それはまだ、私が名前を持っていなかった頃の話。
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「だから言ったでしょう。落としてしまうからちゃんとしまっておきなさいって」
不意に私の頭上から、そんな苛立ちを内包した声が聞こえてきた。
「あきらめなさい。あの箱はもう開かないの。お父様が言っていたでしょう? 鍵を無くしてしまったら二度と開かないって」
やがて水面に映った顔は、わたしもよく知る人物だった。
「でも、でも…ここに落としたんだもん!」
鼻をぐずぐず鳴らしながらの子供の声が反論する。でも、それは何の効果もない代物だった。彼女はその細面を顰(しか)めて、子供に諭しつける。
「落としたのはわかったけれど、だからってこれじゃあ、取り戻せっこないでしょう?」
そう言って彼女が目を向けたそこは──
わたしがいる池の水面だった。
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わたしがこの屋敷に連れられてきてから、かなりの時間が経つ。
わたしは人間にとっては珍しい《水晶魚》だったから、観賞用としてばかりでなく、時として幸福を呼び込むものとして珍重されたのだ。
…もっとも、わたしを連れてきた人物はとっくに死んでこの世にはいないけれど。
魚だと思って甘く見ないでね。これで百年以上、生きてるんだから。
だから知ってる。この池のほとりであった全ての事を。
だから覚えている。彼等がわたしに話し掛けてくれた言葉の数々を。
彼女── ジエルはこの屋敷の女主人だ。
先代の父親が亡くなった後、その後を継いだ兄がここから離れた地からここへ戻ってくる途中、運悪く流行り病に罹って死んでしまい、仕方がなく跡を継いだ。
当時、彼女のお腹には子供がいて──
それがジエルの横で泣いている子供、ジアンだ。
ジエルの夫で、ジアンの父親である人は今はここにはいない。元々商人だった人物で、月に数日は商人ギルドの寄り合いに出席する為に留守にする。
ジアンが無くしたというのは、そんな父親が面白がって買ってきた魔法仕掛けの小箱の鍵だった。
その日の事をよく覚えているから、それが今何処にあるのか知っている。
それはこの池の水底に沈んでいるのだ。ここの土はちょっとやわらかいから、このまま放っておいたら土に埋もれてしまうかも。
どうも、その箱というのは、あらかじめ鍵に自分を認識させる魔法がかけられていて、その鍵だけでは開かない仕掛けになっていたらしい。
── つまり、鍵の持ち主だけがその箱を開けられるって事。
きっと、先々ではこういう仕掛けの金庫でも作る予定なんでしょう。魚のわたしには関係ない事だけど。
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ジエルは泣きじゃくるジアンに困ったような目を向けて嘆息する。
ジアンはちょっとばかり泣き虫で、男の子のくせに何かあっては、すぐにその大きな瞳から涙が零れるありさまだ。
でもその分、その年頃の男の子にしては心優しく育っていると言えた。…もっとも、身近に同じような年頃の子供がいないって事も、理由の一つかもしれないけれど。
それでも、わたしにとっては愛すべき少年だ。
ジアンはこの池に遊びに来ると必ずわたしを探してくれる。姿を見せてあげると本当に嬉しそうに話し掛けてくるのだ。
たとえば、今日はジエルに怒られてしまったのだとか、どこそこの花が咲いただとか。
問題の小箱を父親に貰った時には、喜び勇んで魚でしかないわたしに見せに来たくらいだ。
喜怒哀楽を隠さずに話し掛けてくれるジアンの存在は、長くこの池に囚われたわたしにとってはひと時の安らぎであり、娯楽とも言えた。
ジアンだけではない。
ジエルやその亡くなった兄、その父親、祖父、曽祖父と、何代にも渡ってこの家の家族はわたしを子供時代の友達に加えてくれた。
いつかはこの池のほとりを離れて、もっと広い世界に旅立って行くのだとわかっているけれど。
今のように、無くした鍵すらも拾ってあげられないわたし。泣いていても、慰めてあげる事も叶わない。
── わかっている。どんなに月日が過ぎてもわたしは魚でしかないって事は。
この庭を通り過ぎて行く風の精霊が教えてくれた。わたしの霊格では余程の事でもなければ、妖精にはなれないって事を。
妖精。
わたしのように長年生きて体内に魔法力を蓄積した生き物が最終的に変貌を遂げたものだという。
人に似て、けれど異なる生き物。
けれど長く生きていれば必ず妖精になれると言うわけではないらしい。
霊格というものが低いと、たとえ妖精化出来てもその魔法力を維持出来ない。その重要な霊格が、妖精になるには不足しているらしい。
…もし、私が妖精になれたなら。この池の底に眠る鍵を拾って、ジアンに届けてあげるのに。
妖精に、なれたなら──。
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その日は、満月だった。
怖いくらいに強く輝く月を、閉じる事が叶わない目を見開いて見上げていると、館の方から足音が地面を通じて聞こえてきた。
あの草を踏む音の感じからして、ジエルのようだ。
しかして月光の下、ジエルが池のほとりに姿を現した。どうしたと言うのだろう。こんな時間に珍しい。
「……」
ジエルは無表情のまま、しばらく立ち尽くしていた。やがて疲れたような微笑を浮かべて、ぽつりと呟く。
「…困ったわね」
そして池の淵に座り込むと、片手で池の水面を撫でる。
波紋がぱあっと広がって、水中にいる私から見るとまるで月の光の輪が広がったようだった。
「満月に祈りを捧げると、願いが叶うと言うけれど……」
見上げたジエルの顔は、紛れもなく母親の顔だった。
「私には到底拾えないわね」
苦笑が零れた。
そうか、と思い至った。子供の視点では見えにくい池の底も、大人であるジエルからは見る事が出来たのだ。
ここはわたしがいるせいもあって、透明度は高いから──。
けれど、大人になってしまったジエルには、そこそこ深い池に入る事に躊躇いがあるに違いない。
かと言って、使用人にさせるのも気が引けるのだろう。たかが、子供の玩具程度だ。
でも、わたしは知ってる。ジアンがあの小箱に何をしまっているのか。
綺麗な小石とか、鳥の羽だとか、大人には取るに足りないもの。でも、子供にとっては宝石などよりもずっと大切なもの。
そこには金銭では買えないものが込められているのだから。ジエルも、その父親も、そうして大きくなっていったのを、わたしは知ってる。
「…あら」
不意にジエルが驚いたような顔をした。
「あなた…まだ生きていたの?」
その目はわたしの姿を捉えていた。軽い驚愕を湛(たた)えて、わたしを見てる。
「…まさか、ね。あれから何十年も経っているんだもの。…きっとその子供よね」
ひっそりと独り言のように漏らされた言葉。多分、それがどんなにわたしを喜ばせ──
悲しませたのかわからないだろう。
彼女がわたしを覚えていてくれた事が嬉しかった。そして──
いつか彼女もわたしより先に死んでいくのだろうという事が悲しかった。
わたしは《水晶魚》。
元々希少な種族なのだ。仲間がいないこの池で、子孫を残す事など不可能だし──
だからこそわたしは、人よりも長い齢(よわい)を生きる事にもなったのだけども。
やがてしばらく私を眺めていたジエルは、またひっそりと館へ戻っていった。
幸福を呼び込むと言われるわたし達。けれど、どうだろう?
たった一つの恩返しも出来ない。
悲しい気持ちで見上げた視界に、月輪が入る。吸い込まれそうな輝き。
『月に祈りを捧げると願いが叶う』
ジエルの零した言葉を思い出す。本当に叶えばいいのに。
わたしは彼等が好きなのです。どうか、叶えて下さい。このわたしに、ひと時でいい、人の姿を与えてください。
祈りが奇跡を起こすなんて、本当は信じてはいなかったけれど、でも不思議とその時は自然とそういう気持ちになれた。
ジアンの泣き顔よりも笑顔がわたしは好きだ。ジエルも、そう。
わたしに幸福を招き寄せる力など、実際の所はないけれど、せめてその位はお返ししたかった。
吸い込まれそうな月。一体どれ位見上げたいただろう。
…そうして、不意に意識が飛んだ。