リ ス


 どうにかこうにか、いくつかのギルドを擁する街へと辿りついたのは、その日の夕刻だった。
 あれからほとんど休まず歩いたせいで、流石の彼もしばらく喋れない有様だった。
 対する彼女── ティシルは、やはり涼しい顔をして物陰にへたり込む彼を見下ろしている。
 顔を合わせた時に言った言葉を思い返しながら、彼もその目を睨むようにして見返した。

「…何?」

 物言いたげに見上げる目に、彼女は不思議そうな顔で尋ねてくる。

「── あんた、化け物か……?」
「失礼ね」

 心底そう思っていった言葉に、女は苦笑めいた笑顔で答える。
 普通の女なら、ここで怒りの鉄拳の一つくらいお見舞しそうなものなのに、彼女は怒りもせず微笑むばかりだ。
 一緒に仕事をする事になって、しばらく一緒にいる訳が、やっぱりこの女は掴めない。
 父親の知り合いである事、結構なランク持ちの魔術師らしい事くらいしか、彼女の事は知らない。
 名前は教えてくれたが、本名なのかも何となく怪しいと思う。
 自分の名前が、あくまでも『呼び名』に過ぎないからそう思うのかもしれない。自分…いや、自分の属する場所において、『名前』ほどどうでもよいものはない。
 普通は逆なのだそうだが、生まれた時からそういう場所で育ったので、今後いきなり名乗る名前が変わっても、おそらく何の感慨も抱かないだろう。

「ここにもギルドがあるの?」

 やがて彼女が尋ねてくる。

「あるの、って…知らないのか?」

 意外だった。
 彼女は旅先では驚くべき知識を披露して、彼の度肝を抜いたものだ。
 この国の何処にどんな場所があって、何処にどんな人間が住んでいるのか、そんな些細な事までも。
 すると彼女は薄く笑って肩を竦めた。

「いくらわたしでも、世界の全てを知りはしないわ」
「…そりゃ、そうか」

 言われてみれば正論である。なのにどうして、そんなに不思議に思ったのか、自分でもわからず彼は笑って誤魔化した。

「ここにあるのは、普通の魔術士ギルドと商人ギルドだけだ」
「じゃあ……」
「── でも、それだけだったらここへは来ないさ」

 何か言いかけるのを遮るように、彼はにやりと笑って言い放つ。
 一瞬、彼女は目を丸くし── やがて、ふ、と表情を緩める。

「なら、やっとその荷物から解放されるの?」
「ああ、やっとな」

 大仰に頷き、背に背負っていた皮袋を腕に持ち替える。
 見た目よりもずしりと重いが、物が物だけに背中に背負いっぱなしというのも気が引けたのだ。

「やっと、このオヤジの首とかオサラバだぜ」

 やれやれ、と呟く彼に、彼女は穏やかな目を向けている。その様子に、やはり変な女、という認識が深まる。
 そう── 彼は主に暗殺を請け負う闇ギルドの人間なのだ。
 物心つく頃から、人の何処をどうしたら死ぬのか、何処が急所なのか、そうした人の命を奪う術を叩き込まれてきた。
 気配を断ち、迅速に行動に移す。証拠を残す事無く、一度の機会を無駄にしない。
 そうした事ばかりに囲まれて生きてきた人間なのだ。
 そういう事が他と比べてどんなに異常な事なのかも、彼は知っている。
 ギルドマスターの父親曰く──『理性のない殺しはただのイカレた殺人鬼』。
 彼等は『人を殺す』事が仕事なのだ。
 普通の人間が自らの仕事に誇りを抱いているように、彼等にも彼等なりのプライドがある。
 しかし、そんな事を言っても、世間一般で言えば犯罪者でしかない。そんな彼に、女はまったくの自然体で接してくる。
 …それどころか、その仕事を手助けまでして──。

「なあ…あんた、何者なんだ?」

 突き動かされるように、その質問が口をついて出た。
 彼等と同じ世界のにおいのしない、けれど彼等を対等に扱う彼女に興味を抱いた。

「どうして…あんたはそんなに平然と俺達に関われるんだ?」

 ── 彼女は実際、その手を汚してはいない。
 仕事をしていた間も、警備兵の意識を断ち、寝室へ誰も近づかないようにしていただけだ。
 けれど、端から見れば明らかに共犯者に思われるだろう。
 すると彼女は、少し淋しげな笑みを浮かべてぽつりと言った。

「…人が、同じ人を殺す業を背負ったのが、わたしのせいだからよ」
「── は?」

 言われた事を理解出来ずに目を丸くする彼に、彼女は何処か真剣な目で語る。

「昔、人は無垢だった。ものを知らず、道理もわからず…それでも純粋な生き物だった。でも、ある時…その純粋は汚された。無垢だったが故に、人は闇を受け入れ、抱え込んでしまった。その…闇をこの世界にもたらしたのが、わたし」
「…おい、何を言って……」
「昔、あなたのお父さんが言ったわ。『どうして人は人を殺せるのだろう。殺したい程に人を憎めるんだろう。…憎しみもないのに、俺は人を殺せる。どうしてだ?』…苦しんでいた。そしてその苦しみは、皆が抱えている。それは、闇が生まれなければ決して生まれる事のなかった苦しみ。── だから」

 そして、彼女はにこりと笑う。
 しかしそれは、何処か泣いているように彼には思えた。

「わたしは彼と── あなたのお父さんと約束したの。もし、わたしの力を必要とする時があったら、必ず手助けすると。同じ罪を一緒に背負うと。…けれど、彼はわたしを呼ばず、呼んだのは自分の息子…あなたの初仕事を見届けさせる為だった」

 気がつくと、彼女の身体が燐光を帯び、ゆっくりとその色彩を変えていた。
 銀の髪が、磨いたように白い輝きを持つ白銀へ。
 元から白かった肌は、更に透明感を増し、人間味をなくす。
 そして鉛色の瞳が──。

「…約束は果たされた。グリムス、あなたの行いをわたしは共に背負いましょう。わたしだけはあなたが本当の意味で罪人でない事を知っている。だからもし── もし、あなたが人を殺す事で苦しむ事があったら、わたしを呼びなさい」

 そこに立っていたのは、化け物じみた体力を持った魔術師の女ではなく、彼でも知っている御伽話の中の存在。

「…て、天精……!?」

 化け物どころか、伝説の存在を目の当たりにして、彼は口をぱくぱくさせる事くらいしか出来なかった。
 そんな彼の状態に気付いていない訳でもないだろうに、彼女は淡々と言葉を重ねて行く。

「あなたの苦しみの根源を取り除く事は出来ないけれど── 苦しみを生み出す記憶からは救ってあげられる」

 虹色の色彩を持つ瞳を彼に向けて、森羅万象を司るという精霊は静かに告げた。
 その瞬間、彼は冗談じゃない、と口走っていた。

「俺の記憶は俺だけのもんだ! …呼ばないさ。俺は一生、あんたを呼ばないよ。そんな事をしてもらう義理はねえ」
「でも……」
「でも、も何もねえよ。大体、あんた何様だよ。俺が人を殺すのは仕事だからだ。それ以外の何ものでもない。別にあんたのせいで、そんな事やってる訳じゃないぞ」

 言っている間に、どんどん腹が立ってきた。
 実際、彼女の言葉の半分も彼は理解出来ていなかった。けれど、これだけはわかる。
 たとえ── 本当に彼女のせいで人が誰かを殺せるようになったのだとしても、自分がこうしているのは、あくまでも自分の意志なのだ。
 別に楽しい訳でもないし、人に自慢出来る類の事ではない。
 けれど…自分はこれしか出来ないのだ。その為に毎日、いろんな訓練をこなしてきた。

「何に対して責任を感じているのか知らないけど、勝手に罪悪感を抱かれてもこっちが困るんだよ。だから…きっとうちの親父もあんたを呼ばなかったんだろうさ」
「…グリムス……」

 彼女は信じられないような顔を彼に見せ── やがて微笑を浮かべた。
 その瞬間に、作り物じみてさえ見えていた完璧な美貌が柔らかなものへと変わる。その微笑は、それまで彼女が見せていたどの笑顔よりも綺麗だった。
 ── 思わず、彼が目を離せなくなる程。

「そうね……。あなた達はいつもそうやって乗り越えて行く。短い命を、精一杯生きて行く。どんなに絶望しても、立ちあがる力を見せる。だから── わたしはあなた達に惹かれるんだわ」

 その身体がふわり、と浮く。
 彼女が去ってしまうのだ、と本能で理解して、彼は反射的に立ちあがり彼女の腕を掴んでいた。

「…グリムス?」
「言いたい事だけ言って消えるんじゃねえよ。…いいか、俺は絶対にあんたを呼ばない」

 彼女の目に、少し悲しげなものが過(よぎ)る。
 そんな顔をさせたかった訳ではなかった彼は、口早に言葉を継いだ。

「でも、それは記憶を消してもらう場合に限ってだ。…もし、それ以外であんたに会いたくなったら、呼ぶよ。だから会いに来てくれるか?」
「……! ええ、もちろん」 

 彼女は嬉しそうに笑い、そしてその手で彼の頬に触れた。
 きっと冷たいだろうと思っていたその手は、実際にはずっと暖かくて、彼を驚かせる。
 そんな彼を虹の瞳に映して、彼女は告げた。

「さようなら。…また、会いましょう」

 そして額に柔らかな感触を感じたと思った瞬間── 彼の視界は真っ白に染まる。
 今にもその白に飲みこまれそうな意識の中、彼は確かに彼女の最後の言葉を聞いた。

「私の名は…オーリア。ティシルも全く嘘の名ではないけれど、呼ぶならこちらを呼んで頂戴」

 何処か笑いのにじんだ声に、やっぱり偽名を使ってやがったか、という感想を抱いたのが最後。
 そのまま彼の意識は、圧倒的な白い光に飲み込まれて行った。

+ + +

 ふと我に返ると、彼は一人、路地裏に突っ立っていた。
 片手に今回の仕事の『証拠』である首の入った袋を持ち、もう片手で宙を掴んでいる間抜けな格好で。

「……」

 しばし自分の状態を分析し、彼はまず誰も見ていない事を確認した。
 周囲に鋭く目を走らせる── 誰もいない。

「……えっと」

 姿勢を正し、彼は首を傾げた。
 今── 自分は何をやろうとしていたんだろうか?
 確か、仕事が無事に終了した証を、この街に支部を持つ、自分の属するギルドに持っていこうとしていたはずだ。
 なのに、どうして。
 だが、考えてもどうしても思い出せない。
 周囲はすっかり夜の闇に溶けこんでいる。昼間の焼けつく大気が、一気に冷めて行く。
 混乱しながらも、彼は取りあえず目的を果たすべく、そこを後にした。
 一人で仕事をしたはずなのに、何故だか妙に心許ない、側に誰かいたようなそんな違和感を感じつつ。
 ふと何かに誘われるように見上げた夜空に、大きな月が見えた。
 そして…彼はその目を極限まで見開く。

「…虹?」

 細く、うっすらと頼りないものだったが、それは虹のように見えた。
 雨が降った訳でもなく、しかも太陽の下ですらないのにも関わらず、そこに緩やかな弧を描いたものが確かにあった。

「夜の、虹……」

 ごくごく稀に起こるという話だけは、彼も聞いた事があった。
 しかし、このような乾燥しきった、絶対に虹など起こり得ない状態で見えるというのは普通ではない。
 こういうのを、何と言うんだったか。
 そう思い返した脳裏に浮かんだのは、一つの言葉と何故か鮮烈に思い出した虹の色。

「── そうだ、こういうのを…『天精』って言うんだっけな」

 つまり、『有り得ない存在』という意味だ。
 異常気象や通常起こるはずのない現象を表現するのに、そう言うのだ。
 天精とは御伽話の中だけでの存在。実在したという話を聞いた事だってない。だから、人々はそう喩える。
 森羅万象を司る天精の悪戯なのだ、という含みと共に。

「……?」

 けれど、そういう意味だけで『天精』という言葉を口にした瞬間、彼は自分の胸が微かに痛むのを知覚した。
 原因すらもわからない。ただ、何に対してそう思うのか、『切ない』という気持ちだけが湧き上がってくるのだ。

「何だ? これは」

 思いきり顔を顰め、しばらく考え込む。だけど、結局何も思い当たる事はなかった。
 ため息をついてもう一度見上げた空には、先程までは確かにあった虹が消えていた。
 痕跡すら残さず、まるで本当に幻だったかのように。

(── 幻?)

 そうだろうか、と彼は思った。
 見間違いだったとは、どうしても彼には思えなかった。周りに人影はなく、目撃したのも彼だけだった可能性もある。
 自分しか証人のいない状態で、一体どうやって、この奇妙な現実味のない事を信じればいい?
 見間違いだと片付けた方がよっぽど健康的に決まっている。
 …なのに。

「…いや、俺は確かに見た」

 実際に言葉にして言い切る。自分に言い聞かせる。
 あの虹は、確かに現実のものだったのだと。そして、その虹を見た瞬間に抱いた感情も、勘違いなどではない、絶対に。

「何だかわからねえけど…忘れないさ」

 今夜見た虹の事も。説明のつけがたい感情の事も。
 ── そうする事が間違いではないと、彼の本能が告げている。この勘はきっと信じていい。
 彼は手にした皮袋を持ちなおし、今度こそ歩き始める。

「…忘れない」

 ぽつりと誰かに聞かせる訳でもなく呟いて、彼はそれきり黙って闇の奥へと消えて行く。
 彼が去った後、そこに風が誰かの言葉だけを運んだ。


 …ありがとう……

+ + +

 忘却の彼方へと封印された一つの約束が現実のものになるのは、これからずっと後の話。
 今は天の高みから光を落とす月が、全てを見届けるばかり──。

〜終〜

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After Writing

えーと、これはかなり以前に書いたものの(一年半くらい前かな?)、『人の命を奪う事』に罪悪感を感じない、むしろ職業意識すら持っている少年が主人公の為、長い事お蔵入りしていた話です(^^;)
加筆修正をかけても良かったのですが、あえてあまり手を入れていません
書いたのが『堕天』本篇を書くつもりも予定もなかった頃の事ですので、そのままお蔵入りでもいいやと思っていたのですが、取り合えず書ける所まで書いてみようかと少し考えが変わりまして、蔵出ししてみました

この話は直接的ではないですが、本篇に関わってくる話なので
この世界において、人が争い、傷つけ合う事は、全て『原因』がある事になっています
言うならば「性善説」の世界なのです(本来は)
現実世界よりも、善と悪は複雑ではありません

言うまでもない事ですが、私自身はどんな理由があっても『人の命を奪う事』を『やっていい事』とは考えておりません
世の中にはたくさん、人を殺す物語が存在します
必然性のない死が当たり前のように書かれている話もあります
私はそうした作品でも作品として面白ければ普通に読むし、否定もしません
この話以外の私の話にも、結果としてそうなる物語がいくつか存在するのも事実です(「人形〜」などがそうですね)

でも別に好き好んで書いているわけではないのですよ、と言っておきたいわけです
現実は小説の世界ほど、単純でも甘くもないので(だからあまり書きたくない)、実際の『死』はこんなに軽くはありません
そんな事は言われなくてもわかっているよ、と言われてしまいそうですが、うちのサイトはかつて小学生の方もいらっしゃっていたので(その方は今じゃ高校生くらいかな・笑)一応、一言書かせて頂きます