かつてその地に聖人ありき。
その心、泉の如く清らかに、空の如く広く、森の如く神秘に満つ。
名すら残さぬかの聖人は、唯一つ迷える者達にその永久の眠りの床を残された。
その地を、後世の人々は《聖遺跡》と呼ぶ──。
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我は問う。
かの人の犯した罪の名は……?
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「わたしといらっしゃい」
それはあまりにも甘い誘惑に満ちた言葉だった。
「わたしと来るなら、あなたはもう独りではなくなるのよ」
女はそうして、聖女もかくやという微笑を彼に向ける。
「…さあ」
女の、優しいようでいて捉(とら)え所のない、不思議な光を宿した瞳が彼を捕える。
差し伸べられた手を、拒む理由はなかった。
彼はもう、独りでいる事に嫌気が差していたし、目前の女より自分を魅了する程の能力を持った人間が他にいるようには思えなかったのだ。
それに── 何より女は美しかった。まるで穢れをしらない童女のように。彼が今までに目にした、どの人間よりも。
そうして彼は女に、自らの命と力を委ねた。そこに、永い間欲していた心の平安があると信じて。
女の瞳に宿るその不思議な光が、全てを混沌に陥れる狂気であった事に彼が気付くのは、彼の全てが奪われてしまった後の事だった……。
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その日はどんよりとした曇り空だった。
彼女は門の陰に何かを見つけて、その細い眉を顰めた。
何か── 見た所、生まれて間もないと思われる赤子は、捨てられたと言うよりもそこに隠すような感じで置かれていて、彼女は怪訝に思ったのだ。
「……」
しかし、彼女は黙ったままその赤子を抱き上げた。
赤子は何らかの術でもかけられていたのか、まるで死んでいるかのようにぐっすりと眠っている。抱き上げられても、身じろぎ一つしなかった。
「…可哀想に」
ぽつりと漏らされた言葉。
果たしてそれは、赤子の置かれた境遇に対してのものだったのか、それとも生まれて間もない我が子を置き去りにした母親に対してのものだったのか──
それとも、その他の何かに対するものだったのか。
結局、それは誰の知る所にもならなかった。
その後、その赤子は彼女とその友人達の手で育てられ、一年後に儀式に乗っ取って僧侶としての名が与えられた。
本来の名を持たない幼子に与えられた唯一の名前。
その名を、ファイザードという……。