」
「当然、追手がかかるのも時間の問題じゃないの?」

 女の言葉に、彼の目が丸くなる。

「え? だって、俺、証拠なんて何も残してないぜ??」

 困惑に眉を寄せる彼に、彼女は呆れたような目を向けた。

「…という事は気付いてなかったのね」
「── 何に」

 一瞬、ひやりとしたものを感じながら、彼は昨夜の仕事内容を思い出していた。
 警備兵の隙を突いて潜入、そのまま問題の人物の寝室に行き、寝ている所を──。

「…あの大臣、身を狙われているって自覚があったみたいね。かなり不眠症状態だったんじゃないかしら。眠る為に薬を使うにしても、次の日に支障が出かねない…だから」
「まさか」
「そう、そのまさか。彼はお抱えの術士に術をかけてもらったのよ。眠らせるだけなら、最低ランクの魔術師でも出来る事よ。そして術の対象である人間が死ねば──」
「── だからそういう事は早く言えって!!!」

 跳ね起きるように立ち上がり、彼は猛然と歩き始める。
 まだ疲れは取れてはないが、ここで進んでおかなければ危険だ。何しろ、彼等が歩いている場所は周りに小さな村落がいくつかある程度の荒野である。
 この上もなく目立つ容貌の人間を連れた自分が、印象に残るのは目に見えている。
 こうなったら出来るだけ早く大きめの街へ辿りつき、追手を混乱させねば。

「…聞かなかったくせに」

 ずんずん先へと歩いて行く彼にぽつりと呟き、彼女もまた彼の後を追って歩き始めた──。

+ + +

 彼が女を顔を合わせたのは、今回の仕事について父親に呼び出された時の事だ。
 彼の父親はとあるギルドを管理するギルドマスターで、それなりに顔が広いとは思っていたが、まさかまったく畑違いの魔術師に知り合いがいるなど、それまで思いもしない事だった。

「グリムス、話は聞いたか?」

 彼の姿を見とめると同時に、表情の読めない目を向けながら父親が尋ねてきた。
 父親の言う『話』が、彼の請け負った仕事に関してだと理解した彼は頷き── その時、ようやく父親の背後に見知らぬ人間が控えている事に気付いた。
 小柄だが、すらりと均整の取れた肢体。それから、長い髪。まず目に付いたのはそうした事だった。
 それから彼女の容貌の類稀さに気付き、彼は一瞬目を疑った。
 今までそれなりに『美人』と呼ばれる女達を見てきたが、彼女はそのいずれとも比べ様のない、ある意味、感銘的な美しさを持っていたのだ。
 まずはそちらに目に行ってもおかしくはないのに、そうならなかった。つまり── それだけ、彼女には存在感というものが希薄だという事だ。
 そんな彼の動揺を知ってか知らずか、父親は突然彼にこう言った。

「今回がお前の初仕事になる。本来なら一人で全てを終わらせるべきだが── 今回は彼女に同行してもらう事になった。何か困った事があったら助けてもらえ」

 それは、まるで彼を半人前だとみなしているようで、彼の癇に障った。
 だが、父親である前に、ギルドマスターである人物の言葉に、逆らう事など出来はしない。
 渋々了承した彼に、そこでようやく彼女が声をかけた。

「わたしの名はティシル。…魔術師よ」

 そう言って微笑む顔を見た瞬間、怒りを忘れたのは事実。でも、それは一目惚れにまでは至らなかった。
 ── 何故なら彼女はその後、平然とこう、のたまったのだ。

「あなたの足手まといには、決してならないから安心してね」

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