桜

 緩やかに、生温かい風が吹き抜けていく。
 そう、『抜けて』いく。どうやら私の体は実体でないらしい。混乱しつつもそう認識する。
 体の中を通り抜けてゆく感覚は、想像以上に気持ちのいいものではなかった。
(何? これ……)
 確かに先程まで狂い咲きした桜の下で、友人と他愛のない話をしていたはずだ。訳もわからず、傍らにいるはずの友人の姿を捜す。
(ねえ…… !?)
 そこに、友人の姿はなかった。いたのは。
 美しい赤い着物を身に着けた若い女だ。中途半端に乱れた髪が、風を受けて怪しく蠢く。
 一体、いつの時代のものか。妙に時代がかった格好だ。そればかりか、常軌を逸した雰囲気を醸し出している。
 理由はすぐにわかった。
 目に鮮やかな赤い色。着物を彩るその真紅は、私に恐怖を与えた。
 風が運ぶ錆びた臭い。これは── 血だ!!
 立ち上がろうとした私の目前で、女がこちらに顔を向けた。まるで何かを喰らったかのような朱唇がにたり、と笑う。
 既視感。
 私はこの女に会った事がある。でも…何処で?
「みいつけたあ……」
 ひょっとしたら、それはまともな言葉ですらなかったのかもしれない。けれど、私の耳にはそう聞こえた。

 コロサレル。

 不意に思った。

 ワタシハミツカッテシマッタ。
 カクレトオサネバ、ナラナカッタノニ。

 女の白い手が、こちらに向かって伸ばされる。まるでスローモーションのように、それはひどくゆっくりに見えた。
 指先の爪が、まるで刃物のように冷たい光を放っている。あれにかかれば、このすかすかの体はたちまち千々に引き裂かれてしまうだろう。
「妾の鬼。ようやっと見つけたぞ……!!」
 歓喜の叫びをあげた女の歯は、すでに人のものではない。異常に発達した犬歯が目に焼き付く。
 女はすぐ間近に迫っているのに、私の体は動かなかった。
 金縛りにあったかのように、そこに釘付けされている。唯一自由な目が、女の動きを捉えているだけだ。
「そなたを喰らえば、妾は永遠に生きられるのだ!!」

『だから、鬼は絶滅してしまった』

 女のものではない、誰かの声が何処かから囁く。

『人より少しばかり、自然との関わりが深かったばかりに』

 誰だろう。聞き覚えがある。

『今でこそ人は八十の齢を生きるけれど、昔はそれほど長くは生きれなかったから』

 そうだ、この声は。
 女の牙が、私の喉を捕らえる !

『人は、鬼を喰らったのさ』

 この声は、『私』だ……!!

 そして、視界は真紅に染まった。女の勝ち誇ったような笑い声が響く。狂ったその笑い声はやがてゆっくりと遠ざかっていった。

+ + +

「ちょっと! どうしたの!? ねえ!?」
「……?」
 気がつくと、目前に見知った顔。
 視界は再び午後の柔らかい光に包まれている。
「大丈夫? 急に黙り込んだと思ったら、真っ青になるし……」
 心配そうな声に、私は深い安堵のため息をつく。
 これが現実。私の体はちゃんと風を受けとめている。
 白昼夢と言うにはあまりに生々し過ぎる凄惨な幻夢。血の臭いすら覚えているほどだ。
「ごめん、ちょっと貧血……」
 額に浮いた冷汗を拭って、私は微笑んでみせた。
 見上げると、陽が少し傾いている。一体、どの位あの悪夢に捕われていたのだろう。
「もう…、心配させないでよね」
 怒ったような言葉に安堵の響きがある。余程心配させてしまったらしい。
 私はもう一度謝った。
「ごめん、もう、大丈夫だから」
 ふと目についた地面に缶紅茶の缶が転がっていた。飲みかけで落としてしまったのだろう。乾いた地面に、紅茶の染みが広がっている。
 そこに、一片の花弁が落ちた。

「…!?」

 ぎくりとなる。すぐに風に攫われたその花弁に、あるべきでないものを見た気がしたのだ。
 まるで血飛沫のような、真紅の──。
「…ない?」
「…えっ?」
「え? じゃない! そろそろ帰らないかって言ってるの! あんたの気分も悪そうだし、ね?」
「う、うん……」
 まるで引き摺られるように、私はそうして帰路に着いた。

+ + +

 もしこの世に『鬼』が存在するならば。それはきっとあの場所にいる。
 あの、美しくも恐ろしい、薄紅の花の下に。
「…だから、今日は見逃してあげる」
「え? 何か言った?」
「今度はちゃんと春に来ようって言ったの。ほら、足元気をつけて。まだふらふらしてる」
 そう言って、その『人』は嗤った。

〜終〜

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