気が付くと、いつもよりも体が重かった。
(!?)
目を開いて── そう出来た事自体、驚くに値するものではあったけれど──
わたしは驚愕した。
視界に飛び込んできたのは、まさしく願い続けた人の腕だった。
(これは?)
動かしてみると、わたしが思った通りに腕は動いたし、手も握ったり開いたり出来た。
…奇跡が、起こっていた。
それを認識した瞬間、どうした訳か、急がなければという感情に襲われた。
考えるよりも先に、今しがた得たばかりの体は動いていて、水底に沈み、半分土に埋もれかけていた鍵を拾い上げる。
泳ぎは魚の時と同じように思うがままに出来た。すぐにとって返し、そろそろと水面から頭を出してみる。
人で言う顔の部分に髪らしいものが張り付く。今まで味わった事がない感触だ。
外の空気は初めて味わうもので、しばらくわたしは陶然としていた。生まれたての空気は、とても美味しかった。
そのまま岸に向かって泳ぎ、手を伸ばして地面に上った。予想より重い身体を引き上げると、ぐんと視点が上昇する。
(これが、人の視点?)
そういう場合ではないと思いながらも、踏みしめた草の感触を楽しんでしまう。
そして手にした鍵をどうしようか、という事の思い至った。
本当ならジアンの部屋に届けてやりたいけれど、場所がわからないし──
何となく予感でしかなかったのだけども、そこまではこの姿がもたないような気がした。
辺りを見回して、目に入った池のほとりに立つ一本の木に向かう。そこの枝は低く下がっていて、ジアンもよく遊ぶからだ。
光物が好きな鳥とかに取られないように、葉で隠れた枝に引っ掛ける。これで、明日ジアンがここに来て見つけてくれれば問題はないのだけど。
そうしてしまうと、安堵感からか、急に眠気が襲ってきた。立って入られない。
よろよろになりながら、池へ身を滑らせたのが最後の記憶。
そのままわたしは意識を手放していた。
+ + +
「あっ!!」
急に上がった子供の声で、私は目を覚ました。
何だか長い夢でも見ていた感じだ。視界に飛び込んできた明るい光で、世界がもはや昼に近い時分である事はわかった。
声でその持ち主はすぐに知れる。案の定、ジアンの顔が遠い水面にちらりと見えた。
「お母さん! 来て!! 鍵があったよ!!」
はちきれそうな笑顔とはこれだと思えるような、明るい笑顔だった。昨日の泣き顔とは雲泥の差だ。
「…どうしたの、ジアン? 鍵は池に落としたんでしょう?」
怪訝さを隠さずにジエルも姿を現した。彼女自身、鍵が池にあった事を知っているから、半信半疑のようだった。
── が。ジアンが手に持った鍵を目にした瞬間、ぎょっとした顔になり──
次いで反射的に池の方に目を向けてくる。
わたしもつられたように元々鍵が沈んでいた場所に目を向けると、もちろんそこに鍵はなかった。
「…そんな事って……」
明らかに信じられないといった顔で、池とジアンの手にある鍵を見比べる。
「きっとお魚さんが拾ってくれたんだよ!!」
嬉しそうに、ジアンがそんな事を言った。
「…魚が?」
「うん! だって、友達だもん!! ありがとう、お魚さん!!」
そう言って、水中にいるわたしに向けられたジアンの目は本当に嬉しそうだった。見ているわたしも幸せな気分になる。
昨夜のあれが夢でなかった事を、心の底から喜びながら。
「…そう、ね。きっとそうなんでしょうね。良かったわね、ジアン」
やがてそう言ったジエルの顔も、嬉しそうだった。
本当に信じてくれたわけではないのかもしれないけれど。わたしは二人の笑顔に、生まれて初めて至福感というものを味わった。
ようやく、わたしはほんの僅かだけれど、今まで貰ったものを少しだけ返す事が出来たのだ──。
+ + +
…それから、また長い長い時間が経って。
彼等がやはりわたしよりも先に死んでしまった後、再び奇跡は起こってくれる事となる。
もっともそれは、わたしを絶望に叩き込むようなものとなってしまうのだけども──。
そして更にそれから後。
…わたしは、自分の魂の主と出会う。
+ + +
「あ、お帰り、アラパス」
柔らかな、若草色の瞳が微笑んで迎え入れてくれる。
「久しぶりの水だったから、もっと楽しんできて良かったのに」
年の頃は、十二、三歳ほど。
ちょっと身体に合わない、大き目の服が頼りなく見せる。でも、わたしにとって彼は誰よりも安心できる存在。
「いいの。…イザ!!」
そのまま問答無用に抱きついてやる。背丈がほとんど変わらないから、彼は勢い余ってよろけてしまう。
触れた腕から伝わる温もり。心の中に湧くのは、これ以上とない安らぎ。
「ちょ、アラパス!?」
「…ただいま」
抱きついたままそう言うと、わたしのこの世で唯一のご主人様は、面食らったような顔をして──
それでも、すぐに苦笑混じりながら笑ってくれた。
ここがわたしの生きる場所。
水の世界を離れて得た、わたしの居場所。
今度…また月に祈る時が訪れるのなら、きっとこう願うだろう。
── どうか、もう何一つ悲しい事が起こりませんように。ずっと、この人の側にいられますように。
彼に出会えた奇跡がずっと続く事を、わたしは祈る。
〜終〜
After Writing
これはよもさんのサイトの企画に出すために書き下ろした作品…の加筆修正版です(^^;)
どうしてもどうしても、訂正したかった部分がありまして…。
というのも、これ、まだ私が一人称が大の苦手だった頃の話なので、部分的に無理に口語体使ってる所があったんですよ。
その辺りと、全体的にあまりにもあっさりし過ぎていたので(昔の話ですしね…)少々加筆を加えました。まあ、微々たるものですが(汗)
テーマが『魚と鍵』だったので、主人公はおわかりのように魚精アラパスとなりました。
なお、前半は本篇になる『砂漠に降る雪』『贖罪の丘』から百数十年前、最後の段落辺りが数年前を想定しています。
これを読んでアラパスの見方が変わったという感想を頂きました。
確かにこの話を読む分ではおとなしいですね(^^;)
攻撃は最大の防御、なんて言っているキャラとは思えない感じです(笑)
もちろん、彼女がそこまで変わったのにはそれなりの事情があるのですが、それは機会があれば番外編として書きたいと思っています。
タイトルも中身も決まっているのですが、どうなる事か……。別に書かなくても差し障りがないので、約束は出来ませんけども(汗)
もしお目見えするような事があったら、読んでいただけると嬉しいです。