の丘

- 13 -

 それは、今の彼にとっては『罪』の象徴たる人物。
 自分の唯一の肉親にして、最も遠い存在である人。…最後まで、理解(わか)り合う事も出来なかった人。
「迎えに来たのよ、あなた」
 以前── 初めて顔を合わせた時と同じ言葉。いや、その時の再現なのかもしれない。
 たおやかな腕をこちらへ伸ばし、いらっしゃい、と誘う。
「わたしはシリイ。あなたの…お母さんよ」
 そして、その言葉はそのまま、彼を《悟りの塔》へと置き去りにした事を認めるのと同義でもあった。
 なのに、悪びれた様子も無く── いや、実際罪悪感などなかったし、彼女にとっては必然の行動だったのだと、今ではわかっているけれど── 彼女は彼を迎えに来たと言う。
「フェラックを迎えにやったのだけど、帰ってこないから直接来たの。さあ、行きましょう?」
 ファイザードが付いてくると疑いもしない言葉だった。
 その時、幼かった自分は何を思ったのか、今ではもう思い出せない。けれど、『お母さん』という言葉に衝撃を受けた事だけは覚えていた。
 そして── その言葉には、実際にある種の力が宿っていたのだと思う。
 その時ファイザードは、結局の所、初対面と変わらないというのに、もう少しで彼女の手を取る所だったのだから──。
「…まだ、行けません」
 答えると、彼女は信じられないような目を彼に向けた。…あの時と同じように。
「── どうして?」
 あの時は、もう少しの所で邪魔が入って、ファイザードは正気に戻る事が出来た。
 そう、その時彼の元にいた、あの炎を纏(まと)う鳥── フェラックが現れた事で。けれど今は、自分の意思で拒絶する。
「今の僕では、あなたを本当には救う事が出来ないんです…お母さん」
 気がつくと周囲は一変して、鬱蒼とした樹海へと変わっていた。
 そう── それは、自ら母親を殺そうとした時の…ずっと、心の奥底に封じてきた場面だ。
「どうしてなの…なんで、わたしといてくれないの!?」
 半狂乱になった彼女── シリイが泣き叫ぶ。彼女自身の力が、彼女を人ではないモノへと変えて行く。
 それを、ファイザードは止める事も出来なかった。シリイと同様の力を、当の彼女から血という媒体で受け継いだ彼でも。
 何故なら、力の質が同じでも、そこにある力の大きさは、天と地ほどの差があったのだから──。
 止める事も出来ず、それどころか…もう、こちらからの言葉は何一つ伝わらない。
 ── シリイは絶望という名の、闇へ囚われてしまった。
 …だから。
 ファイザードはあえて、母たる女に決別の言葉を告げる。
「…僕にも、僕だけを必要としてくれる人がいるんです。弱くても、何も出来なくても、生きている事を喜んでくれる存在がいる。だから…」
 共に生きる事が出来ない代わりに、せめて祈りを。
 闇から救い上げる事が出来ない代わりに、せめて贖罪を。
 それが、人でなくなってしまった『母親』へ、唯一してあげられること。
(…イザ……!!)
 戻って来い、と呼ぶ声がする。
 それは、フェラックのもののようだったし、アラパスのもののようでもあった。
 そして…キサのもののようだったし、今まで出会い、彼を『彼』たらしめた多くの人々のもののようにも思えた。
 行かなければ、と思う。
 罪人であっても彼を想ってくれる人がいる限り、自分は生きなければならない。そして自分は…何より彼等と共に生きる事を望んでいる。
「…もう逃げないよ、母さん」
 自分の奥底に沈んでいた、罪の意識──『母親』の影へ誓う。
「ちゃんと約束は出来なかったけど、いつか必ず…会いに行くから」
 その瞬間、狂ったような声をあげていた彼女の姿が幻のように消え去り、そこは代わりに光で満ち始める。

 ── そして、世界は白一色に染まっていった。

+ + +

 …白光の中で聞こえてきたのは、悲鳴。
 聞き慣れた若い女── 自分の守護精のもの。
 最初は何を言っているのかわからなかった。だから彼は耳を澄まし、目を開こうとした。
 この、光の向こうにある現実へ、戻りたいと切に願い── そしてそれは叶えられる。
「──!?」
 突然、眩(まばゆ)い光が放たれる。白い白い── 清浄さを感じさせる光。
「…イザ……?」
 反射的に目を閉じたフェラックは、そろそろと目を開きながら、腕の中にいる彼の主に呼びかける。
 光は眩しいものの、目を焼く程激しいものではなく…そして、見覚えのあるもの。まさか、という気持ちで確かめると、やはり光源はファイザードだった。
 全身が光に包まれている。
 まだ正気に戻った訳ではないようだが、先程までの放心した表情ではなくなっている。
「フェラック、これってまさか……」
「…ああ」
 傍らのアラパスが、緊張した面持ちで確認するのへ、フェラックは頷いた。
 この光は、確かにかつて彼らが見たものと同じ── ファイザードが一度は失った、彼の『高位僧』としての力の発露に違いなかった。
 …そして。
「…フェラック、いつまでそうしてる気だよ?」
 その言葉にはっとなる。
 見れば、いつの間に正気に戻ったのか、ファイザードが彼の腕の中から困惑した目を向けていた。
「イザ……!!」
「正気に戻ったんだな、イザ!!」
 口々に彼の名を呼び、今度は二人がかりで抱きつかれる羽目になり、ファイザードは更に目を白黒させる。
 しかし、アラパスの傷だらけの腕が目に入ると、すぐに表情を改めた。
「…ごめん、アラパス。無理をさせちゃったんだね」
 言いながら、自分の不甲斐なさに唇を噛み締める。
 戦いの最中に自失状態になるなんて、命知らずもいい所だ。そして、そんな彼を守ろうと、アラパスは満身創痍になりながらも戦ってくれたのだ。
「ううん、イザを守るのは守護精として当然の事だもの」
 アラパスは何処か誇らしげに言う。その腕に走る裂傷に、ファイザードはその掌を向けた。
 光が一瞬強まり、次の瞬間には普通に治療すれば痕すら残りそうな傷が、すうっと時間を逆戻しにしたように消えて行く。
「しばらく休んでて。もう…大丈夫だから」
「イザ……。もしかして、力が?」
「…うん、完全かどうかはわからないけど、ね」
 そう答えながら、守護精達の腕の中から自由になる。そして今の敵を目に捕らえようとして── ファイザードは目を見開いた。
「…キサ!?」
 視界に入ったのは、狼に肩を噛まれて血を流すキザの姿と、突然の光に目を焼かれ、うめき声を漏らしながらよろめく狼の姿だった。
 ドクン、と大きく心臓が脈打った。
 何かがファイザードの中で切り替わる。何処か不完全に嵌(はま)っていた何かが、あるべき場所に収まった気がした。
 先程聞こえたと思った悲鳴は、アラパスのもの。そしてアラパスが口にしたのは── 名前。
「…キサから離れろ、『ヴィーク』……!!」
『!!』
 感情を押し殺したようなファイザードのその言葉に、狼はびくり、と身を震わせた。そして緩慢な動作で、ファイザードの方へ目を向ける。
 そこには、先程までの狂気と殺意ではなく── 明らかに怯えがあった。
『…ばかな……何故、奴に……』
 信じられないと言わんばかりの言葉を無視して、ファイザードはさらに言葉を重ねた。
「離れるんだ、ヴィーク!」
 今度は明らかに命令だった。
 冷ややかにすら感じられるその言葉は、今までなら鼻先で笑ったに違いない狼に、明らかな変化をもたらしていた。
 完全に立場が入れ替わっている。やがて、『ヴィーク』と呼ばれた狼は、気圧されたように後ずさりしながらキサから離れる。
「キサ!!」
 離れるのを完全に見届けもせずに、ファイザードはキサに駆け寄った。そんなファイザードを、彼の守護精も呆気に取られた表情で見送る。
 今まで、こんなにファイザードが感情を剥き出しにした事は滅多になかったのだ。
 微かに光を纏ったまま駆け寄ってくるファイザードを、キサは身を起こす事も忘れて見つめた。
 狼に噛みつかれた傷から、血が溢れ、押さえた手が赤く染まる。
 自分の油断が招いた傷とは言え、痛いものは痛い。表情こそ普段と変わっていなかったが、その額には脂汗が滲んでいた。
「キサ、傷は!?」
 辿り着くや否や焦ったように尋ねてくる。
 尋ねながらも目は押さえた肩に向けられ、赤く染まったそこを見て小さく息を飲んだ。
「イザ……」
 もしかしたら責任を感じてしまったかもしれない。そう思い、キサは気にするなと声をかけようとした。
 これは自分が納得した上で手を出した結果の怪我だ。ファイザードに非はない。
「済まない、油断し……」
 しかしファイザードはその言葉を遮るように、口早に言い放った。
「キサが謝る事はない。謝るのはこっちだ。…ごめん、キサ。すぐ、すぐに治すから……!」
「…治す?」
 どうやって、と思った時にはファイザードの手がキサの肩に向けられている。
 ファイザードの纏う微かな光が、手の部分だけ強くなったかと思うと、傷口の周囲がほんのりと熱を帯びた。
 時間にして、ほんの刹那。
 すぐにファイザードの手は離れ、同時にあれ程感じていた痛みが幻だったかのように消え失せていた。
「…どうかな」
「どう、って……」
「傷、残ってない?」
 言われて押さえていた手を退けると、先程まではあった狼の噛み傷が綺麗になくなっていた。
 流れてしまった血が残っている為、怪我を負った事は確かのようだが、その部分を抜きにすると、最初から怪我などしていなかったようだ。
 ようやくそこで僧侶の治癒能力を思い出したが、今まで僧侶との関わりがなかった為、初めて目の当たりにしたそれは、まるで奇跡のようだった。
「…大丈夫だ。治ってる」
「良かった……」
 キサの答えを聞き、心底安堵したように肩から力を抜く。
 そんな彼と治った傷を交互に見つめ、キサはまだ夢でも見ているような気持ちで確認する。
「イザの…力なのか?」
「うん、僧侶の能力だよ。…本当にごめん、キサ。こんな事に巻き込んで…怪我までさせて」
「…気にする必要はない。これは、わたしが勝手にした事だ。それに、今治してくれた」
「それでもやっぱり非は僕にあるよ。…待ってて、決着をつけるから。そしたら後で、僕を殴るなり蹴るなり好きにしていいから。…それくらいじゃキサの感じた痛みには程遠いかもしれないけどね」
 それだけ言うと、何か言いかけるキサをそのままに表情を引き締め、ファイザードは立ち上がった。
 ── 決着を着けるのだ。
 狼── ヴィークの方へと向き直る。傷を負い、ボロボロになっていながらも、緑を帯びた毛並みは先程思い出した過去の映像と寸分変わらない。
 なのに…その中身はあまりにも変質してしまっている。変えてしまったのは、彼が主と呼び、仕えた人物だ。それは……。
「待たせたね、ヴィーク」
『……よくも、儂の『名』を』
 憎々しげに呟くのへ、ファイザードは小さく笑った。
「忘れてないかい? 僕は── 妖精使いだ。あの人の…お前が仕えた、最大にして最強の力を持った妖精使い、シリイの血を引く……ね」
 その若草色の瞳は悲しみに沈み、口元には微苦笑が浮かぶ。まるで、自嘲するような。
「…たとえランクを落としていても、お前の名を『掴む』事くらいは出来るんだよ」
『フン…ただの腑抜けではなかった、そういう訳か……』
 相変わらず皮肉っぽい言い草ながら、何故か嬉しげにその言葉は聞こえた。
 そうでなくては── そう言っているように聞こえて、ファイザードの苦笑は更に深まる。
 その言葉の裏にある、彼の望みがわかってしまったから……。
 ファイザードは懐から顕精珠を取り出した。視線はヴィークに向けられたまま、小さく頭(かぶり)を振る。
「僕は腑抜けだよ。ずっと、逃げていたからね。…忘れてしまいたかった。母さんの事も、母さんが犯した罪も── 自分がした事も。なかった事にしたくて、でも出来なくて……この罪悪感を消す方法として、巡礼くらいしか思いつかない位、僕はどうしようもない腑抜けさ。お前の言い分は正しいよ」
『……』
「でも…お前は、関係のない人間まで巻き込んだ。僕だけを狙えばいいのに、アラパスを…キサを傷つけた」
 ゆらり、とファイザードを包み込む光が揺らぐ。さながら彼の決意を示すように、それは目に見えて強さを増した。
「── それだけは、許せない。だからもう僕は逃げない。お前を……倒す!」

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