魔術士見習い奏曲

 それは平和で平凡な、何処にでもある朝のこと。
 多くの人が窓から差し込む朝日を浴び、窓から聞こえる小鳥の囀(さえず)りに耳を傾けながら一日を始める── そんな時分。


「──…なんだこりゃあっ!?」


 そんな、とても花も恥じらう乙女とは思えない声をあげて、ディリーナの一日は幕を開けた。

+ + +

 奇声を上げて、数秒後。
 すぐさま部屋を飛び出したと思うと、ディリーナはそのまま廊下を疾走し、叩き割る勢いで隣の部屋に乱入する。
「ちょっとっ!? どうしてくれんのよっ、これえ!!」
 半泣きで殴り込んだその先は、共に暮らす兄の部屋だった。
 そのままの勢いで、まだ平安な眠りをむさぼる部屋の主に詰め寄ると、その耳元でがなり立てる。
「ねえっ、何を平和に寝てるのよっ! 人が寝てる間になんて事すんのっ!! ちょっと起きなよ! 起きて弁明くらいしてよ、クソ兄貴っ!!」
 事の起こりは、ほんの少し前。
 朝、いつものように目覚めたディリーナは何となく妙な違和感を感じたのだ。
 と言っても、それは『なーんかだるいかなあ、疲れが取れてないのかな』程度のものだった為、大して気にも留めずに身仕度を整え、いつものように洗顔する為に部屋の隅に置いている洗面台に向かったのだが──。
 そこに置いていた鏡に映った自分の姿を見た瞬間。ディリーナは朝っぱらから絶叫する羽目になったのだった。
「…っ、何だよ…うるせえなあ……」
 目も開けずに、ディリーナの実の兄・タルクは不機嫌さを隠さない寝惚けた声を漏らす。
「うるさいぃ!? そんな事言える立場? さっさと起きて説明せんかあーっ!!」
 完全にキレていたディリーナは、容赦なく彼から布団を剥ぎ取り、ついでとばかりに枕を彼の頭の下から、憎しみすら籠もっている様子で思い切り引っ張り出す。
 勢い、ばふっと敷き布団に頭を直撃する事になったタルクは、そこまでされて流石に目を開いた。
「…ディ。てめえ、おにーさまに向かって何さらす」
 怒りの籠もった低い声がその唇から漏れたが、ディリーナも負けてはいなかった。
「誰が『おにーさま』だって? 何処の世界に、実の妹の寝込みに乗じてこんな事する『おにーさま』がいるっての!?」
 売り言葉に買い言葉。
 似たもの兄妹は互いに譲らず、びしいっと火花が散る勢いで睨み合った。
 兄の氷の瞳と、妹の朝焼けの瞳がぎりぎりと睨んで── やがてそれは何かに気付いたように、妹の顔をまじまじと見た兄の突然の爆笑によって中断される。
「ぶっ、は…はははははっ! ディ、いい感じじゃないか!!」
 いきなり腹を抱えてげらげらと笑いだした兄を、一瞬呆然と見つめ── しかし次の瞬間、状況を理解したディリーナはぷちっとまたキレた。
「だっ、…誰のせいと思ってんのよおおっ!!」
 ただでさえ大きな目を思い切り吊り上げ、ディリーナは噛みつく。しかし、対するタルクは何処吹く風で、まったく笑いを収める気配もない。
「いやあ、傑作傑作…ははははは……!」
「笑うなーっ!!」
 爆発したディリーナを涙が浮いた目でちろりと見上げ、タルクは笑い過ぎて痛む脇腹を擦(さす)りながら、まあまあ、と宥(なだ)めるような事を言う。
「いやあ、やっぱオレって天才だわ。似合ってんぞ、ディ」
「何ですってえ!? こ、これが似合ってるうっ!?」
 さらにこめかみに青筋を立てて逆上するディリーナの紅潮した顔。
 まだ幾分幼さを残すそこを指さして、ディリーナは今日何度目になるかわからない激昂(げっこう)の叫びをあげた。
「こんなの似合って、嬉しいわけないでしょうがああっ!! このクサレ外道ッ!!」
 怒りの余り震える指が、自らの額を示している。
 そこにはどう考えても人為的としか言い様のない、ある言葉がくっきりと刻まれていた。


 曰く──『間抜けヅラ』。

+ + +

 タルクとディリーナがこの世に二人きりの兄妹となったのは、かれこれ五年程前のこと。
 今や世界中を我が物顔で跋扈(ばっこ)する魔族に両親は襲われ、その命を奪われたのだ。
 そんな事は、この世の中、強いて珍しい事ではなかった。病で死ぬのと同じ程度に一般的な死因である。
 丁度、それは二人がそれぞれ専門の学び舎にいる時の事で、彼等は両親の無惨な死に様を目にせずに済んだが、その代わりに予定より少しばかり早く自立する羽目に陥った。
 こういう時、普通だったら手に手を取り合い、『助け合って、共に強く生きて行こう!』などと誓い合うのが定石なはずなのだが、彼等は違った。
 兄妹仲は悪い訳ではなかったが、兄は普通とは言い難い程に常識というものが抜けていたし、妹も『しおらしい』という言葉とは一生縁がなさそうな程に剛気な性質だったのだ。
 こういう二人である。
 実に数年振りに久し振りの再会を果たしたからと言って── しかも、それが両親の葬儀の為であっても── 彼等は結局、彼等でしかなかった。

「おう、お前まだ生きてたか」

 と意外そうに兄が言えば、

「何だ、帰ってきたの。てっきりうちの事なんて忘れてるって思ってたけど」

 と妹が当たり前のように答える有り様だ。
 さぞかし彼等の両親は、草葉の影で育て方を間違ったと涙を飲んでいる事だろう。
 …それはさておき、二人はそうこうしながら五年も一緒に生活してきた訳だ。
 その間、この変わり者の兄妹が生計をどうやって立てていたかと言えば、それぞれが習得してきた特殊技能を使ってだった。

+ + +

「兄さん。前からずっと言いたかったんだけど。折角の能力なんだから、もうちょっとまともな事に使ったらどうなの?」
 朝、起きてすぐにあれだけ派手にやりあった後、彼等は取り敢えず少しだけ遅めの朝食を摂る事にした。
 その食卓で、ディリーナが切り出した。その額には今だ『間抜けヅラ』の文字がくっきりはっきり乗っかっている。
「…今は仕事ないからいいけど。ともかく早い所、消してよね」
 憮然とした口調で言うと、乱暴に千切ったパンを口に放り込む。
 苛立ちを隠さないその様子を横目に、タルクは面倒くさそうな顔をした。
「…何よ、その嫌そうな顔は」
 何となく嫌な予感がして、ディリーナが確認を取る。
 タルクは少し冷めかけたスープ(猫舌なのだ)をわざとのように啜(すす)ると、ぽつりと言い放った。
「勿体無い。似合ってんのに……」
「……」
 兄の言葉は失礼極まりないものだったが、ディリーナはそんな言葉で兄が何か誤魔化したのを敏感に感じ取る。
 伊達に血は繋がってないのだ。
「…今度は、何」
 半眼になって低く問いかける。それに、タルクはちらりと視線を投げかけてきた。
 意味有り気なその視線は、語るに落ちると言わんばかりだった。
「話してみなさいよ。…取り敢えず、聞くから」
 思い切り嫌な予感がしたが、水洗いでは落ちない『間抜けヅラ』の文字を消したい一心でディリーナは譲歩した。
 幼い頃から、常々兄には嫌がらせのようなちょっかいをかけられてきたが、今回は少々大がかりのように思われたのだ。
「…ちょっとさあ、ディ。おにーさまの頼み、聞いてくんない?」
 案の定、タルクがそんな事を言い出した。
 ぴきっとディリーナのこめかみに青筋が浮かんだが、ディリーナは必死に自制して、言葉を促す。
「…何?」
「《魔法門》、取ってきて」
「── は?」
 しゃらっと、気軽な口調で言われた言葉に、ディリーナは耳を疑った。
「兄さん、あまり聞き返したくはないんだけど── もう一回、言ってくれる?」
「あ? …だから、《魔法門》が欲しいんだよ。お前なら取ってこれるだろ? 仮にも『マジックハンター』なんだからさ」
「……」
 ディリーナはあまりの言葉に絶句した。
 《魔法門》というのは、世界に満ちる魔法力を吸収した自然物で、前もって術をかけておいた所持者の望む形でその魔法力を放出するものだ。
 逆を言うと、加工前のその周辺では魔法力を吸収されてしまうので、まともに術が使えないという事になるが、一度手にすればそれの持つ魔法力が尽きるまで、どんな場所でも術が使える。
 だが、それは滅多に見つからず、数が希少なだけにその価値だけで欲しいと望む魔術士も多い。

 …だが。

「…何で兄さんがそんなものを欲しがるの?」
 タルクはかなり特殊な職業ではあるが、《魔法門》が必要な職業ではないはずで。
 ディリーナの顔に疑惑の色が浮かび上がる。
「『刻印師』の兄さんには、そんなものいらないでしょうがっ!?」
「えー、だって頼まれたんだよなあ」
「はあ〜っ!?」
 苛立ちを込めて怒鳴りつけると、兄はへらへらと笑いながらそんな寝ぼけた事を口にする。
「ほら、馴染みの飲み屋でさ。この間、そこで会った魔術師のおっさんとちょっと仲良くなったんだよ。で、そのおっさんがまたランク低くってなあ。一度でいい、大がかりな術をやりたいって涙ながらに……」
「ちょおっと待ちなさいよっ!?」
 そんな酔っ払い同士の口約束に、何故に無関係な自分を巻き込むか。
 確かにディリーナの職業は、聖遺物や魔法具を回収・封印する事を専門とする『マジックハンター』と呼ばれるものではある。
 …が、ランクで言えばそこそこのCランクでしかない自分に入手困難な《魔法門》を取りに行かせるよりも、半永久的にランク自体を上げ下げ出来る『刻印師』の刻印を施した方が余っ程早道というものだ。
 そして、このクサレ外道の兄はその『刻印師』。
 …そう、ディリーナの額に『間抜けヅラ』というばかばかしい悪戯書きのような刻印を施す位だったら、その魔術師のおっさんとやらに、ランクアップの刻印を施してやればいいのだ。
「それだったらわざわざ《魔法門》なんて探してこなくたって、兄さんがちょこちょこっと印を刻んでやれば済むじゃないよっ!?」
 だがそう言ってやると、タルクは鼻先で笑って言った。
「えー? だってこの方が面白いじゃないか」
「おっ、面白いですってえ!?」
 柳眉を逆立てる妹に、兄はへらりとばかにしきった顔で頷く。そしてディリーナの額を指差すと、駄目押しとばかりに言い放った。
「…それ、消して欲しいんじゃないのか?」
「〜〜〜っ!!」
 ふるふると肩を震わせ── しかしディリーナに反論の言葉はなかった。
 刻印は施した本人か、施術した者よりも上のランクの者しか消す事が出来ない。
 悔しい事に、タルクときたら刻印師としての腕前はランクで言えば最上のAランクなのだ。
 …つまり、彼が刻んだこのとんでもない印を消せるのは、身近なところでは兄自身しかいない訳だ。
「…あのねえ、兄さん? あたしが、ランクCって事わかってる?」
 それでもこれだけは引けずに仕切り直す。
「マジックハンターのあたしが、一体どうしてわざわざ魔術士ギルドに加入してると思ってるのよ! マジックハンターはね、ランクB以上じゃないと独立開業出来ないんだよ!?」
「知ってるぜ? そんな事くらい」
 ディリーナの怒りを隠さない言葉に、兄は片眉を器用に持ち上げた呆れた顔を向ける。
 益々怒りは募ったが、敢えてそれを抑え込み、その反動でドスの効いた低い声で確認を取る。
「…じゃあ、それを知っててあたしに『モグリ』の仕事をしろ、と?」
 冗談ではない。
 生まれてこの方、一度だって犯罪行為はしていないのが、ディリーナのなけなしの自負なのだ。
 …確かに在学中、備品をうっかり破壊したりとか、封印法の授業で暴発させて教室を再起不能に陥らせたりとか、そういう事はあったが、いづれも不可抗力であって、望んでそれをした訳ではない。
 もし、両親が亡くなってたのがもう少し遅かったなら、ランクBになれたかもしれない。おそらく、それ位の能力は多分持っていた。
 けれど、それ以前に生きて行く為に学び舎を去らなくてはならなくなって、結局そうはなれなかったのだ。
 たとえ実力があったからと言って、決まりを破るような事はしたくない。そんな事でこの人生、終わりにするつもりは毛頭ないのだ。
「だからさ、印を施してやっただろ?」
 だがタルクは、しれっとディリーナの内面など知った事ではないといった様子でそんな事を言ってくれる。
「は? 印…って、まさかこれっ!?」
 と言って示したのは額の文字だ。
 『間抜けヅラ』と書かれたこれが、まさかただの悪戯以上の意味を持つなど、流石のディリーナも思いもしなかった。
 何しろ、余りにも間抜けすぎる。
「このオレが役にも立たない印を刻むわけないだろ? ちゃーんとランクアップの印を施してやったって。古代精霊・魔道文字使わずにこれだけコンパクトなんだからな。やはりオレって天才だな、うん」
「……」
 どんなに偉そうに言われても、どんなにそれがすごかろうと、見た目が落書きレベルでは説得力がない。
 こんなばか者と血が繋がっているなんて、不幸と言わずになんと言おう。
 今度は怒りを通り越し、呆れ果てて言葉を失うディリーナだった……。

+ + +

 そのままでは、あまりにも恥ずかしくて外にも出られない。
 仕方がないので、ディリーナは額に布を鉢巻のように巻いて間抜けな刻印を隠す事にした。
「何だよ。折角の傑作を隠す事ないだろ?」
 などと、残念そうにほざく兄は完全に無視する。
 どんなに傑作だろうとも、ディリーナにしてみれば恥ずかしいの一言に尽きてしまう代物だ。
 どんな手段を使ってでも、消してもらわねばと決意を固める。
「…兄さん。それよりも、《魔法門》の在処の手がかり位はあるんだよね? 普通に探してたら軽く一年はかかるよ」
「おう。その辺は抜かりはないぞ。お前だけに任せてみろ。下手したら一生帰って来なさそうだからなあー」
「……っ!」
 こいつにだけは言われたくないと思う言葉をしれっと吐き出して、タルクは自室からメモらしきものを取ってくる。
「ほれ。手がかり」
 ぺらっとディリーナの方へ向けられたそれを見て、ディリーナは思い切り目の前の男をどつきたい衝動に駆られたが、必死に自分を押し止めた。
 自分の額に刻まれた印がすぐにでも消せるものだったら、本気で殴っていたかもしれない。
 というのも、そこには一言だけがでかでかと書かれていただけだったからだ。

 曰く──『北の方』。

「…それの何処が手がかりなの、兄さん?」
 怒りのあまり震える声で尋ねると、タルクはばかにしきった顔で言い放つ。
「これだけわかれば何とかなるだろ? 一応お前、マジックハンターで食ってるんだからさー」
「わかるかああ!!」
 いくらランクの高いマジックハンターでも、そんな漠然とした情報でマジックハントする者などいない。
 細かい位置座標まで欲しいとは言わないが、せめて存在するだろうと思われる国名くらい提示して欲しい。
「冗談じゃないわよ! 北って言われても、ここから北方って言える所なんていくらでもあるでしょ!? バーズラス山脈までに一体いくつ国があると思ってるの!」
 きいっと目を吊り上げる妹に、兄は珍しく真面目な顔で答えた。
「まあ、少なく見積もって三つくらいか?」
「あっさり答えるんじゃないわよっ!!」
「お前が聞いたんだろうが……」
 三つくらいと簡単に言ってくれるが、それはあくまでも直線上にある国だけで、それ以外になったらその何倍にも膨れ上がる。
 それを徒歩で捜しまわるだなんて、とても一年だなんて言えない。先刻のタルクの冗談ではないが、下手したら一生帰ってこれないではないか。
 ディリーナは今日ほど兄との血縁を切ってやりたいと願った事はなかった。

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