Invisible Moon

 その日。
 そろそろ空が高くなり始めた秋の午後。
 彼は何故か空を見上げてしまった。
「……」
 見上げた空には、この頃久しく見なかった昼間の月。
 薄く伸びた雲と同化しているような、そんな月を背景に──。

「やあ、こんにちは♪」

 彼の視線の延長上にいた黒尽くめの男は、ひょいと片手を持ち上げると、シニカルな笑みを口元に浮かべて、当たり前のように挨拶してきた。
「…はあ」
 予想外の出来事を前にして、彼がそのリアクションが取れただけでも上出来だと言えた。
 どう反応していいものかもわからなかったので、そんな間抜けな生返事しか彼は出来なかった── と言うか。
 ごく一般の人々の大半は彼と同じように反応するに違いなかった。
 本日は晴天なり。
 気持ちいいくらいの晴れ渡った空。そこに散らばる雲はこじんまりとして、入道雲にはない可愛らしさだ。そして、惜しみなく降り注ぐ柔らかな陽光。
 先日までの熱の名残を微かに止めた空気も、真夏の猛暑に曝された肌には心地良い、そんな天気だというのに── その人物がいるだけで、全てが場違いなものになってしまっていた。
 いや、おそらくは場違いなのは男の方なのだ。
 しかし、あんまり自然にそこにいるものだから、逆に周りに違和感を感じてしまうのだろう。
 空の青さと対比するような真っ黒な出で立ちも、随分と顔色の悪い顔も、そしてそこにある対処に困るフレンドリーな笑顔も、まだ序の口だった。
 全ての違和感はただ一点に集中していた。


 つまり── その男は、重力を無視して、宙に浮いていたのだ。

+ + +

「いやあ、長い事この稼業やっているけれど、ここまではっきりワタシを見た人間はアナタが初めてですよ〜」
 にこやかに男は言い、馴れ馴れしく彼の肩をポンと叩く。
 その足は相変わらず地についていない。
(…これって…『あなたの知らない世界』……?)
 そんな季節はずれな事をぼんやりと思いながら、彼はまじまじと男を見つめた。
 改めて見ると、男はそれほど奇抜な格好をしている訳ではなかった。
 …いや、奇抜は奇抜なのかもしれないが、彼の知っている格好ではあった。
 一般的な、ブラックフォーマル。もし男の足が地についてさえいれば、近所で葬式でもあったのかと思う服装である。
 年齢はよくわからないが、二十代中頃といった感じで、彼より少し上といった様子だ。
 少し目尻がつり上がった切れ長の目は髪と同様に黒く、日本人のようではあるが…その芝居がかった口調で何だか国籍不明だった。
 当然ながら、顔馴染ではない。
「…あんた、誰だ?」
 そこまで確認してから、彼はようやく口を開いた。
 男はその言葉ににんまりと笑い、白い手をひらりと振って答える。
「人の名前を聞く時は、まず自分が先に名乗るものではないですか〜? 三隅義孝(ミスミ/ヨシタカ)クン?」
「!?」
 まさに自分の名前を告げられて、彼はぎょっとした。
 こちらは相手を知らないのに、向こうはこちらを知っているなど当然思いもしていなかった。まさに不意打ちの言葉に唖然となる。
「何で……」
 打ち上げられた魚よろしく、口をぱくぱくさせる義孝を、男はにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら面白そうに眺め、当然のように言い放った。
「愚問ですねえ、その質問。ワタシのような職業の者に、そのような事を聞いてはイケマセンよ〜?」
「あ、あんた、何者だよ!?」
 ばかにするような口調さえも気にならない。薄気味悪さが先に立ち、義孝は絶叫した。
 その声に、周囲を歩く人々が驚いたように立ち止まり、いきなり大声をあげた彼をじろじろと見たが、それは義孝の視界には入っていない。
 完全に自分の心の平安だけに気を取られている義孝を、男は苦笑混じりに宥める。
「はいはい。ちゃあんと答えますからねー。とりあえず、こんな往来で叫ぶもんじゃないですよ? 他のヒトにはワタシは見えてないって事をわかってます?」
「!!」
「取り合えず、この場から速やかに移動する事をワタシはオススメしますが、いかがです?」
 くすくすと、小さく笑いを漏らしながら、男は覗き込むように忠告する。
 今、自ら自身の異常さを明らかにした事で、義孝がどれほどショックを受けたのかわかっていないようだ。
 強い眩暈(めまい)に襲われる。
 ──『他のヒトには見えていない』
 そんな事をさらりと言われて、はいそうですか、と納得出来るはずがなかった。
 だが、男は未だ宙に浮いているし、この上なく場違いな格好をしているにも関わらず、誰の注目も受けていないのもまた、明らかな事実なのだ。
 義孝は一度自分を落ち着かせるようにため息をつくと、ぐったりと頷いた。
「わかったよ…近くの公園にでも行こうぜ」
 すると、男はおや、といったような顔を見せ── しかしすぐに人を食ったような笑顔を貼り付けると、そうですねえと気軽に同意した。

+ + +

 昼間の公園は街中にあって、ひどく長閑だった。
「いやいやいや、いいですねえ」
 何がいいのか、日向ぼっこ中の老人を見て、男はにこにこ笑って言った。
 義孝の怪訝そうな視線に気付いたのか、妙に真面目くさった口調で男は解説する。
「人生八十年とは言いますが、その人生で心身ともにリラックスして過ごせるのは人生の最初と終わりくらいですからねえ。しかもこの忙しいご時世じゃ、最後まで寛ぎなど知らずに終わる方も少なくないでしょう。あのご老人は、ある意味人生の醍醐味をきっちりと味わっていらっしゃるのですよ。スバラシイじゃないですか」
 言われてみると確かにそんな気もしたが、何となく同意するのは腹立たしくて、義孝は黙って老人に目を向けた。
 そんな彼に、男は軽く肩を竦めたようだったが、それ以上は何も言わなかった。
「…それより」
「はい?」
「場所も変えた事だし、そろそろいいだろ。ちゃんと俺にわかるように説明してくれ」
「はあ…説明、ですか」
 公園内にある時計はそろそろ15時を示そうとしている。
 微かに傾いた太陽は相変わらず彼等を平等に照らしていたが── もしやと思ったら案の定、男の下にはあるべき影は見当たらない。
「お前、死人かよ?」
 意を決して尋ねれば、男は鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をした後、盛大に噴出した。
「あ…っはははははは!」
「なっ、何がおかしい!?」
「だ、だって…あまりに率直に尋ねてこられるものですから…くくく……」
「笑い過ぎだぞ。失礼な奴だな」
 憤慨して言うと、ようやくにして男は笑いをおさめる。かなり爆笑したようなのに、その顔はやはり妙に血色が悪くて気味が悪かった。
「いや、申し訳ございません。そうですね、まずその質問にお答えしますと…まあ、当たらずとも遠からず、ですネ〜」
 口元に笑みの名残を残しつつ、男はようやく説明する気になったようだった。若干神妙さを漂わせると、厳かに告げる。
「ワタシはあなた方の言葉にいたしますと…さしづめ、そう…『天使』といったところでしょうか」
「……」
「あ、なんです〜? その疑いのマナザシはっ!」
「お前、それは天使とやらに失礼ってやつじゃねえの……?」
 あまりに面の皮の厚い台詞に、それまで張り詰めていた緊張と毒気が抜ける。
 なんだ、ただのばかか、と心の中で安心した瞬間、不意に義孝の額に冷たいものが触れた。
「!?」
「失礼はどっちですか。今、何を考えました〜?」
 思いっきりにこやかな笑顔で尋ねられて、義孝の表情は引きつる。
 その事に構わず、義孝の額に突きつけた指をそのままに、男は言葉を重ねた。
「『天使』は『天使』でも── 世の中にはですネ、『告死天使』という者もいるのですよ?」
 その瞬間。
 義孝の視界は暗転した。

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