Evergreen 〜比翼の鳥〜
1
わたしはただ、失いたくなかっただけなのです。
失わずに済む術を持ちながら、みすみすあの人を失ってしまうなんて許せなかっただけなのです。
罪だとも思いませんでしたし、誰がわたしを弾劾しようとも、その時の選択を間違いだったとは思わないでしょう。
わたしは、幸せです。
長い事夢見た事が現実になる、その幸福を知らずにいる彼等こそが気の毒だと思います。
わたしは、幸せなのです。
この幸福が罪と言うならば、喜んでこの身に罰を受けましょう。
この身がたとえ今滅ぶとしても、わたしは決してあの時選んだ道を後悔しない。
…たとえ二度と、死の翼から大切なあの人を守る事が出来ないのだとしても──。+ + +
「…国境だ」
感慨も何も含まれない、その言葉で疲れが一気に吹き飛んだ。
「国境!?」
無意識に地面を睨んでいた顔を反射的に持ち上げると、声の主── リーフと目が合った。少し先で立ち止まり、相変わらずの無表情で見つめてくる瞳は暗い闇の色。
その顔に笑いかけて、アディは少しだけ疲れた身体に気合を入れると、彼に向かって小走りに駆け寄る。
彼の横に辿り着いてから前方を見ると、確かに遠く微かにだが、国境を示す櫓(やぐら)が見えた。
そこにはためく旗は鮮やかな緑と不吉さすら感じさせる黒。…現在、この地を名実共に支配する大国の国旗と、その隣国の国旗だ。
── まだこの国が『アディア』と呼ばれていた頃、そこには緑の旗はなく、黒い旗ともう一つ、赤地に白い星が染め抜かれた国旗が掲げられていたが、もはやその旗はこの地上の何処にも見る事はない。
「やっとだね! 長かったあ〜」
感慨もひとしおなアディを横目に、リーフは淡々とした口調で言ってくれる。
「まったくだ。冬が来る前に辿り着けて何よりだな。一時はどうなる事かと思ったが」
「…う」
本人には悪気がこれっぽっちもない(と信じたい)言葉は、後ろめたい所のあるアディの耳には痛かった。
というのも、今を遡る事十日。今までの野宿続きが祟ってか、それとも季節の変わり目で朝夕の気温の変動が激しい為か、アディが風邪をひきこんでしまい、数日間足止めを食らうという事態があったからだ。
もっとも、幼い頃からずっと旅を続けてきたアディの事だ。数日しっかり休息を取ると、すっかり全快したのだが。
…旧・アディアの北西に連なるユーフルク山脈の冬の訪れは何処よりも早い。
もし、雪でもちらつこうものなら、すぐにその一帯は雪で閉ざされ、街道は通行止めになってしまう。
そうなると国境を越えるには、山脈を大きく迂回するか、もしくは春の雪解けを待つより他はない。
特別急ぐ道中ではないけれど、一月以上の長い足止めを食らうのも、寒空の下の野宿が続くのも出来れば避けたい所だ。
何より、二人には一月も宿を取り続ける程の路銀などない。だからこそ雪が降る前に、何としても国境に辿り着き、西の大国と呼ばれるマザルークに入る必要があったのだ。
「…無事に着けて、良かったよ……」
心の底からそう思う。
国境さえ越えれれば、雪に足止めを食わずに済むし、当初の目的── 国境を越える、も達成される。数日の時間を取り戻す為に、今まで以上に道中を急いだ甲斐があったというものだ。
「国境近くに街があるって話だったが…今日はそこで泊まりだな」
アディとは対照的に、何処までも感情を感じさせない声音でリーフが言った言葉に、アディの目は輝いた。
「…久し振りに屋根のある所で眠れる……!」
「……」
胸の前で両手を組み、普段なら祈りもしない何かに感謝するアディを胡乱気に見つめ、リーフはこっそりため息をつく。
十代中頃の少女が目を輝かせて言う台詞としては、あまりにも悲しい台詞だ。
だが、リーフとしても流石に連日の野宿は身体に堪える。何しろ、夜の森は何かと物騒な上に、連れはまったく自覚がないものの、一応は年頃の少女だ。
そして── その身に、大きな秘密を抱えている。
二重の意味で彼女を守る為に気を張り詰めねばならない為、肉体的なものより精神的な疲労が彼を苛み始めていた。
(…もし、これが本来の運命のまま生きていたなら……)
時折、リーフは考える。
仮定するだけ、無駄だと思いながらも。
(野宿や…凍えたり、飢えたりする事など、なかったはずだ)
本来アディに与えられていた人生は、こんな風に特に当てもなく流離うようなものではなかった。その代わり、とても短いものか淋しいものになっていただろう。
そう…何事もなかったなら、国境を越える事などなかったし、こうして旅などする事もなかったのも確かだが、こうして伸び伸びと日々を生きる事もなかったのも、また事実だ。
そう考えると、人の一生とはほんの些細な事で生き方がまったく変わってしまうものだと思う。
「…リーフ? どうしたの、行かないの?」
怪訝そうなアディの言葉で、思考の海から浮上する。
「何でもない。…行こう」
「? 変なの」
アディは何処となくすっきりしない顔だったが、追求はして来ない。その事に内心ほっとしながら、リーフは足を動かし始める。
『もし』を考えてもどうしようもない事だ。もう運命は動き出してしまっているし、過ぎ去った時は戻せない。そうする術も、ない。
そう── あの時、アディの運命を変えた時に、彼の運命もまた大きく変わってしまったのだから。+ + +
この世界において、人間には一人一人それぞれ違った天使が守護している。
彼等の姿は守護の対象となる人間の目には、決して見える事はない。そして、彼等の言葉もその耳に届きはしない。
それでも彼等が人々を守護するのは── 過去に何度も滅亡を繰り返す原因となった『人間』を監視する為だ。
守護する人間を出来る限り『善』へと導くのも、偏にそれが世界の調和を担う彼等に課せられた義務だからで、普通は天使は自らの守護する人間に対して特別な意識など持つ事もない。
ただ対象が堕落した場合、彼等自身にも責を問われるが故に、守護をしていると言っても過言でないのだ。
…それでも、ごく一部の天使は自ら守護する人間を慈しみ、親しむ。だが、そんな彼等は天使の中でも変わり者として見られ、ばかにされる事も多いのだった。
リーフ── 天使・リフェイもかつては義務だけで守護をしていた。過去に何人もの人間を見守ってきたが、その運命に関与する事など数える程だった。
無駄だと思っていたし、人に心を砕くなどとても理解出来なかった。
個人単位でなら、確かに善人と呼べる者は少なくない。しかし、結果を見たらどうだ。結局、一握りの堕落した人間によって、世界は何度も滅びかけたではないか── と。
そう、思っていたのだ。人に必要以上に関わるなど、愚の骨頂だと。
── 最後に守護した、今は滅んだアディアの王女…アディライト=ケイナ=アディアの運命の瀬戸際までは。+ + +
国境に接する街・トワルに二人が辿り着いたのは、冬の早過ぎる夕暮れ時の頃だった。
方々から夕餉の支度する匂いが漂い、必要以上に食欲を刺激する。
「ねえねえ。今日は何処に泊まる?」
国境に接するだけに、宿はいくつも軒を連ねている。そのどれもが立派で、相当にこの街が潤っている事が伺えた。
暖かい食事と、屋根の下で眠れる喜びに顔をほころばせるアディに対して、リーフは相変わらず嬉しいのか不機嫌なのかわからない無表情で周囲をぐるりと見回す。
確かにこれだけあればよりどりみどりだが、国境を越えるには通行証を発行して貰わねばならないし、これだけの規模の街となると発行に数日かかる可能性もある。
さりげなく入り口に書かれた宿代を見て回ると、予想通りと言うべきか、今まで泊まってきた宿よりいくらか高めに設定されていた。
…これでは、一日二日で済むのならいいが、数日以上になるといささか懐具合が厳しい。そこまで確認してから、ちらりと視線をアディに向け、リーフは淡々と言い切った。
「…少なくとも、この辺りの宿は無理だな」
「えっ」
ガンッ!、と後ろから頭を殴られたかのような顔になると、アディはようやく現実を直視する気になったらしい。
慌てたように周囲をぐるりと見回して── そしてリーフの言葉が正しい事を悟ったのか、はあ、と重いため息をついた。
「うう…やっと休めると思ったのに〜」
そのままへなへなと崩れ落ちそうな雰囲気で嘆き、アディは傍目でもはっきりとわかる程に肩を落とす。
何しろここ数日というもの、強行軍と言っても差し支えのない道中を来たのだ、いくら若いアディでも疲労は相当に溜まっていた。
ついでに今日は昼もろくに食べていない。空腹感も最高潮に達しかけていた。
「仕方がないだろう。…他を探そう」
「…うん、そうだね」
珍しく何処か励ますようなリーフの言葉に、アディはまた笑顔を取り戻す。
これだけの街だ。探せば二人が数日泊まれるくらいの宿が何処かにあるに違いない。
楽観的にそう考えると、アディはよし、と気合を入れた。まだ完全には周囲は暗くなっていない。今から頑張ればきっと見つかる。
そんなアディを相変わらず何を考えているのかわからない顔でリーフが見ている。…一人じゃない。だから、きっと何とかなる。
「…へへっ」
そう思うと何となく嬉しくなって、つい笑みが零れる。
一人ではないって、なんて嬉しい事なんだろうと思う。── が、そんな事を思っているなど当然わからないリーフは、いきなり笑ったアディを薄気味悪そうに見つめるばかりだ。
「じゃ、急いで探そう!」
「…ああ」
そして二人は宿を求めて、街の雑踏へと足を踏み出したのだった──。→Next