「どうしたんだい? 元気がないな」
背後からの声に、ユーラははっと我に返った。いつの間にか考えに没頭していたようだ。
「デリル……」
振り返ると、いつの間にか濡れた服を着替えたデリルが自分を見つめていた。
いつもながら彼には気配というものがない。今までも度々驚かされたが、今は驚くよりも先に彼の存在にほっと安堵した。
ディリーナがバートンの自宅で一方的な闘志を燃やしている頃、宿の一室に二人は落ち着いていた。
窓の外は相変わらずの薄暗く陰鬱な気持ちにさせる雨模様。それをぼんやりと眺めていたユーラもまた、それに負けず劣らずの暗い表情だ。
「…先刻の二人を気にしているのか?」
デリルの心配を隠さない言葉には、微かに苛立ちが漂っている。
それが先程のやり取りが原因である事は明らかで、ユーラは安心させるようにその口元を緩めた。
「違うわ。ちょっと…感傷的な気分になっただけよ」
よもやこんな所で、あの二人に再会するなんて思ってもいなかった。
一人ずつならともかく、しかも二人一緒になんて偶然にしても出来すぎている気がするくらいだ。
『不幸の大王』バートン、『トラブルクイーン』ディリーナ──
あまり人に自慢の出来ない二つ名を《探求の館》で轟かしていた二人。
数年を経て外見的な変化は多少はあったものの、中身は全くと言っていいほど変わった様子がなくて──
つい、自分も昔のように口喧嘩を売り買いしてしまったけれど。
「あの二人は本当に昔馴染みなだけ。『敵』じゃないわ。だから…手は出さないでね? デリル」
仲介に入ってくれたのはありがたかったが、一歩間違えば宿から追い出される所だった。
その事を思い出しつつ、改めて念を押すと、デリルは何処か不満そうな目をしつつも軽く肩を竦めてみせた。
「あれだけ派手に言い争っておいて説得力がないよ、ユーラ。…でも、君がそう言うならおとなしくしておくさ」
「…ありがとう」
「相変わらず、変な所でお礼を言うね。俺も少しは常識とやらを学んでいるんだよ? むしろ今の場面では俺が謝る所じゃないの?」
にやりと笑っての言葉には、先程の剣呑さはない。
その事にほっとしつつ、ユーラは首を振り、自分の側にいてくれる彼にそっと寄り添う。
「違うわ。…今のは、……」
「『味方になってくれた事へのお礼』…だろ?」
先回りして言われた言葉に、ユーラはくすくすと笑い声を上げる。
それはかつて自分が彼に向かって言った言葉。素直に助けてくれた事に対するお礼が言えなくて、無理を承知で理由をつけた。
自分が『ありがとう』と心から思って口にしたのは、後にも先にも彼だけだ。
「…だからあなたが好きよ、デリル」
だからわざわざこんな所に来たのだ──
この温もりを、確かに手にする為に。
「ここに、例の物があるはず…絶対に見つけてみせるわ」
笑顔を収め真顔で呟くユーラを、デリルは微苦笑を浮かべつつ見下ろした。彼の胸にもたれ掛かるユーラはその事に気付かない。
そんなに必死にならなくても、とデリルは思う。彼は十分、今の状況で満足していた。
けれどユーラは満足出来ないと言う。
おそらく最初は、彼女自身のプライドの高さ故に。けれど今は──。
「…ユーラ、わかってると思うけど言っておく」
「?」
「今まで調べた限りじゃ、探し物が風幻窟にある事はほぼ間違いないだろう。けど──
万が一、ユーラの命に関わるほどの危険があると判断したら、無理矢理にでも連れ帰る」
弾かれたようにユーラが顔を上げる。
その唇が反論を紡ぎ出す前に、デリルは自らのそれを重ねる事で言葉を封じた。
「…っ」
「一番最初に言っただろ? ── 俺より先に死ぬのは許さないって」
冗談混じりの口調ながらも、耳元で囁かれたその言葉は幾分危ういものが漂っていた。
「わかってる…約束したものね」
反射的に頷き、言葉にしても答える。
ここに辿り着くまでに、かなりの月日を費やした。捜し求めたそれが目の前にあるのにむざむざ逃げ帰るなど、ユーラとしては簡単に承諾出来る事ではなかったけれど。
デリルの言葉でユーラは思い出した。
たとえ見つけ出せたのだとしても──
この自分が生きて帰らなければ、意味がない。
「命を最優先にして…そして勝ち取るわ。風幻窟にあるはずの《魔法門》を」
+ + +
そして、翌日。
昨日一日降り続きタ雨は明け方には去り、空は気持ちよく晴れていた。
まだ雨の名残で湿気を帯びてはいるが、この様子なら一日この調子だろう。
(うん、幸先いいわ!)
マジックハントは大抵遺跡やら洞窟での仕事になる為、天候に左右される事は少ないが気分の問題である。
やはり鬱々とした雨よりは、すっきりとした晴れがいい。
今回はあまり人には言えない(というか、そもそも規則破り)仕事だが、よく考えると久々の本業だ。
「…よし! 準備抜かりなし!!」
装備を確認し終えると、ディリーナは意気揚々と宿を出発した。
向かうはバートンの自宅である。あの『不幸の大王』の代名詞を持つ彼を伴う事は、マジックハンターとしても、古い知人としてもかなり悩む所だった。
しかし、土地勘のない上に通過点としてしかこの街を捉えていなかったディリーナでは、問題の風幻窟の位置を調べるだけで下手すると半日は費やす。かなり──
いや、半端なく不安を伴うが、ここは地元民の手を借りるしかないだろう。
(…場所さえわかればいいんだし)
同行してもらうのは風幻窟の入り口までで良い。後は彼の目的を聞き出し、その場に待機してもらうか、自宅で待っていてもらう。おそらく、それが最善の方法だろう。
(── バートンの場合、出かける時に限って倒れたりしそうなのが問題なんだけど)
自分の想像に苦笑したものの、すぐにそれが現実になり得る事を思い出し、ディリーナはげんなりした。
こう言ってはなんだが── よくぞ今まで生きてこれたものだと思う。
この疑問はディリーナに限らず、探求の館にいた頃から方々で囁かれていたものだ。
普通の人間なら片手の数くらいは死んでいてもおかしくないような事態に、彼は一年の在学中に遭遇していた。
(…そう言えば)
ふと足を止め、ディリーナは宿の方へ振り返った。
(ユーラ達、こんな所に何しに来たんだか)
どの部屋を取っているのかまではわからなかったが、それとなく宿の女将に聞くとまだ出発はしていないようだった。
どうやら数日は滞在するつもりらしい。つまり、このルーベンに何らかの目的があるという事だ。
ユーラと物騒な連れの顔を朝から見ずに済んだのにはほっとしたものの、その動向は気になった。
かつては魔術師として技を磨いていたユーラが、今では同業者なのだ。
記憶にある限りではユーラの魔術師としての才能はさほど特出したものではなかったが、マジックハンターとしての技能に関しては未知数である。
ランクBならばかなりの実力者という事になるが──。
(…まあ、まさか行く先が被るなんて事はないわ…よねえ…?)
ディリーナでさえ、バートンに話を聞かなければ立ち寄る事もなかったであろう場所──
風幻窟。
かつて山賊の根城だったそこに、盗賊ならさておき、マジックハンターがわざわざ来るような物があるとは思えない。
もしそこに何かがあったとしても、おそらくは全て盗品であるだろうし、何らかの魔法具があったとしてもそれを勝手に持ち帰れば盗賊と同じ扱いを受ける。
── ユーラに独自の情報網があり、実は風幻窟に隠された遺跡や魔法具があるというのなら話は別だが。
確かにユーラの実家はかなりの資産家だったはずだが、いくら何でもギルド連さえ掴めない情報網を持てるとは思えない。
「…気にする事ないわね」
意識するだけ無駄だと自分に言い聞かせ、再びディリーナはバートンの家へと足を進め始めた。
+ + +
『ドアを開ける前に最低一回は何もない所で躓(つまづ)く』──
そんな失礼な予想をしつつ、壊れかけた呼び鈴を鳴らすと、それに反する事なく中で何かが派手に倒れる音が起こった。
この手の予想を裏切らない男、それがバートンである。
何かが割れる音が聞こえたという事は、おそらく倒したのはテーブルで上に乗っていた食器類が被害を受けたに違いない。
「…── 待たせたな」
家主たる彼が顔を出すまで結果としてそれなりの時間が経っていた為、彼の第一声に違和感はまったくなかった。
「食器は無事?」
対するディリーナも朝の挨拶とは無関係な第一声である。
自分よりも食器の心配をされては、普通の人間ならむっとする位はしそうなものだが、バートンはそうならなかった。
「一枚生き残った。幸先いいな」
無表情この上ない顔で言われても、さっぱり幸先良さそうに聞こえない。
むしろ、逆に一枚残った事が不吉に思えて、ディリーナは無意識に雨の気配が戻っていないか空の様子を確認した。
「……。こっちの準備は万端よ。そっちはもう用意出来てる?」
「ああ、すぐに出られる」
そう言って家から出てきたバートンを見て、ディリーナは沈黙した。
相変わらず地味の一言に尽きる服装は、昨日より幾分ゆとりがあって、ある意味動きやすそうではあったが、その分『身を守る』とか『体温を逃さない』とかいった性能はなさそうに見えた。
はっきり言えば、夜着とあまり変わらない。出歩くには不向きな格好だった。
── 百歩譲ってそれはまだいい。
問題は、彼がどう見ても『手ぶら』という事である。
「ねえ、キング」
「なんだ?」
「…何か忘れ物、してない?」
嫌な予感を振り払うようにあえて尋ねる。風幻窟がどんな所にあるのかは知らないが、彼の言を借りれば『生きて帰った者がいない』場所のはずである。
…そんな場所に丸腰で行くなど、有り得ない。
もっとも── ディリーナが望むように、最初から風幻窟内に同行するつもりがないのなら話は違って来るが……。
「忘れ物?」
だが、返って来た言葉はまるで予想外の事を言われたような響きで、嫌な予感はますます深まった。
「その辺を散歩するのとは訳が違うんだから…それなりの用意、ってもんがあるでしょ?」
言いながらディリーナはふと思い出す。
かつて── しかも比較的最近、似たような状況がなかっただろうか。
こっちは準備万端だったというのに、相手はまるでその辺にピクニックに行くような気軽さで。
しかし蓋を開ければ、その内容は足を滑らせて落下して装備をほとんど失うわ、魔族は出るわでそれこそ命がけの危険なものだった。
…何となく、その時と同じような事になりそうな予感がするのは何故だろうか?
(実はあたしって、結構不幸?)
自分のトラブルメイカーさを棚に上げ、ディリーナは自分に同情した。
バートンはディリーナの言葉に何かしら思う所があったのか、自分の身をまじまじと見た。
そして、おお、と手を打つ。
「済まない、ディリーナ。忘れるところだった」
「でしょ?」
ようやく手ぶらである事に気付いてくれたかと、ディリーナが安堵すると、彼は至極真面目な顔で頷いた。
「着替えるのを忘れていたな。ちょっと待っていてくれ」
そう言って再び扉の中に戻って行くバートンを見送って、ディリーナはがくりとその場で脱力した。
手ぶらどころか、本当にあの格好は夜着だった訳だ。
(さ、幸先悪い……)
空はやっぱり気持ちの良いくらいに晴れていたが、ディリーナの心は出発前から曇天の様相となりつつあった。