の丘

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 夜もかなり更け、夜を生活の場とする生き物を除いたほとんどの生き物達が眠りに就く時分。
 キュラは何者かの気配を感じ取り、寝台から身を起こした。
「…こんな時間に、何の用かしら?」
 常識のない訪問者に対して投げかけられた言葉に、怒りの色はない。ごく普通の声音に返ってきたのは、謝罪でもなければその答えでもなかった。
「── あんたのような奴も眠るんだな」
 そんな意外そうな声がして、闇の中に微かに人影が浮かび上がる。
「眠ってはいけないかしら? 私も生きているのよ。それとも…あなたには眠る必要がないのかしら、妖精さん?」
 微かな笑いを含んだ声に、不躾な訪問者は軽く肩を竦めた。
 暗闇の中で表情を伺い知る事は出来なかったが、まさか、と言外に言っているのは確かだった。
「何の用なの?」
 再びキュラが問う。今度は相手もきちんと答えた。
「あんたを夜這いしに」
「あらまあ」
 そう言ってくすくすと笑いを漏らし── やがてそれをおさめると、先刻とは打って変わった冷たさを含んだ声で漏らす。
「…面白い冗談だこと」
 きらり、と琥珀の瞳が闇に輝く。
 それはまるで宝石のような煌きを有しながら、何処か危険さが漂うものだった。
「ふざけるのは大概になさいな。それとも、私を怒らせたいのかしら」
「── ようやく本性を出す気になったか?」
 しかし、声の主は動じるどころか、何処か展開を楽しむような口調でそんな事を言い放つ。
 ぽうっ、と不意に闇の中に炎が灯った。
「…そう言えば、あなたの本性は見ていなかったわね」
 それを見たキュラの口元に微笑が浮かぶ。
「なるほど…彼は随分と珍しいものばかりを連れているのね」
 瞳に宿る冷たい光はそのままに、キュラは賛美する目でじっと炎を見つめた。
 炎は一つの形を為している。それは鳥のようだった。そして先程まではあった人影が代りのように失せている。
「《火喰い鳥》(ファイヤイーター)── 絶滅したとばかり思っていたけれど」
『あいにくと、まだ生き残っていたわけさ。…もっとも、オレ以外にいるのかはわからないが』
 人型であった頃の口調はそのままに、フェラックは声なき声で返す。
『あんたを相手にするなら、こっちの方が都合がいいからな』
「確かに人型の時よりも許容魔法力が上がっているようね」
 そこで一度言葉を切り、キュラは探るような目をフェラックに向ける。
「でも…言っておくわ。私は、あなたと…いえ、誰とも争うつもりはないの」
『オレだってそうせずに済めばいいと思ってるさ』
 しれっとそう言いながら、炎に包まれた朱金の翼を揺する。…肩を竦める癖は鳥形になっても変わらないものであるらしい。
「…私には、あなたの言いたい事の予想がついているわ。その予想が当たっているとして── 私の答えはただ一つよ。『何があっても何もするつもりはない』、これだけだわ」
『…信じられないな』
「こればかりは信じて貰うしかないわね。確かに…私は彼の能力に興味はある。でも、それだけよ。どうこうするつもりはないわ。ただ…そうね、一つだけあなたに聞きたい事がある」
『…オレに?』
 フェラックが意外そうな声を上げる。キュラの瞳から冷たい輝きが消えた。
「一体…彼に『誰』が『あんな事』をしたの?」

+ + +

「用意はいいか?」
 相変わらず感情の抜け落ちたような口調で、キサが確認を取る。
「西の、どの辺に行けばいい?」
 その問いにファイザードはしばらく考え込み── やがて、一つの地名をぽつりと答えた。
「…《西の聖遺跡》(オートフリート)に」
「わかった」
 頷きながら、ふとキサは視線をファイザードに向けた。
「…何?」
 怪訝そうにファイザードが尋ねる。
(…何か変な事言ったっけ?)
 頷いた所を見ると、その地名を知らない訳ではないようだし、場所も知っていると踏んだのだが、ひょっとして知らないのだろうか。
 よくよく考えれば、ここは東の端の国。正反対の場所の地理が不案内でもおかしくはない。
「いや…何でもない」
 そんなファイザードの内心を汲み取ったのか、キサは頭を振った。事実、キサの脳裏を占めていたのは別の事だった。
『…ねえ、《西の聖遺跡》の別名って知ってる?』
 ファイザードが答えた瞬間に、脳裏を掠めていったヴィジョン。
 荒野に立つ一組の男女。二人の背後からそれを見ている形の為に、二人の顔は見えない。
 女は遠くに霞む塔の影を指差して男に言う。
『あれが《悟りの塔》……』
「キサ?」
 心配そうにファイザードが覗き込んでくる。
 キサは我に返ると、すぐさま思考を切り替え、心配はないとばかりに風の小精霊── 風精を召喚した。
 微細な砂を巻き上げて、それ等は声無き歓喜の叫びを上げる。
 それを確認して顔を上げると、見送りに来ていたキュラと丁度目が合った。
(!)
 反射的に顔を背けてしまう。まだ、駄目なのだ。昨日、ファイザードに勇気付けられても、まだ出来ない。
 あの真っ直ぐな目を、自然体で受け止める事は。
(…ごめん、キュラ)
 心の中で謝るしか、今は出来ない。
 その動揺で一瞬風精が散りかけてしまうのを再び呼び戻しながら、キサはファイザードに目を向けた。
 何処となく緊張しているようだ。多分、今回のような移動の仕方をした事がないからだろう。
 寄り集まった風精が、キサ、そしてファイザードの体を宙へと持ち上げる。
 突然の事だった為か、わわわっ、とファイザードが慌てたような声を上げ、やはり見送りに来ていたサアラに笑われた。
「…キサも来るのかい?」
 恥ずかしげに苦笑していたファイザードが、驚いたようにキサに声をかける。送ってくれるとは言っても、一方的に風に運ばせるだけだと思っていたのだ。
「…また、砂漠とか変な場所に落ちても構わないのなら、それでもいいけど」
 やろうと思えばそれも可能だったが、風精は元々気紛れだ。万が一の事だって有り得る。
 その答えに納得したのか、ファイザードはそれ以上は何も言わなかった。
 その瞬間、不意にまた声がキサの中をすり抜けていく。
 今度は声だけだったが、はっきりとした言葉だった。どうしてだろう? この声は何故かとても懐かしい。
『この丘陵地帯を抜けたら《西の聖遺跡》があるの。…聖人の一人が自ら命を絶ったとされる場所。だから、この丘陵地帯と聖遺跡を総括してこう呼ぶのよ──』
「…《贖罪の…丘》……」
 思わず漏れた言葉は、さらに力を得た風精によって上昇した為に誰の耳にも届かなかった。
「気をつけて」
 キュラがいつものように声をかける。その事に安堵した為に、キサは気付かなかった。キュラの瞳に、不安そうな翳りが浮かんでいた事を。


 そして、彼等は空の旅へ出発した。
 向かうは西── 《贖罪の丘》。

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