魔術士見習い習曲

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「あ。リーナ」
 不意に背後からとぼけた声が飛んできた。
「…何よ?」
 少々苛立っていたディリーナは怪訝さを隠さずに振り返る。
 と、その瞬間。足元が不意になくなった感じがした。
「そこ、危ないよ?」
「へっ? …っ、きゃああああ!?」
 忠告と同時に思い切り足を滑らせたディリーナは、一瞬自分の体が宙に浮いた事を知覚し── 我に返った時には、彼女の体は重力に逆らう事なく、蟠(わだかま)る闇の中に落下していた……。

+ + +

 そもそもの始まりは、ディリーナが加入する魔術士ギルド《フォルク》── 規模は中の上程度── の入り口に足を踏み入れた時であった。
「あああ〜っ!?」
 そんな情けない悲鳴が聞こえたかと思うと、何かがディリーナ目掛けて、すごい勢いで飛んできたのだ。
 びしゅんっ! と空を切り裂いて接近してくるそれは、果たして水を湛(たた)えたバケツであった。
「ッ!?」
 これでもそれなりに仕事をこなしてきたディリーナだ。
 突発的な事態に対する対応力は人並み以上に持っている(人、それを『野生の勘』とも言う)彼女は、恐るべき動態視力でそれを認識した瞬間、咄嗟にその辺にあったものを引っ掴むと、それを盾に自身をガードしていた。

 ざぱああんっ!!

「うわあっ!?」
 水が床にぶちまけられた音と共に、間の抜けた悲鳴が上がる。
 水飛沫一つ浴びなかったディリーナは、そこではたと我に返り、その間抜けな声の主をまじまじと見つめた。
 背格好を一見した所、十五、六歳。
 それは、ディリーナよりも一つか二つは年下に見える少年だった。
 濡れそぼった曲のない黒髪を短く切った頭は、ディリーナよりは幾分高いものの、ほとんど変わらないようだ。
 顔はディリーナに背を向けた形になっている為によくわからないが、何となく童顔に違いないとディリーナは踏んだ。
「……」
 その少年はしばらく放心したかのように立ち尽くしていた。
 自分の置かれた状況を認識するのに時間がかかったのだろう── やがてはっと我に返ると、慌てたように振り向く。
「…あの?」
 案の定と言うか、予想通りと言うべきか。振り向いたその顔は童顔であった。何となく中性的な感じのする、でも決して女っぽくは見えない顔だ。
 大きな目は焦げ茶色をしていて、肌はその年頃の少年にしては白い。
「ちょっと、聞いていいかな?」
 引きつった笑顔がディリーナに向けられる。口調からすると、どうやら怒っているらしい。
(?)
 内心首を傾げたディリーナだったが、彼が言葉を続ける前に理由に思い当たった。
 何しろ、まだディリーナの手は彼の腕を掴んだままだったのだから。
「あ。ああっ、ごめーん! つい、反射的にさ。ははは……」
 ディリーナの顔にもまた、引きつり笑いが浮かぶ。
 こんな状況で、笑う以外にどんな反応が出来るだろう。
「…ふうん? 反射的に?」
「うん、そうっ! はははははっ」
 引きつった笑いで微笑み合いながら、盾にした人物と盾にされた人物は、このようにして初対面を果たしたのだった。

+ + +

 わざとではないのだと必死に弁解を試みた結果、少年は信じてくれたらしい。
 …もっとも、濡れ鼠(ねずみ)でそれ所ではなかったのかもしれなかったが。
 バケツをすっ飛ばした当の人物── ギルドのお掃除のおばちゃんが、大慌てで彼を強制的に風呂場まで連れ去った結果、なし崩しに別れる事になった為、事実関係は不明だ。
 ぽつんと一人取り残されたディリーナは、ほっと胸を撫で下ろした。
(…やっば〜。さっさと用事片してとんずらしちゃお……)
 万が一根に持つタイプだと先々面倒になりかねない。
 覚えている限りでは見た事のない顔ではあったが、こんな所に来ている位だから、少なくとも魔術士関係である事は確かだろう。
 魔術師などだった場合、キレて攻撃される危険だってある(不本意ながら、経験有り)。
 ディリーナは肩を竦めると、早速ギルド内の情報収集関係者がいる一角へと足を進めた。
「おやっさん、こんにちは」
「おお? 何だ、ディじゃないか。久しぶりだなあ」
 流石に情報係である。
 数月ぶりというのにディリーナの事を覚えていたらしい。禿げ上がった頭を撫でながら、にいっと笑った。
 そしてディリーナを頭から足までまじまじと見たかと思うと、不思議そうに尋ねてくる。
「何だ? えらく重装備だな。鉢巻なんかして、一体何事だ?」
「うん…ちょっと、ね」
 情報係の職業病というやつか、ツッコミ所が鋭い。
 他の装備にいくらでも目を向けられるはずなのに、何故によりにもよって一番触れて欲しくない部分に注目するのだろう。
 いくら自分に何の非がない事であっても、極力身内の恥は曝(さら)したくないものである。
 ディリーナは内心の忌々しさを抑え、極力なんでもないような笑顔で話を変えた。
「それより、情報が欲しいんだけど」
「何の情報だ? 仕事のかい?」
「ううん、違うの。あのさ、…《魔法門》が必要なんだけど、そういう情報はない?」
「── 魔法門だって?」
 情報係は裏返った声で反芻(はんすう)した。
 地声が大きくないのが幸いして、周囲には聞こえなかったらしいが、ディリーナはもう少しで情報係を殴って沈黙させる所だった。
 寸での所で踏みとどまり、反射的に振り上げかけていた腕をそろそろと戻して、ディリーナは硬い声音で確認を取る。
「…そんなに、意外?」
 そのディリーナの作り笑いを見た情報係は、あからさまに顔を引きつらせたが、その事に関してはあえて触れようとはしなかった。…実に懸命な判断である。
「い、いや…、ちょっと驚いただけだ。魔法門なんてシロモノ、ここ数年、うちじゃ扱ってなかったしな」
「つまり…情報もないってこと?」
「そういうこったな。ディこそマジックハンターなんだからわかるだろう。あんなもの、その辺にごろごろしてるもんじゃないってな」
 それはまったくその通りだった。
 魔法門はそれだけ希少だし、かつ有名なのだ。もし発見の情報でもあれば、すぐさま何人ものマジックハンターが挑むのは目に見えている。
 マジックハンターのランクは、魔法力感知能力及び封印技能によって決まる。
 兄・タルクのいい加減なランクアップの刻印を施されたディリーナは、結局の所、魔法力感知能力はランクB並になっている(はず)だが、技術の方が追いついていない。
 プロ中のプロと言えるランクA辺りのマジックハンターが出てきたら、まったくもってお呼びでないのだ。
 魔法門は規模の大小はあれども、加工前は周辺のあらゆる魔法力を吸収してしまう。それに対抗できるだけの封印を施すのは、余程の腕がないと不可能に違いない。
「確かに見つかれば一攫千金だけどなあ。やめときな、ディ。…あれは魔族も呼ぶからな」
「…それはわかってるんだけど」
 諦めて済む問題ならさっさと諦める所だ。
 ── しかし。
 今回は、ここであっさりと諦められない理由が存在する。
(…ここでのこのこと戻ったら、あのクソ兄に何て言われるか……っ!!)
 脳裏に浮かんだ憎き人物のばかにしきった顔を追い払うように、ディリーナはぷるぷると頭を振った。
 それに一生、額に刻まれたこの間抜けな刻印を抱えて生きるつもりも毛頭ない。
「もう何だっていいわ。何か妙な情報があったら教えてよ」
 溺れる者は藁(わら)でも掴む。
 半ば投げやりな気持ちで言い放つと、情報係は渋い顔で唸った。
「妙って言われてもなあ……」

 その時、不意に彼等の背後から何者かが口を挟んだ。
「じゃあさ、僕に同行しない?」
「…へ?」
 驚いて振り返り、ディリーナは凍りついた。
 果たして、そこには先程、彼女がバケツの盾にした少年が立っていたのだ。
 まだ髪は濡れていたが、服は新しいものに変わっている。下ろしたての感じがするから、掃除のおばちゃんが新品を奮発したのだろう。
 淡い灰色のゆったりとした上着は、ちょっとばかり彼には大きかったらしく、袖が少し折り上げてあった。
「魔法門、探してるんでしょ?」
 先程のやり取りなど忘れたかのように、にっこりと笑って尋ねてくる。ディリーナは反射的に頷いた後、はっと我に返った。
「そ、それはそうだけどっ! 何よ、あんた、何か情報握ってるの!?」
 意気込んで尋ねると、少年はくすっと笑った。
 その笑い方に何となく嫌な予感がしたが、もはや引っ込みはつかない。
 興味深々といった様子で、すっかり外野になってしまった情報係を軽く睨みながら、ディリーナは少年の言葉を待った。
「情報って程ではないよ。それが魔法門であるかもわからないしね」
「それでもいいわよ。今はどんな情報だって欲しいんだから!」
「だったら、僕に付き合いなよ。僕がこれから行く所には、妙な魔法力の偏りがあるらしいんだ。…可能性は低いだろうけどね」
「そんなの関係ないわ」
 元から希少とされるものである。最初から見つかるとは思ってない。
 だから── 今は当たって砕けるしか道はないのだ。
「…でも、何だってあたしに?」
 先程の笑みが気にかかった。
 大体、彼が何の為にここに来たのかも不明のままだ。連れはいないようだが、見た感じでは非力そうだし、とても大層な事は出来なさそうである。
 ランクDかE辺りの魔術師かな、と見当をつけつつ、ディリーナは用心深く観察する。
 その怪訝さを隠さないディリーナの視線をものともせずに、少年はあっさりと答えた。
「何となく」
「…は?」
「さっきのバケツの事は…まあ、事故だったとしても、さっきから傍(はた)で見てて、言動が面白いなあって思ってさ」
「な、何ですってえ!?」
「はっはっはっ! 坊主、なかなか面白い事言うなあ!」
 怒りに眉を吊り上げるディリーナの横で、情報係が追い討ちをかけるようにばか笑いする。
「…っ、そんな事であたしに同行を求めたって言うの!?」
 こめかみに青筋を立てながら、それでもディリーナは懸命に自分を宥(なだ)めた。何しろ相手には先程の件で一つ貸しがある。
「どうせ旅をするなら、楽しい方がいいじゃないか」
 少年は至極当たり前のように言って、止めとばかりににっこりと笑った。
「……ッ!!!」
 どう考えても納得がゆかないのだが、今はどんな情報でも欲しいのは事実だ。
 ディリーナはしばし自身と葛藤した後、引きつり笑いで口を開いた。
「…わかった。一緒に行ってやろうじゃないの」
「そう? じゃあ決まりだね」
 少年はディリーナの硬い口調などものともせずに、楽しそうにそんな事を言う。
 その様子に苛立ちは募ったが、ディリーナは忍の一文字で耐えた。
「それじゃあ、よろしく。あ、僕はユケ。君は?」
「…ディリーナ」
「じゃあ、ディリーナ。僕はこれからいろいろと用意があるから失礼するよ。明日またここで落ち合おう。いい?」
 悪いなどと言える立場ではない。仕方がないのでディリーナは頷いた。それを確認すると、ユケと名乗った少年は、足取りも軽く颯爽と去って行ってしまう。
 …ひょっとして早まっただろうか?
 そんな事を思いながら、離れていく背中を見送るディリーナだった。

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