の丘

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 一度起こってしまった事はもう取り返しがつかない。時間を戻す事は出来ないし、過去を変える事も出来ない。…でも、未来はこれからいくらでも変わるの。
 変えて行けるのよ……。

 それはかつて、自分を実の母に代わって育ててくれた人が語った言葉。
 心に負った傷。それはいつまでも影を落とすけれど。それでも留まる事を知らない時間は、少しずつ痛みを薄れさせ、そして癒してゆく。
 一度犯した過ちを繰り返さない限り、同じ傷を負う事はない。だから、どんなに苦痛でもその傷を直視する事は必要なのだ。
 ── どんなに時間がかかったとしても。
『…儂を倒す、だと……?』
 ファイザードの言葉に帰って来たのは、何処か嘲りを含んだ震える声。恐らく、立っているだけでも辛いはずだ。
『笑止…! やれるものならやってみるといい…貴様の無力さを思い知る事になるだろうがな!!』
 それ程に傷付いてもなお、あくまでも敵意を剥き出しにするヴィークに向かい、一歩足を踏み出す。
 自分の中に、今まで眠っていた力が目を覚まして行くのがわかった。
 高揚してゆく意識と裏腹に、心はその高鳴りに恐怖する。
 今、内にあるものははあまりにも強大で、自分の手には余るもの。一つ間違えば、どうなるかもわからないほどの。
 その事をファイザードは実感として理解していた。
 それでも── 自分だけの力で決着を着けるには、この力と向き合い、使いこなす必要がある。
 …一度は暴走を引き起こし、第三者が力尽くで封印する事でしか抑える事が出来なかった力だ。恐ろしくないと言えば嘘になる。
 その時の事は曖昧で、ある地点からほとんど記憶が残っていない。それでも所々残っている記憶を辿るに、明らかに自分の認識が甘かったという事はわかる。
 自分に自信なんてなかった。むしろ、ヴィークの言うように無力だと思っていた。
 ── 力を使う必要がないように、多くの手に守られていたなんて夢にも思っていなくて。
 庇護されていたが故に無自覚のままに力を使い、限界を知らないが故にこの手は取り返しのつかない罪を犯してしまった。
 愚かな自分の行いによって、一体どれほどの傷が周囲に与えられたのだろう。
 目の前に立つ地狼は、その影響を受けた一部に過ぎない。だからこそ、ここで退く訳には行かないのだ。
 向き合い、受け止めなければ── 先程のように逃げていては、何も変わらない。
 視線を手にした顕精珠に落とす。
 本来とは正反対の作用を持つそれと、刻印によって抑えられている力を解放する為には、どちらかを手放さなければならない。
 刻印師によって施された刻印は、自分自身では外せない物。…ならば。
 ちらりと背後に目を向け、じっと自分とヴィークの挙動を見守るキサの姿に決心を固める。
「キサ、これ持ってて」
「! これは……」
 放り投げられた物を反射的に受け止め、まじまじとそれを見つめるキサから再び前へと目を戻す。
 封印を弱めるだけでなく、媒介であるそれを遠ざければ、万が一の場合もアラパスやフェラックへの影響は多少低くなるかもしれない、とは手放した後で思ったこと。
 背後でそれを目撃したアラパスの悲鳴と、それを抑えているらしいフェラックの声が聞こえたが、それからは耳を塞いで。
 ── ファイザードは自分を待ち構えている誇り高き地狼に向かって駆け出した。
 命果てる時まで背負い続けるであろう、贖罪をここから始める為に。

+ + +

「イザ!?」
 ファイザードがキサへと放り投げたものが何かを理解した瞬間、アラパスは悲鳴を上げていた。
 それは封印── 同時に、ファイザードの命を守るもの。そして、自分達の助力を完全に拒否した事も意味する。
「だ、駄目……!! 死ぬ気なの!?」
 思い出すのは、数年前の出来事。
 力を暴走させた結果、精神が崩壊しかけたファイザードを命がけで《悟りの塔》へと連れ帰った。その時の喪う事への恐怖は、今もなお心の奥にある。
 ランクを下げる刻印によって無理矢理力を抑え込むという荒療治を受け、一命を取り留めたものの、全く無事とは行かなかった。

 ── 廃人になっても知らねえぞ。

 刻印を施した刻印師も、そう念押しした。
 ファイザードの内に留まりきれずに外界にまで溢れていた力は、持ち主でさえ傷つける程に強く。
 ランクを下げる事で基礎能力を下げ、力の放出はひとまず収まった。けれど…その代償に、それから一年以上を彼は半ば寝たきりで過ごす事になった。
 身体も心も、ボロボロだった。
 守護精である自分達もその影響を受け、人の姿を保てなくなり、意志を通じ合う事すら出来なくなって──。
 どんなに話しかけても、答えは返らない。本当に、ただ『生きている』だけの状態だった。
 言葉を取り戻すのに数月、動けるようになるのに、さらに数月。
 …以前のように笑えるようになったのは、つい最近と言っても過言ではない。
「やだ…やめて…やめてよイザ!!」
 半泣きで駆け寄ろうとするのを、腰を捉まえて誰かが引きとめた。
「…フェラック!? 何で止めるの、離して! 離してよッ!!」
「落ち着け、アラパス」
「落ち着け……!? よくもそんな事を言えたもんね、このバカ鳥ッ!! あんたも止めなさいよ! イザが…イザがまた、壊れちゃったらどうするの!?」
 精神が耐え切れずに壊れてしまうだけならまだいい。最悪、命を落としてしまうかもしれないのに。
 主の生命の危機を前に、動かなくて何のための守護精だ!
「やっぱり、あんたは所詮…シリイの手駒だったってこと!?」
「……」
 怒りに燃え、わめくアラパスを、フェラックは無表情に見下ろした。その金の瞳の冷ややかさに、一瞬気圧される。
 同じファイザードの守護精であっても、『妖精』としての経験値は圧倒的にフェラックの方にある。『格』が違う、と言ってもいい。
 その事実を、こんな時に思い知る。
「…なによ……」
 それでも必死に睨み返すと、常にない神妙な顔でフェラックは口を開いた。
「お前は、イザが信じられないのか?」
 やがて重々しく問われた言葉は、思いがけないもので。
 虚を突かれて言葉を失くしたアラパスへ、フェラックは幾分口調を和らげて繰り返した。
「…イザを信じろ。イザは…オレ達の主人は、同じ過ちを繰り返すほどばかじゃない。お前だってそれを知っているはずだ」
「でも……!」
「── お前の言いたい事はわかる。あれだけの力が、意識の持ち様だけで簡単に操れるようになる訳がない」
 特にファイザードの場合、それが人よりも困難であろう事をフェラックは知っている。
 ── 『彼女』が自分の望みを叶える為にどんな手段を取ったのか、この目で見てきたのだから。

『あの方の力は、奇跡としか言い様がありませんわ。不可能を可能とする── 万能の力です……!』

 そんな風に讃えた者もいた。けれど、自分にはあまりにも異質な力にしか見えなかった。
 あれは、あるべきものを己の欲望のままに歪めてしまえる力。
 『彼女』── シリイが狂気の中にいなければ。その力も彼女の内で最後まで眠っていたかもしれないけれど。
「…オレだって当事者だったんだ。お前の気持ちはわかるさ」
 ファイザードを喪うかもしれない── その恐怖は、フェラックの内にもある。
 もう二度とあんな思いはしたくないとも思う。
 だがアラパスと違い、元凶であるシリイを直接知る彼には、自分の感情だけを優先する事は出来なかった。
 今回のような事は、これから先── ファイザードが決着をつけない限り、幾度となく起こるに違いないのだ。
 ここで躓くか、それとも乗り越えるか。それは、ファイザードの今後に大きく影響するだろう。
 …それに。
(他の誰にも、命を奪う以外で奴を救う事は出来ない)
 地狼ヴィーク。かつては同じ人間を守護していた彼を、その狂気から解放してやりたいと思うのは── 果たして感傷だろうか。
「…── あたしには、イザしかいないのよ……」
 うわ言のように呟きながら、それでもアラパスはもがく事をやめた。
「イザの為なら、命だってかけられるんだから。でも…あんたは見守れって言うのね」
「…ああ。少なくとも今はな」
「わかったわ……」
 頷くのを確認してフェラックが解放すると、パン、という乾いた音と共に頬に痛みが走った。
 引っ叩かれた事はわかったが、フェラックは黙ってそれを受け入れた。
「── その代わり、イザに何かあったら…あんたを殺してやるから……!!」
「ああ、好きにしろ」
 鋭く睨み据えてくるアラパスに頷きながら、フェラックは視線をファイザードの方へと向けた。
 それはまさにヴィークがファイザードへと襲いかかる所だった。
 横にいたアラパスが悲鳴を飲み込む。
 ヴィークの牙がファイザードを捕える。縺れ合うように大地へと彼等が倒れ込んだ、その刹那。
 全てを浄化するような白い光が、視界を全て埋め尽くした。

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