その日、彼──
バートンは非常にツイていなかった。
否、普段からツイているとは言いがたいのだが、この日は常になく災難ばかりに遭っている。
まず、朝起きてみると外は大雨だった。
彼はこの街道沿いの小さな街で露天商をしている為、朝から雨ともなると今日の商売は上がったりなのである。
だが山間に位置する土地柄、天候は変わりやすいものだし、自然のする事に文句をつけても意味がない。
バートンはすぐに今日の商売は諦め、いつもはろくに食べない朝食を作る事にした。
…が。
普段しない事をしたせいだろうか。慎ましいとしか言い様が無い食卓に、片面黒焦げのパンケーキが並ぶ事になった。
湿気があるせいか、それとも別に理由があるのか。どうやら、かまどの調子が良くないらしい。
それでも自分以外の誰かに出す訳ではないので、彼はもったいないとその全てを完食したのだが。
…途中、何だか妙に酸味があるな、と思った時にやめるべきだったのだろう。どうやら使った卵が腐りかけていたらしく、見事に腹を下してしまった。
なお悪い事に、この手の事は彼にはよくある事だった為、腹痛に効く常備薬が丁度切れていたのだ。
しばらくは耐えていたのだが、次第にそうは言っていられないような感じになってきてしまったので、仕方なくよろめきながら降りしきる雨の中、薬を求めて出かけたのだが──
極めつけの出来事が、今、彼の目の前で起こっていた。
『田舎の母が病気になったので、勝手ながらしばらくお休みします』
「……」
ようやく薬草を売っている、行きつけの雑貨店に辿り着いたと言うのに、よりにもよって店主が不在とは。
だが、ここで不平不満を言った所で何が変わるだろう。
それに薬草を扱っている店は、ここから少し離れている所にもう一件ある。
バートンは前向きに考え、すでに雨か脂汗かわからないものが流れる額をぐいっと拭った。
── そう、彼は先日雨具も乾かそうとしてうっかり燃やしてしまうという、実に笑えない事態で失ったばかりだった。
多くの人はこれだけの事が目覚めて数刻で起これば、自分はなんて不幸なんだろうと思ったに違いない。
だが、彼の最大の不幸はそうした『不幸』がそう珍しい事ではなく、むしろ日常的に起こる事だった。
人間とは不思議なもので、どんな困難な状況でもいつしか慣れる。バートンも例に漏れず、そんな普通とは言いがたい日々を普通に受け入れていた。
そんな彼の事を、かつての学友達は敬意と哀れみを込めてこう呼んだものだ。
キング・オブ・アンフォーチュン。
すなわち、『不幸の大王』と──。
だが、本人が平然としているからと言って、気軽に呼べる渾名(あだな)でもない。大抵の人々は、短縮形の『キング』と呼んでいたものである。
…もっとも、裏事情をよく知らない彼は、自分には過ぎた渾名だと思っていたのだが。
その呼び名も、彼が《探求の館》で紆余曲折の果てに何とかストーンマスターとしてのランクを手にして卒業した事で、聞かなくなって久しいものだった。
そう、彼が腹痛に苦しみながら、目的の店へ向かおうとした矢先──。
「あああっ!? もしかしなくても、やっぱりキング? キングじゃない!!」
…と、あたかもそれが彼の名前であるかのように、聞き覚えのある声が近くから聞こえた時までは。
+ + +
地方都市ルーベン。
東の大国ダイナストに接する小国、ザラートを東西に分断するように存在するジフタ山の西側の山裾に位置する小さな街である。
ザラート国内の流通を左右する街道沿いにありながら、素朴な景観を有する──
すなわち、それなりに田舎という訳だが──
街として周辺に知られていた。
主な特産品は薬草とその加工品で、周辺の山地は水はけもよく日当たりも良好で、実に多種多様の良質な薬草が採れる。
それを目当てにやって来る者も少なくない為、長閑な景観の割りにそこそこに活気のある街だ。
「…今日はここで足止めかあ……」
雨宿りに入った店の軒先から降りしきる雨を恨めしげ見つめ、ディリーナはため息をついた。
一応、まだ宿は押さえている。だが、予定では今日にも次の拠点となる場所へ向かうつもりだったのだ。
しかし、この様子では今日一日は雨模様のようだ。先ほどから降っては止みの繰り返しである。
ディリーナがルーベンに到着したのは、昨日の昼下がりの事だった。
先を急ぐ旅ではないが事情が事情である。一刻も早く目的を果たして故郷に戻ろうと考えるディリーナにとっては、この雨は憎らしい以外の何物でもない。
小さくため息をつくと、それにしても、とディリーナは周囲を見回した。
以前も一度この街には来た事があるが、その時とほとんど変わらない佇(たたず)まいに仄(ほの)かな懐かしさを感じる。
前にここを通ったのは、五年は昔──
急な両親の死によって《探求の館》を中途で辞めて故郷へ帰らねばならなくなった時だ。
その頃に比べると、自分も随分と旅慣れたものだと思う。
仕事で各地に足を伸ばす事もあるが、これまでは大体長くても半月ほどで終わる仕事ばかりだったので、加盟しているギルド《フォルク》がある街・カーラムから離れる事は滅多になかった。
だからこそ、今回の旅はかなりの重装備で望んだのだが、あれもこれもと持ち運んでいた当初に比べ、一月が過ぎようとしている今は必要最小限のものだけになっている。
別に旅慣れたいと望んだ訳でもないし、おそらく切っ掛けでもなければ、こうして遠方まで旅をする事などなかった気がする。
お陰で、と考えると腹立たしいが、マジックハンターとしての経験値を上げるという点に関しては、今回の旅は結構役に立っていると言えた。
今日の内に出発出来ないとなると、やれる事は限られている。
周辺の情報を仕入れに行くか、宿に戻ってぼんやり過ごすか。あるいは装備を見直して、何か補充する必要がないかを確認するか──。
しかし、この雨では買い物をしても荷物が濡れてしまったりと良い事はなさそうだし、このルーベンには魔術士ギルドが存在しない。
あるのは薬草関係を専門にする商人ギルドで、まったく入ってこない訳ではないが、ディリーナが求めるような情報が入ってくる可能性は低い。
いろいろ考えて、結局は二つ目の選択肢──
戻って寝る、が一番良いように思われた。
過去に来た事があっても、一晩滞在した程度でろくに街の事は知らない。
晴れていれば、散策がてらうろついてみるのも良かったかもしれないが、この雨ではそんな気も失せると言うものだ。
(…まあ、雨だし。たまにはいいでしょ)
そんな風に自分に言い訳をして、少し小振りになったのを幸いと宿に戻ろうとした時だった。
「…ん?」
雨宿りに軒先を借りていた武器屋の斜め向かい、雑貨屋と思しき店先に、一体いつの間に来たのか、ずぶ濡れの男が一人立っていた。
この雨の中、雨を凌ぐようなものを一切身に着けていない。
変な男だ、と何とはなしに観察していると、男は店の閉じられた入り口に張ってある張り紙を食い入るように見つめている。
幾分前かがみになり、片手で腹を押さえた奇妙な体勢。
やがて男はそのまま、ふらりとその入り口を離れ、時折立ち止まっては腹を摩(さす)るという行動を取りながら、ふらふらとディリーナのいる方へと歩いてくる。
どうにも様子がおかしい。と言うか、明らかに腹痛を訴えている様子である。
(…普通、お腹が痛い時に身体を冷やすような事ってしないんじゃ……?)
物好きな、とディリーナが勝手な感想を抱いていると、男が躓(つまづ)いた。
寸での所で踏み留まるものの、その周辺に足を引っ掛けるようなものは一つも見当たらない。
(…あのう…足に来てますが……?)
その内、いつかは確実にぬかるんだ地面と仲良くなりそうである。
このまま立ち去っても良いはずだったが、それ程によろよろになっている男を、半ば心配半ば興味でまじまじと見ていたディリーナは、やがてその青褪めた顔に見覚えがある事に気づいた。
思えば今まで見た一連の行動は、自分の知っている人物そっくりである。
まさかと思いつつ、じっくりと観察する。
数年経っているので、当然面立ちは少々変わっている。…が、背格好といい、いかにも不幸そうな雰囲気を纏っている所といい、別人にしてはあまりにも似過ぎている。
当時の学友達はおそらくほとんどが無事に卒業して、世界中に散っているはずだ。
世界は広い。互いの所在地を知らない以上、再会する可能性などかなり低いと思うのだが──。
目の前を通り過ぎる際、よくよく顔を見たディリーナは思わず叫んでいた。
「あああっ!? もしかしなくても、やっぱりキング? キングじゃない!!」
くすんだ灰色の髪に、腹痛のせいだけとは思えない血色の悪い肌。そして開いているのか閉じているのか、よく見ないとわからない糸目。
これだけ揃って別人であるはずもない。
まさかこんな偶然が、と思ったが──
そのまさかが起こったらしい。
その声に驚いたようにこちらを向いた男は、しばしじっとこちらを見つめると、その糸目を微かに見開いた。
やがて開かれた口から出たのは、相変わらずの淡々とした口調での挨拶だった。
「誰かと思ったらディリーナか。久し振りだな。相変わらず元気そうで何よりだ」