螂

 ── 誰が、決めたのだろう。
 命を繋ぐ為のその行為が、残酷であるのだと。
 
 行う者が、心を痛めないとでも言うのだろうか。
 哀しみに囚われないとでも言うのだろうか。
 だから、残酷だと?

 当事者でもなければ、真実などわかろうはずがないのに──。

+ + +

 まるで、空が燃えているかのような夕暮れだった。
 高台に位置するその道から、赤く染まった世界が一望出来る。
 帰宅途中の彼は、漕いでいた自転車を止めると、しばらくその光景を眺めた。
 ここまで登ってくるのは大変な労力で、そんな場所に家を建てた父親を恨む所なのだが、今日のように素晴らしい夕暮れ時に遭遇するとそういう事も忘れてしまう。
 何もかもが、赤い。
「…世界が終わる時って、こんな感じかもしれないわね」
 不意に隣から聞こえて来た言葉に、はっとなる。
 見れば、一体何時の間にそこに来たのか、見知らぬ顔の女が一人、闇の気配の漂い始めた赤い光を浴びて立っていた。
「ね、あなたもそう思わない?」
 尋ねながらもこちらを見ない横顔を、彼は答える事も出来ずに凝視した。
 長い、背を覆う艶やかな黒髪。夕暮れの光に浮かび上がる顔は白く、特に化粧をしている様子ではないのに、唇の赤が目に焼き付く。
「…誰だ?」
 無意識に声に警戒が混じる。
 ようやく女は彼の方に顔を向けると、ふ、と唇の端を軽く持ち上げた。
「聞いて、どうするの?」
 尋ね返すその顔にやはり覚えはなく、彼は困惑する。
 ── 女はそんな彼の様子に軽く肩を竦めると、すっとさらに身を寄せてきた。そしてすぐに触れ合えそうな程の至近距離で、彼女はきっぱりと言い切る。
「安心して? あたしとあなたは初対面だわ。今まで一度も会った事はないはずよ」
「……」
 一体何を安心しろと言うのか。
 困惑はさらに深まりはしたものの、少なくとも会ったのを忘れているという可能性が消えた事には安堵した。
 何しろ目の前にいる女は、あまりに整った顔をしていたのだ。それこそ、一度会えば二度と忘れなさそうな──。
 美貌、というよりも、妖艶といった言葉がしっくりする顔立ち、そして雰囲気だった。けれども、不思議と色香を感じさせはしなくて。
 そう、姿形はどう見ても『女』を強く意識させるものなのに、受ける印象はそうした甘さがない。
 むしろ、どちらかと言うとそうしたものを否定する、潔癖さのようなものが感じ取れた。
「ふふ…」
 彼の困惑を見透かしたように、女は小さく笑い声を漏らす。まるで彼を困らせる事が最初からの目的のように。
「俺に、何か用があるのか?」
 苛立ちを隠さず、率直に尋ねる。
 すると女は、我が意を得たりとばかりに頷き──。
「あなたの命を、貰いに来たの」
 そう、言い切った。
「な…っ!?」
「これでも随分探し回ったのよ? でもなかなか無自覚の者っていないから……」
「ま、待てよ。一体何の話だ!」
「何って…」
 このまま流されてはならないと、焦りながら口を挟む。
 すると女はそんな反抗など予想してなかったのか、その黒目がちの目をきょとんと見開いた。
 そんな表情をすると、外見よりも幼い印象を見る者に与えたが、彼には逆効果だった。
 不意に訪れた不可解な女に対して、怒りを抱く。
 一体何だと言うのだろう、この女は。
 命を貰いに来た? 冗談を言うのなら、もっとマシな事を言うべきだ。
「付き合いきれない、絡むんなら、他を当たれよ」
 言い捨てて、ペダルに乗せた足に力を込めようとして──。
「…!」
 不意に首筋に這(は)わされた冷たい指の感触に、思わず身を竦めた。
 首を締めるというよりは、正に『這わす』といった感じで、彼の首に女の指が絡んでいた。
 このまま振り切る事も難しくはなさそうなのに、何故かそうする事が出来ない。
 まるで── 蛇に睨まれた、蛙のように。
 額や背中にじっとりと汗が浮かぶのを感知する。嫌な汗だった。
「逃がさない」
 耳元で、甘く女が囁く。
「言ったでしょう。探し回ったのよ、ずっと…ずっとね。一族に属さない…しかもその血を継ぎながら、その事を自覚していない者は、本当に数少ないの」

 一族。

 女がそう口にした瞬間、ぞくり、と戦慄が走った。
 意味などわからないのに── それが何を意味しているのか、知っているような気がして。
 自分というよりも、この身体を流れる血、そして身体を構成する肉がそれを覚えているような気がして──。
「ごめんなさいね、でも仕方がないの。女は、子を産む。血を未来へ繋ぐ── その為には、力が必要なの」
「…── 子?」
 一瞬、何を言われたのかわからず、首を動かしてそこにある女の顔をまじまじと見つめる。次いで、そんな徴候など見られない下腹部に目を向けた。
 その言い方では、まるで──。
 彼の心を見透かしたのか、女はその視線の辿る先── 腹部に手を添えると、にこりと誇らしげに微笑んだ。
「まだ目立たないけれど、ここに、いるの。新しい、小さな命が」
 その言葉に彼はようやく気付いた。
 女から受ける印象が、外見とそぐわなく感じたその理由を。
 彼女は今、『女』である以前に『母』なのだ。その強さも、潔さも、それ故に──。
「だから、あたしはこの命の為になら、どんな犠牲も厭(いと)わない」
 言い切った言葉は、いっそ神々しさすら感じさせた。
 けれど…だからと言って、それで納得するかというのは別の話だ。彼は軽く頭を振ると、その場から逃げる事は諦め、再び女と対峙した。

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